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春と晴る

 北方に、ようやくやわらかな春が訪れていた。


 凍りついていた大地は、透歌と宵が来た頃とはまるで別の顔をしている。雪解け水が細い川となってきらめき、荒れ地だった畑には小さな緑が顔を出し始めていた。


「……芽が出てる」


 透歌はしゃがみ込み、土に指先を触れた。冷たい。けれど、もう“痛い冷たさ”ではない。


 その横に、宵が静かに立つ。


「根付いたな」


 短い言葉だが、声音はどこか誇らしげだった。


 この畑は、北辰商会の最初の共同農地だ。凶作続きで放棄されていた土地を、商会の資金と人手で耕し直した。透歌が土壌改良の方法を示し、宵が人々をまとめ、冬の間じっと準備を重ねてきた。


「皆が、頑張ってくれたから」


 透歌がそう言うと、宵はわずかに首を振る。


「違う。お前が、信じさせた」


 透歌は思わず顔を上げる。


 元公爵令嬢として断罪され、すべてを失ったあの日。誰も彼女の言葉を信じなかった。正しさも、善意も、踏みにじられた。


 けれどここでは——違う。


 人々は彼女の話を聞き、彼女の示す道を選んでくれた。


「……宵が、隣にいてくれたからだよ」


 そっと言うと、宵の視線がわずかに揺れる。


 風が吹いた。春の風だ。


 凍てつく北方に、こんなに柔らかな風が吹く日が来るとは、誰が思っただろう。

 午後、商会の倉庫はにぎやかだった。


「透歌様! あの“甘い丸パン”、もう一度作ってくれませんか?」


 若い商人見習いが目を輝かせる。


「ああ、あれか」


 宵が少し笑う。


 透歌が試作で作った、外は少しカリッと、中はふんわり甘い丸いパン。北方では珍しい砂糖と卵を使い、表面に甘い生地をかぶせて焼いたものだ。形が丸く、格子模様を入れたそれは、まるでどこか懐かしい“めろんぱん”のようだった。


「今日は皆で作ろうか」


 透歌が袖をまくると、倉庫の一角が即席の厨房になる。


 粉を量り、水を混ぜ、こねる。


「手のひらで押して、折って、また押して……そう、それでいいよ」


 透歌が優しく教えると、少女が嬉しそうに笑った。


「透歌様、前より笑うようになりましたね」


 ふいにそう言われ、透歌の手が止まる。


「……そう、かな?」


「はい! 前はもっと、こう……綺麗だけど、遠い感じでした」


 その言葉に、宵が横から口を挟む。


「今も十分遠いがな」


「宵、それ褒めてないよ」


 思わず笑いがこぼれる。


 その笑い声が、倉庫いっぱいに広がった。

 焼き上がった甘い香りが漂う。


 外はさくり。中はふんわり。


 子どもたちがかじりつき、頬を緩める。子供特有の赤みのある柔らかな頬と黒目がちな瞳がきらきらと輝いている。


「おいしいっ!」


 その声を聞いた瞬間、透歌の胸の奥がじんわりと温かくなった。


 王都で過ごした日々。豪奢な晩餐。きらびやかな舞踏会。


 けれど——こんな笑顔は、あっただろうか。


 誰かのために、心から何かを作る時間。

 それを分かち合うひととき。


 公爵令嬢という立場も、華やかな未来も、すべて失ってここにいる。


 透歌は少しだけ空を見上げた。


 高く澄んだ北の空。王都の空より、少しだけ広い気がする。


 宵が子供達と戯れ、笑う。透歌の胸が、ふわりと揺れる。


 距離は、まだ近くはない。


 それでもあの日、あの夕日で口吻られた手が。


 距離は確実に——縮まっている。


 雪が溶け、芽が出るように。


 凍った心が、少しずつ柔らかくなっていくように。


 北方の再生は、土地だけではない。


 人も。想いも。


 静かに、確かに、芽吹いていた。



 次の日の朝、まだ空が薄青く滲むころ、透歌は小さな鍋を抱えて外に出た。霜がきらめく庭先に、白い息がふわりと浮かぶ。


「……やっぱり、冷たい」


 けれど、その冷たさが心地いい。


 今日は商会の“朝市”の日だ。週に一度、農家や職人たちが広場に集まり、互いの商品を持ち寄る。透歌の提案で始まった小さな市は、今では北方の楽しみになっていた。


 広場に着くと、すでに人が集まり始めている。


「透歌様、おはようございます!」


「今日は何を持ってきたんですか?」


 透歌は笑って鍋の蓋を開けた。


「新作のスープ。春野菜と鶏の出汁だよ」


 まだ芽吹いたばかりの若い葉を刻み、じっくり煮込んだ優しい味。試しに一口すくって飲むと、じんわりと身体が温まる。


「……これ、朝にぴったりだ」


 背後から低い声。


 振り返ると、宵が腕を組んで立っていた。いつの間にか、子どもが彼の外套の裾を引っ張っている。


「宵様、これ持って!」


 小さな籠を差し出され、宵は無言で受け取る。


 透歌は思わず吹き出した。


「ずいぶん慣れたね」


「……仕方ないだろう」


 そう言いながら、籠を持つ手はやけに優しい。


 昼前になると、透歌は子どもたちに囲まれていた。


「透歌様!文字、もう一回教えて!」


 北方では、読み書きができる者は少ない。透歌は空き時間を使って簡単な読み書きの教室を開いていた。


 木の板に炭で文字を書く。


「これは“はる”。春だよ」


「はる!」


 声を揃えて真似する子どもたち。


 透歌は一人ひとりの手を取り、ゆっくりと線をなぞらせる。


 その指先のぬくもりが、かつて王都で感じたものとはまるで違う。


 宵が少し離れた場所から、その光景を見ている。


「透歌は、教えるのが上手いな」


「そうかな?」


「叱らない」


 透歌は少しだけ目を伏せた。


「……叱られる側だったから、かな」


 王都での記憶が、胸の奥に淡くよぎる。

 けれど、もうそれは鋭い痛みではない。


 子どもが突然、透歌の腕にぎゅっと抱きついた。


「透歌様、すき!」


 不意打ちに、透歌の頬が赤くなる。


「ちょ、ちょっと……!」


「残念。透歌は俺の大切な人だからな」


「宵!?」


 周りの皆が囃し立てる。


「人気者だな」


「宵だって、さっき籠持たされてたでしょ」


「……あれは任務だ」


「どんな任務?」


「子どもの機嫌を。損ねないこと」


 真顔で言うものだから、透歌はとうとう声を立てて笑ってしまった。


 夕方。


 朝市の片付けも終わり、空は淡い橙色に染まっていた。


 透歌は広場の端に腰を下ろす。


 今日は売上も上々。野菜も布も、パンも、よく売れた。何より、皆が楽しそうだった。


「疲れたか」


 宵が隣に立つ。


「ううん。心地いい疲れ」


 透歌は両手を広げて空を仰ぐ。


「ねえ、宵。ここ、笑う人が増えたね」


「ああ」


「最初に来たときは、みんな俯いてた」


「今も問題は山積みだ」


「うん。でも——」


 透歌は微笑む。


「明日も頑張ろう、って顔してる」


 それは、再生の証だった。大きな改革でも、劇的な奇跡でもない。


 毎日の小さな積み重ね。


 温かいスープ一杯。焼きたての甘いパン。拙い文字。籠を持つ手。


 そのすべてが、この北方を少しずつ変えている。


 宵が、そっと透歌の肩に外套をかけた。


「冷える」


「ありがとう」


 外套越しに伝わる体温。


 距離はまだ、指先が触れ合うほど。けれどその近さが、今は心地いい。


「透歌」


「なに?」


「……春は、悪くないな」


 透歌は目を細める。


「うん。悪くない。むしろ──大好き」


 沈みゆく夕日が、二人を同じ色に染めていた。


 北方の再生は、今日も静かに続いている。

 笑い声と、ぬくもりと共に。


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