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北方の女神と王都の聖女

王都商工会本部。


空気は重く、苛立ちが張りつめていた。


「北辰経由の流通、さらに増加しています」


「地方商会三件が、王都直轄から離脱希望を――」


「価格統制が効いていません」


報告が積み重なるたびに、千隼の表情は険しくなる。机の上の書類を乱暴に払った。


「もういい」


会議室が静まり返る。


「原因は明白だ。地方に自由を与えすぎた」


「……は?」


若い役人が息を呑む。その顔に浮かぶのははっきりとした困惑。


「透歌のやり方が甘やかしたんだ」


元婚約者の名を、吐き捨てるように言う。


「分散?裁量?信頼?くだらない」


千隼は立ち上がり、机を叩く。怒気の滲んだ音が響いた。


「王都は中心だ。従わせればいい」


その日、彼が打ち出した新制度は、


完全中央統制令。


全地方価格を王都基準に強制統一し独自基金の設立を禁止する。未承認商会との取引は罰金対象。申請審査は王都で最終決定


理屈は一つ。


「北辰を締め出せ」


合理性ではない。感情だった。

制度は即日施行された。だが、三日で歪みが出る。


「北方の羊毛が届きません!」


「価格が合わず、商人が出荷拒否を――」


「備蓄禁止で、冬前の不安が拡大しています!」


千隼は怒鳴る。


「違反者には罰金だ!」


「ですが、商人が取引自体を止めています!」


中央統制は、理論上は強い。だが王都は広すぎた。現場を知らない価格設定。季節を無視した流通制限。感情で決めた罰則。


市場は、従うより止まることを選んだ。

王都市場に広がる声。


「北辰のほうが安心だ」


「王都は急に規則を変える」


「怖くて在庫を抱えられない」


囁きが広がる。


疑いが、困惑が綻びとなり今まで編み上げられてきた信頼は静かに解けてきていた。

会議室。


「統括、見直しを」


役人の声は震えている。


「現場から悲鳴が上がっています」


「……黙れ」


千隼は低く言う。


「崩れているのは透歌のせいだ」


誰も返事をしない。


「比べるな!」


机が激しく叩かれる。


「北辰は小規模だから回るだけだ!王都とは違う!」


だが数字は残酷だった。


王都流通指数、前年比マイナス23%。備蓄不足率、急上昇。地方離脱、さらに二領。制度はまだ一週間しか経っていない。


それなのに。


「……修正案を」


「修正?弱腰になるのか?」


千隼の目は血走っている。


「締め付けが足りない。もっと厳しくする」


役人たちは顔を見合わせる。それはもはや改革ではない。


報復だと。

梟のなく夜。


執務室で散乱する書類。未処理の山。窓の外、王都の灯りはどこか薄い。


千隼は独り言のように呟く。


「俺は、間違っていない」


透歌の名を、心の中で否定する。冷酷なまでの合理性を。可愛げのない女を。彼女がいなくても回る。回るはずだった。


なのに。


なぜ止まる。なぜ誰も信じない。机の上に置かれた報告書。


――北辰商会、今冬備蓄率九割達成。


紙を握り潰す。ぐしゃっという音が惨めさを掻き立てた。


「……っふざけるな!!!!」


怒りは、もはや制度ではなく自分の無力さへのものだった。


王都は崩壊していない。だが、流れは止まっている。中央は重く、動かない。


地方は静かに離れ、市場は北を見る。


感情で作られたシステムは感情のまま軋む。


そして――


ひびを広げていく。


中央の輝きはもうなかったのかもしれない。千隼が見ていた輝きは何光年も前のものだったのかもしれない、と。


北の星は確実に光っていた。


***

白鷺萌乃は、物心つく前から「聖女」と呼ばれていた。


それは神託でも奇跡でもない。


ただ、そう呼ばれ続けただけだ。


幼い頃、熱を出した子の手を握れば、 偶然その子は翌日に回復した。


転んで泣いていた侍女に微笑みかければ、 その日は不思議と悪い知らせが来なかった。


小さな偶然。だが人は、偶然を意味に変える。


「この子は清らかだ」


「光の子だ」


そう言われ、そう扱われ、そう期待された。

萌乃は聖女になっていった。

王都は揺れている。


流通は不安定。 商会は軋み、 地方は離れ始めている。


そして北では、 断罪された透歌が商会を躍進させている。


噂は、確実に王都へ届いていた。


「北辰のほうが安心らしい」


「価格が安定している」


その言葉が、萌乃の胸を締める。


(私は、王都の希望なのにっ……!!)


聖堂に足を踏み入れると、 自然と人が道を空ける。


「聖女様」


その呼び名が、今日は重い。萌乃は祈りの台の前に立つ。


信仰は、人の不安が深まるほど強くなる。王都は今、不安だ。


だから視線が集まる。


(何か……示さなきゃ)


祈る。


具体的な奇跡ではない。ただ、王都が持ち直しますように。


目を閉じる。


静寂。


やがて、ざわりと空気が変わる。それは光ではない。


だが、窓から差し込んだ夕陽が、ちょうど萌乃の背を照らした。


白い豪奢な着物が淡く輝いて見える。きらきらと金の髪飾りが反射し水晶は虹の光を創り出す。


誰かが息を呑む。


「……光っている」


囁きが波のように広がる。萌乃は目を開ける。特別な力を使った感覚はない。


ただ、皆がそう見ただけだ。


「聖女様が祈れば、王都は守られる」


誰かが言う。その瞬間、空気が変わる。


不安は完全には消えない。だが、拠り所が生まれる。信仰は、事実よりも強い。

千隼の元へ報告が届く。


「聖堂での祈祷後、市場の混乱が一時的に収まりました」


「……心理効果か」


千隼は低く呟く。制度は穴だらけだ。だが人は、数字より感情で動く。萌乃は象徴。


透歌が仕組みを作るなら、


萌乃は安心を作る。


「……使える」


その言葉は冷たい。だが同時に、焦りを隠している。千隼の制度は失敗した。


信頼は薄い。ならば。信仰で補う。

聖堂前。


萌乃は人々に囲まれていた。


「聖女様、王都は大丈夫でしょうか」


「北方に負けませんよね」


萌乃は微笑む。それは訓練された笑み。だが今日は、少しだけ強張っている。


豪奢な着物、施された化粧。このような状況でも髪飾りには豪華な真珠や金剛石や翡翠、水晶、金がふんだんに使われている。


(私は、選ばれたはず)


透歌は理で動く。自分は心で支える。


そう思わなければ、立っていられない。


「王都は守られますよ。皆、千隼様を支えなさい」


静かな声。


断言ではない。だが人は、確信よりも言葉を求める。


歓声が上がる。


その瞬間、萌乃の胸に奇妙な感覚が生まれる。


温かい。だが同時に、空虚。


信じられることで、形を持つ。


信仰は、本人の力以上に膨らむ。


そしてその膨張は、時に制御できない。

北方。


報告を読んだ透歌は、静かに言う。


「……信仰が、戻ったのね」


宵が肩をすくめる。


「光ったわけじゃない」


「分かってるわ」


透歌は微笑む。


「でも光ったと見えた。それで十分」


王都は制度で持ち直し、 信仰で支えられる。

完全な崩壊は、遠のいた。


「怖いか?」


宵が問う。


透歌は首を振る。


「いいえ。信仰は強い。でも、続くには基盤がいる」


北辰商会の倉庫は、今日も動く。


蜂蜜は積まれ、 羊毛は束ねられ、 干し芋は箱に詰められる。


王都は祈る。北方は積み上げる。


どちらが正しいわけではない。


だが。


信仰は、人が不安なときほど強くなる。


そして。不安が消えたとき、それは何を残すのか。


萌乃は聖女と呼ばれ続けてきた。


だからこそ今、


その名に縛られ始めている。

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