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甘いパンと格子柄のらしさ

昼下がりの台所は、やわらかな光に満ちていた。


 窓の外では、初夏の風が若葉を揺らしている。遠くで小さな子どもの笑い声がして、鍋の中では湯が静かに音を立てていた。


 そんな穏やかな空気の中で、透歌は真剣な顔をして机に向かっていた。


「……宵」


「その声は危険なやつ?」


「挑戦よ」


 振り返った透歌の瞳は、妙にきらきらしている。


 机の上には小麦粉、砂糖、卵、溶かしたバター。


 そして、彼女の少し癖のある文字で書かれた紙。


【めろんぱん(できるだけ近づける)】


 宵はそれを覗き込み、くすりと笑った。


「“できるだけ”ってところが現実的だな」


「北方には本物はないもの。だから、作るの」


 透歌は小さく息を吸う。


「前世で好きだったの。外はさくさくで、中はふわふわで……ちょっと甘くて。疲れた日に食べると、少しだけ救われた気がした」


 宵はその言葉を、静かに受け取った。


 王都にいた頃、透歌は決して“救われたい”などと言わなかった。常に与える側で、背負う側で、倒れない側だった。


 今は違う。


「じゃあ今日は、その救いを再現する日だな」


「ええ。計量、お願い」


「重要任務だな」


 二人で並んで材料を量る。透歌は意外と大雑把だった。


「砂糖、ちょっと多い気がする」


「……甘いのは正義よ」


「山盛りは正義じゃない」


 宵が軽く指摘すると、透歌はむっとする。


「料理は気持ちなの」


「いや、科学」


「夢がない」


 けれどその言い合いは、どこか心地いい。

 王都では、透歌の言葉に異を唱える者はいなかった。


 誰も彼女の手元を覗き込んで「それ違う」とは言わなかった。


 今は違う。


 こねる手が触れ合う。一瞬、どちらも止まる。


「……水、もう少し足す?」


「うん。少しだけ」


 自然に距離が縮む。パン生地の上にクッキー生地をかぶせ、格子模様を刻む。


 透歌の線は少し歪んでいた。


「綺麗にできないわ」


「それでいい」


「どうして?」


「透歌らしいから」


 思わず手が止まる。窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らす。


「……王都では、らしさなんて許されなかった」


 ぽつりと落ちた言葉。


「常に“正解”でいないといけなかったの」


「うん」


「焦げたら失敗。間違えたら無能。感情を見せたら弱い」


 宵は何も言わず、ただ隣に立つ。


 それだけで、透歌の肩の力が少し抜けた。

 やがて焼き窯から、甘い香りが広がる。

 焦げ目のついた、丸いパン。


「……ちょっと焦げた」


「ちょっとじゃないな」


「でも」


 透歌はそっと割る。中は、ちゃんとふんわりとしている。湯気が立ちのぼる。


一口、かじる。甘さが広がる。


「……甘い」


「うん」


 少しだけ砂糖が強い。少しだけ焦げの苦みがある。


 でも、温かい。透歌は目を細めた。


「完璧じゃないわね」


「うん」


「でも、嫌いじゃない」


 宵は微笑む。


「俺も」


 透歌はパンを見つめながら、ゆっくり言った。


「ねえ。失敗しても、笑っていられるのって……すごいことね」


「そうか?」


「王都では、失敗は命取りだった」


 静かな告白だった。宵は少しだけ真剣な顔になり、言う。


「ここでは違う」


「……うん」


「焦げてもいいし、甘すぎてもいい。直せばいいだけだ」


 透歌は小さく息を吐く。


 胸の奥の、固く張り詰めていた糸が、ほどけていくようだった。


「改良する?」


「もちろん」


「共同研究だな」


「次は砂糖を減らすわ」


「ちゃんと量ろうな」


「あなたがね」


 二人で笑う。外から子どもたちの声が聞こえた。透歌は籠にパンを入れる。


「おすそ分け」


「焦げてるけど」


「甘いから大丈夫よ」


 丘に出ると、風が頬を撫でる。子どもたちが駆け寄る。


「今日はなに?」


「新作よ」


 一口食べて、ぱっと顔が明るくなる。


「甘い!」


「おいしい!」


 その無邪気な声を聞いて、透歌は胸がじんわりと温かくなる。


 王都で求められていたのは、完璧な統治。

 完璧な立ち振る舞い。完璧な悪役。


 でもここでは、焦げた甘いパンでも笑ってもらえる。


 宵が隣に立つ。


「透歌」


「なに」


「今の顔、好きだ」


「……どんな顔?」


「安心してる顔」


 透歌は少しだけ照れ、視線を逸らす。


「あなたがいるからよ」


 その言葉は、思ったより素直に出た。宵が一瞬だけ息を止める。


「……それ、ずるいな」


「なにが?」


「俺まで嬉しくなる」


 風が強く吹く。焦げた甘い匂いが、青空に溶けていく。透歌は空を見上げた。


「ねえ、宵」


「うん」


「物語じゃなくても、幸せって作れるのね」


「作ってる途中だろ」


「そうね」


 まだ改良の余地はある。少し甘すぎて、少し不格好で、でも温かい。


 そのパンみたいに。


 透歌はそっと笑った。


「次は、もっと上手に焼くわ」


「うん。一緒に」


 焦げ目のついた丸いパンが、夕日に染まる。再生は劇的じゃない。甘い失敗を重ねながら、少しずつ。


 二人の距離も、同じように。

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