削られた世界と未改竄の隣
昼休み。空気はもう、修復不能なほどに固定されていた。
透歌が廊下を歩くだけで、会話が途切れる。視線が刺さる。明確な敵意ではない。だが、信頼が剥がれ落ちた後の、乾いた距離。
「整合性の崩壊が進行しています」
宵は一歩後ろを歩きながら低く告げた。
「具体的には?」
「透歌様が“以前から萌乃様を敵視していた”という前提が追加されています。過去の出来事が補完され始めています」
透歌は足を止めないまま、目だけを伏せる。
補完。
それは物語が最も得意とする処理だ。空白は埋められる。理由は後付けされる。悪意は筋を通す。
階段の踊り場で、二人は立ち止まる。そこは昨日、萌乃が“落とされかけた”とされる場所だった。手すりは傷ひとつない。床にも擦過痕はない。
「物理痕跡はゼロ」
宵が静かに確認する。
「でも、証言は揃ってる」
「はい。五名。時間も一致しています」
「全員、同時に改竄?」
「可能性は高い。ただし……」
宵が一瞬言葉を切る。
「改竄は“昨日の夕刻以降”に集中しています。それ以前の記憶には不自然な干渉がありません」
透歌はゆっくりと踊り場の窓へ目を向けた。光が差し込む。まるで何も起きていない世界のように、静かで、穏やかだ。
「つまり昨日のどこかで、トリガーがあった」
「はい。しかし特定できません。私の観測範囲に、明確な強制イベントは記録されていない」
それが異常だった。これまでなら、世界は必ず兆候を見せた。選択肢の出現。空気の歪み。評価値の急変。
だが今回は、痕跡がない。
まるで——最初からそうだったかのように、自然に。
「……世界が直接、介入した可能性は?」
「否定できません」
宵の声が、わずかに低くなる。
「観測者を迂回する修正。もしそれが可能なら、これは構造上の敗北です」
透歌は小さく笑った。
「随分、素直だね」
「透歌様の前では、事実のみを申し上げます」
その言葉に、透歌の胸がわずかに緩む。世界が敵でも、少なくともここには一つ、揺らがないものがある。
だが、その安堵も長くは続かない。
「透歌」
振り返る。千隼が階段の上に立っている。影が長い。表情は読めない。
「この場所に近づかない方がいい」
命令ではない。だが拒絶でもない。
「なぜでしょう」
透歌は正面から問う。
「これ以上、疑われる行動を重ねるな」
淡々とした声。
「私は、していないと申し上げました」
「だとしても」
千隼の視線がわずかに揺れる。
「結果は同じだ」
その一言が、透歌の内側を冷やした。
結果が全て。証明できなければ、存在しないのと同じ。
「……承知いたしました」
透歌は礼をする。完璧な角度。完璧な沈黙。
千隼は何か言いかけ、結局何も言わずに去る。足音が遠ざかる。
宵が静かに息を吐いた。
「傾きが加速しています」
「うん」
透歌は窓越しに校庭を見る。萌乃が友人たちに囲まれている。心配そうな視線。庇うような仕草。守られる位置。
完璧だ。
「宵」
「はい」
「もしこれが、物語の修正なら」
透歌の声は穏やかだった。
「私は、どんな役を与えられている?」
宵は迷わない。
「悪役です」
即答。
「婚約者の座に固執し、嫉妬に駆られ、ヒロインを傷つける令嬢」
透歌はゆっくりと瞬きをする。
「なるほど」
胸の奥で、静かに何かが沈殿する。
「……でも」
宵の声が、ほんのわずかに硬くなる。
「それは物語の都合です。透歌様の本質ではない」
透歌は振り返る。
「信じてくれる?」
「当然です」
迷いのない瞳。
世界が書き換えても、宵の視線は変わらない。
その事実が、透歌を立たせる。
「証拠を探そう」
「困難です」
「それでも」
透歌は踊り場から一歩踏み出す。
「初めて負けたまま、終わるのは嫌だ」
宵は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷く。
「承知いたしました。観測範囲を拡張します。ただし——」
「ただし?」
「次の修正は、より大規模になります」
透歌は笑う。
「望むところだよ」
その瞬間、どこかで鐘が鳴る。授業開始の合図。
だが二人は知っている。
本当に始まったのは、別のものだ。
記憶は改竄され、立場は傾き、信頼は削られた。
そして世界は、透歌を悪役に固定しようとしている。
けれど。
観測者は一人しかいない。
その一人は、まだ透歌の隣にいる。
それだけが、今の唯一の“未改竄”だった。




