記憶改竄
違和感は、朝の光と一緒にやってきた。
学園への復帰から一月後。
透歌は校舎へ足を踏み入れた瞬間、わずかに足を止めた。
空気が違う。温度ではない。視線の質だ。
ひそひそとした声が、止まない。
これまでも噂はあった。評価操作もあった。
だが今日は、それが“前提”になっている。
まるで——もう確定した罪のように。
教室の扉を開ける。
一瞬、音が消えた。
それから、わざとらしく再開するざわめき。
「……おはようございます、透歌様」
萌乃が立ち上がり、深く礼をする。
完璧な所作。
身分差を弁えた態度。
柔らかい微笑み。
けれど。
その瞳の奥に、かすかな安堵がある。
「おはようございます、萌乃様」
透歌はいつも通りに微笑む。
声を揺らさない。
周囲の視線が刺さる。
“怖いよね”
“またやったんでしょ”
“千隼様まで巻き込むなんて”
胸の奥で、冷たいものが沈む。
また?
何を?
「透歌様」
低い声が背後から落ちる。
宵。
彼は一歩後ろに立ったまま、静かに告げた。
「整合性が崩れています」
「やっぱり?」
「はい。昨日時点の空気と一致しません」
透歌は席に着きながら、ゆっくりと記憶を辿る。
昨日の午後。
討論の復習。
実技演習。
萌乃とは廊下ですれ違っただけ。
千隼とは短い挨拶のみ。
衝突も、諍いも、何もなかった。そのはずだ。
扉が開く。空気が一瞬で張り詰める。千隼。
この学園の頂点。
透歌の婚約者。
立場は、変わらない。
だが。
彼の目が、明確に冷えている。
「……透歌」
敬称なし。静かな教室に落ちる低い声。
透歌は立ち上がる。
「千隼様」
「話がある」
短い言葉。拒否の余地はない。廊下へ。
背後の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
向かい合う。距離はいつもと同じ。だが、目に宿る色が違う。
「君は」
千隼が言う。
「いつから、そこまで愚かになった」
透歌は瞬きを一つ。
「……何のことでしょう」
「とぼけるな」
抑えた怒り。
「昨日の件だ」
昨日。透歌は記憶を辿る。
何も、ない。
「具体的にお聞かせ願えますか」
冷静に問う。千隼の眉が寄る。
「萌乃を、階段から突き落としかけた」
言葉が、落ちる。静かに。だが決定的に。
透歌の思考が一瞬、白くなる。
「……そのような事実はございません」
「証言は揃っている」
「誰の」
「複数名だ」
複数。偶然ではない。誘導でもない。透歌は理解する。
これは——
「嫉妬だと、皆が言っている」
千隼の声は、冷静を保っている。だが、その奥に“失望”が混じる。
「千隼様は、どうお考えですか」
真正面から問う。婚約者としてではなく、一人の人間として。
千隼は、わずかに視線を逸らす。
「……証言が一致しすぎている」
信じていないとは言わない。だが、信じるとも言わない。
「私は君を婚約者として扱う」
立場の確認。
「だが、公の場で問題を起こすなら守れない」
守れない。それは脅しではない。事実。透歌はゆっくりと頭を下げる。
「承知いたしました」
完璧な礼。
千隼は数秒見つめ、背を向ける。足音が遠ざかる。
透歌は、静かに息を吐いた。
「透歌様」
宵が近づく。
「聞いていましたか」
「はい」
「私はやっていない」
「存じております」
即答。揺るがない。
「ですが問題は、そこではありません」
「……うん」
「複数人の記憶が一致しています。自然発生ではありません」
透歌はゆっくりと振り返る。教室の扉の向こう。視線が、もう決めつけている。
「記憶改竄」
呟く。
「可能性が高い」
宵の瞳が冷たく光る。
「昨日の午後以降、透歌様に関する評価が一斉に変動しています」
「証拠は?」
「ありません」
短い返答。観測者の声が、わずかに沈む。
「私と透歌様の記憶は一致しています。ですが第三者の記録がない」
言葉だけでは覆せない。そのとき。
「透歌様」
萌乃が廊下へ出てくる。
柔らかな足取り。深い礼。
「私、気にしておりませんから」
周囲に聞こえる声量。
「誤解だと思っています」
被害者の笑み。
「どうか、もう私に構わないでください」
透歌の胸の奥で、何かが沈む。“加害者”の位置が固定される。
空気が、それを承認する。萌乃は去る。
その背中は、揺れていない。
透歌は小さく息を吐く。
「……大きいね」
「はい」
宵の声が低く落ちる。
「これは局所ではありません。広域です」
「世界そのものが、書き換えてる」
「その可能性が高い」
透歌は静かに前を見る。
「負けるかもしれない」
初めての言葉。
これまで、観測し、回避し、上書きしてきた。
だが今回は。
証拠がない。
証明できない。
「否定はできません」
宵も認める。遠くで、千隼が萌乃に声をかける。短い会話。近い距離。信頼の傾き。
透歌はそれを、見てしまう。
ゆっくりと、何かが壊れていく。
婚約は変わらない。立場も変わらない。
だが。
心の位置が、ずれる。
「宵」
「はい」
「これは、戦いになるね」
「ええ」
低く、確定的に。
「本格的に」
透歌はまっすぐ前を見る。世界は修正を始めた。透歌を悪役に。宵を共犯者に。
そして千隼を、敵対側へ。
初めての敗北が、静かに形を取り始めていた。




