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境界線

白い。


すべてが、白かった。


消毒液の匂い。規則正しい機械音。閉ざされたカーテン。


透歌は、まだ目を覚まさない。

病室のベッドに横たわる小さな身体は、あまりにも静かだった。


額には包帯。後頭部への強打。脳震盪では済まない可能性。医師の言葉は冷静だった。


「今夜が山です」


宵は、瞬きひとつしなかった。


命の危険。


その言葉を、頭では理解する。だが、感情は理解を拒んでいる。観測者は、感情を排する。


それが前提。


それが、彼の役割。


けれど今。


ベッドの上で呼吸を繰り返す透歌を前にして理屈は、意味を持たなかった。宵は椅子に腰を下ろす。


透歌の手に触れる。


冷たい。


「……透歌様」


返事はない。指先に、かすかな力もない。

あの日、屋上で止まった世界。あのとき守れた。だが、今回は守れなかった。ほんの数歩。


ほんの一瞬。


間に合わなかった。


胸の奥で、何かが軋む。それは怒り。静かで、鋭利な怒り。叫ばない。暴れない。ただ、凍る。


「……私の観測不足です」


低い声が、白い部屋に落ちる。世界は萌乃を守る構造。事故として処理される。誘導した生徒は「足が滑った」と証言した。


萌乃は泣きながら謝罪した。


“そんなつもりじゃなかった”。


だが。


押すきっかけを作ったのは誰か。背後に立たせたのは誰か。視線の誘導。立ち位置。計算。


全部、見ていた。

全部、理解している。


だが証拠はない。世界は守る。ヒロインを。その構造が、今は憎い。宵は透歌の手を握る。少し強く。


「あなたは、傷ついていい存在ではない」


声は、震えない。


だが、抑え込んだ激情が滲む。


「あなたは、脚本に抗った」


「それなのに」


呼吸が浅くなる。怒りが、胸を締め付ける。


「命を奪われかけるなど」


許容外。

観測不能。

赦容不能。


機械音が一定のリズムを刻む。


夜は深まる。宵は一度も席を立たない。

看護師が声をかけても、動じない。


「家族の方は?」


「私が付き添います」


迷いなく答える。血縁ではない。だが、離れない。


深夜。


透歌の指先が、わずかに動いた。宵の視線が跳ね上がる。


まぶたが、震える。


ゆっくりと、開く。


焦点が合わない。


それでも。


「……宵?」


かすれた声。


世界が、戻る。宵の胸の奥で、張り詰めていた何かが軋む。


「はい」


声は、いつも通り。だが、ほんの僅かに低い。


「ここは……」


「病院です」


透歌は瞬きを繰り返す。記憶を辿る。


石畳。衝撃。赤。


「……ああ」


小さく、息を吐く。


「死ぬかと思った」


軽く言う。だが、声は弱い。


宵の指が、透歌の手を握る力を強める。


「そのような言葉は」


抑制。けれど、滲む。透歌はゆっくりと横を向く。宵の顔が近い。


思っていたより、近い。


「怒ってる?」


透歌は、微笑もうとする。上手く笑えない。

宵は答えない。


代わりに、透歌の額に触れる。優しく。確かめるように。


「あなたは」


声が低く沈む。


「命を失う可能性がありました」


事実だけを述べる。


だが、その奥にある感情は、隠せていない。

透歌は静かに見つめる。


「心配、した?」


沈黙。


ほんの一瞬。


そして。


「当然です」


短い答え。だが、そこにある重さは、いつもと違う。透歌の胸が、少しだけ熱くなる。


「……ごめんね」


弱い声。


「守らせてあげられなくて」


その言葉に。宵の瞳が、鋭く揺れる。


「違います」


即座に否定。


「守るのは、私です」


空気が震える。透歌は目を見開く。宵は、初めて感情を隠さなかった。


「あなたが傷つく世界なら」


声が低く、静かに震える。


「私は、その構造を壊します」


透歌の鼓動が速くなる。白い部屋。深夜の静寂。二人だけの空間。


透歌は、そっと手を握り返す。


弱い力。


けれど、確かに。


「……そばにいて」


小さな本音。強がりではない。宵は迷わない。椅子から立ち、ベッドのそばに膝をつく。距離が、さらに縮まる。


「離れません」


低い声。


透歌の視界に、宵の顔が近い。


いつも冷静な瞳。


だが今は。


熱を帯びている。


透歌は、そっと目を閉じる。


「ねえ、宵」


「はい」


「私、まだ戦える?」


弱さ。初めての。宵は、ためらわない。


「あなたは、倒れても立ちます」


「根拠は?」

「私が、支えます」


透歌の喉が震える。笑ったのか、泣きそうなのか。分からない表情。


「ずるい」


「なにがですか」


「それ言われたら、安心するじゃない」


宵は何も言わない。ただ、透歌の手を包む。

温度が伝わる。生きている温度。透歌はゆっくりと息を整える。


「……次は、負けない」


声は小さい。だが、強い。宵の瞳が細まる。


「ええ」


静かな肯定。


「次は、私が怒ります」


透歌は薄く笑う。


「さっきも怒ってたでしょ」


宵は否定しない。


ただ。


「透歌様」


呼ぶ声が、やわらかい。


「あなたが生きていることが、最優先です」


距離は、もう曖昧だった。観測者と悪役令嬢。その境界は、今夜、崩れた。


命の境界線を越えかけて。


二人の距離は、確かに縮まった。


世界はまだ、萌乃を守る。強制イベントも続くだろう。


だが。


今。


この白い部屋で透歌は一人ではない。


そして宵も。


もう、ただの観測者ではなかった。

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