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でえと

電車に揺られること三十分。

休日の水族館は、思ったより人が多かった。


「……すごい人ね」

「みんな考えることは同じなんだろ」

「魚を見たくなる季節なのかしら」

「そんな季節あるのか」


チケットを買い、中へと足を踏み入れる。

ひんやりとした空気。青い照明。ゆらゆらと揺れる水の光。


「わ……」


透歌は少し目を輝かせた。

前世に水槽そのものはあった。けれど、こんな巨大な施設は存在しなかった。ましてや、“娯楽として魚を見る場所”なんて。


「綺麗……」


大水槽の中を、巨大なエイが滑るように泳いでいく。

子どもたちの歓声とスマホのシャッター音。その全部が新鮮だった。


「透歌」

「なに?」

「口開いてる」

「っ、開いてない!」


慌てて口を閉じる。隣で宵が少し笑った。


「楽しそうでよかった」

「……楽しいわよ、すごく」


少し悔しいので、小声で付け足す。


「宵といるし」

「ん?」

「なんでもない!」


その時、ぬるりとした影がガラスに張り付いた。巨大なタコだった。

しかもものすごく顔が近い。吸盤がみっちりと見える。


「……ちょっと怖いわね」

「めちゃくちゃ見てるな」


タコはなぜか透歌を凝視していた。賢そうな目。絶対なにか考えている。

横の説明パネルには『タコは非常に知能が高く、人の顔を見分けることがあります』とあった。


透歌が思わず後ずさる。


「認識された」

「敵認定されたかもしれないな」

「なんでよ」


その直後、べちゃ、とタコが墨を吐いた。しかも透歌の真正面で。


「っ!?」

「ははっ」


宵が吹き出した。かなり珍しい。普通に笑っている。


「笑わないで!」

「いや、タイミングが完璧すぎる」

「絶対嫌われてる!」

「タコに?」

「タコに」


透歌がじとっと睨むが、宵はまだ肩を揺らしていた。


「……そんな笑う?」

「ごめん。でも面白い」

「最低」

「かわいかった」

「許さない」


そのまま進んでいくと、今度はペンギンエリアだった。

よちよち歩く姿に、透歌のテンションが急上昇する。


「見て、宵。歩いてる」

「ペンギンだからな」

「かわいい」

「そうだな」


すると、一羽のペンギンが透歌の前で止まり、じーっと見上げてきた。


「……また認識された」

「お前、生き物に好かれるな」

「さっきタコに墨吐かれたのだけど」

「両極端だな」


ペンギンはしばらく透歌を見つめたあと、ぷいっとそっぽを向いて去っていった。


「えっ」


透歌が固まる。


「今の何?」

「塩対応」

「ショックなのだけど」


その横で、小学生くらいの女の子が母親に言った。


「ママ〜、あのお姉ちゃんペンギンにフラれてる〜」

「しーっ」


宵がまた吹き出す。


「宵、笑いすぎよ今日」

「しょうがないだろ。透歌が面白い」

「不本意すぎる」


その後も、クラゲエリアでぼーっと癒やされたり、チンアナゴを見て「思ったより細いわね」と真顔で感想を言ったり。アザラシがガラスに激突して子どもを泣かせるハプニングもありつつ、かなり満喫した。


館内の休憩スペース。透歌はジュースを片手にぐったりしていた。


「……水族館って、意外と体力使うのね」

「はしゃぎすぎ」

「誰のせいだと思ってるの」

「タコ」

「タコ許さない」


宵が笑う。また笑う。今日だけで、たぶん前世一年分くらい笑っている。

透歌はストローを咥えながら、ふと宵の横顔を見た。

自然に笑う表情、穏やかな目、肩の力の抜けた空気。


(……よかった)


前世では、こんな風に笑うことは少なかった。

いつも何かを背負っていた。守るために、抗うために。

でも今は、ただ隣にいる。それだけでいい。


「ねえ、宵」

「ん?」


透歌は少し笑って言った。


「今世、結構楽しいわね」


宵は少しだけ目を細めて、静かに頷いた。


「ああ。まだ始まったばっかりだけどな」


水槽の青い光が、二人をやわらかく照らしていた。休憩スペースを出ると、館内アナウンスが響き渡った。


『まもなく、イルカショーが始まりまーす!』


子供達が一斉に走り出し結局、流されるように二人もイルカショーを見ることになった。

観客席はかなり埋まっており、前列の子どもたちはカッパを完全装備している。

透歌がその様子を見て首を傾げた。


「……なぜ防水装備?」

「察しろ」

「?」


数分後、その意味を察した。

ばしゃああああん!!


「きゃああああ!?」


前列に、とんでもない量の水飛沫が襲いかかる。悲鳴と歓声。子どもたちはむしろ大喜びしている。


透歌は若干引き気味で、後方の席からその光景を見つめた。


「戦場……?」

「平和な戦場だな」


ショーが始まる。イルカが飛び、回り、跳ねる。そのたびに観客から拍手が沸き起こった。


「……すごい」


透歌は素直に感心していた。


「本当に飛んでる」

「だから言っただろ」

「前世で見せたかったわね、これ」

「パニックになるぞ」

「確かに」


すると、司会のお姉さんが元気よく声を張り上げた。


『それでは次、お客さんにも参加してもらいまーす!』


嫌な予感が過る。


『そこの黒い服のお兄さん!』


指されたのは、宵だった。


「…………」

「…………」


透歌がゆっくり隣を見る。宵も無表情で前を見つめている。完全に“巻き込まれた顔”だった。


『ぜひ前へどうぞー!』


観客の拍手に押され、逃げられない空気が出来上がる。


「……行ってきたら?」


透歌が肩を震わせながら言う。


「笑ってるだろ」

「いいえ全然」


口元は完全に笑っていた。

渋々ステージへ向かう宵。その姿に、周囲の女子高生たちがざわつき出す。


「あのお兄さんかっこよくない?」

「え、モデル?」

「顔良……」


それを見て、透歌はなんとなく面白くなくなった。

ステージ上でお姉さんが説明する。


『イルカさんにサインを出してジャンプしてもらいます!』


宵は無表情のままだ。


「頑張って〜!」


透歌が超笑顔で手を振る。絶対に楽しんでいる。

ぴっ、と宵がぎこちなく手を上げた。次の瞬間、イルカが大ジャンプを見せる。観客から大歓声が上がった。


だが、着水の方向がおかしかった。

ばしゃああああん!!!


「っ!?」


見事に宵へと直撃する。びしょ濡れになった。

一秒の沈黙の後、透歌は耐えきれず吹き出した。


「っ、ふ……あはははっ!」


お腹を押さえて笑う。今世で一番のレベルで笑っている。


「宵、すごい格好……っ」

「……透歌」

「ご、ごめ……っ、無理……っ」


涙まで出てきた。観客席の子どもたちからも拍手が送られる。


「お兄ちゃーん!」

「ナイスー!」


完全にヒーロー扱いだった。

宵は濡れた前髪をかき上げながら、席へと戻ってきた。


「……散々だ」

「ふふっ、でも人気者だったわよ」

「嬉しくない」


透歌は笑いながらハンカチを差し出した。宵がそれを受け取る。

その時、ふと目が合った。

笑いすぎて少し潤んだ透歌の瞳。楽しそうな顔。頬に残る笑み。

宵が少しだけ静かになる。


「……そんな顔するんだな」

「え?」

「前世じゃ、あんまり見なかった」


透歌は少し瞬きをして、それから、ゆっくりと微笑んだ。


「今、幸せだからじゃない?」 


その言葉に、宵は何も返さなかった。ただ、静かに笑った。とても穏やかに。

水槽の向こう。青い水の中を、イルカたちが自由に泳いでいく。

誰にも決められない場所へ。どこまでも。



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