魔女の過去(2)
魔道王国ノルマン――その興りは、古代の大魔術師ノルマンが直系弟子たちを引き連れ、険しい山々に囲まれた秘境の高原地帯を開拓したことに遡る。
この地は大地に脈打つマナの霊脈が極めて太く、他国とは比較にならないほど魔力の回復速度が早い。
まさに、魔導を探求し発展させるために神が授けたかのような天恵の土地であった。
四方を険しい連峰が天然の城壁として取り囲むその絶壁の地形は、外敵の侵入を固く拒む。かつて数多の国がその豊かなマナを狙って侵略を試み、また時に凶暴な魔物の大群が押し寄せたこともあったが、ノルマンはそのすべてを強大な魔術の鉄槌で退けてきた。
不敗の領域としてその名を轟かせた都市には、やがて庇護を求める人々が次々と集い、今や世界で三番目の規模を誇る巨大国家へと成長を遂げたのである。
しかし、この無敵の国にも明確な弱点が存在した。
標高の高い高原地帯ゆえに厳しい冬が長く、作物が育ちにくいことだ。農業や畜産による自給率は絶望的に低く、国民の胃袋を満たす食料の大部分は他国からの輸入に依存せざるを得ない。
そのためノルマンは、精製ポーションや高性能な魔術スクロールなどの魔法製品を輸出し、さらに高い技術を持つ魔術師を各国へ派遣することで莫大な外貨を獲得し、国の命脈を繋いでいた。
まさに「魔術」によって立ち成り、栄えてきた国家。それゆえ歴代の国王や高官は高貴な魔術師の血筋が独占してきたが、一方で彼らを護り、実戦の矢前に立つ「騎士」の地位も極めて高く保護されている。
この国に暮らす者は自ずと魔術適性が高くなる反面、純粋な武芸を志す者は希少だったからだ。
そのため騎士の育成は国家規模の最重要プロジェクトと位置づけられ、優秀な武芸者には無償で最高の教育と生活環境が与えられる体制が整えられていた。
――そして、あの出会いの日。
天才魔術師インダルフと女騎士ミーナの眼にとまったナージャは、騎士団の試験官を絶句させるほどの異質な身体能力を爆発させ、孤児院から一飛びで騎士養成所へと引き取られることとなったのだった。
「やめてくれ! 頼むナージャ、降参だ! 参ったから勘弁してくれえぇっ!!」
「ハァ? なに弱音吐いてんのよ! 男のくせに情けない! 立ち上がりなさいよ、あんたが私に一本取るまで稽古は終わらないわよ!!」
騎士養成所の広大な訓練場に、哀号と怒号が響き渡る。
ナージャは手に持った木剣をぶんぶんとしならせ、目の前でうずくまる年上の研修生を容赦なく打ちのめしていた。
同年代など、入所初日に全滅させた。現在ナージャと対峙しているのは、養成所の所属年数で二つも上の「上級クラス」の男子研修生たちである。
だが、その結果がこれだった。
「ひ、ひぃぃ……! 鬼だ、スラムの悪魔だ……っ!」
「誰が悪魔よ! ほら、今日のところはこれくらいで勘弁してあげる! 明日の朝までに死ぬ気で訓練しておきなさいよね!」
無茶苦茶な捨て台詞を吐き捨て、ナージャは木剣を肩に担ぎ上げた。倒れた男子研修生たちは、まるで命拾いをしたかのように泣きながら這い去っていく。
ナージャの騎士としての適性は、まさに規格外の一言だった。
型の基本など丸無視で、フォームは無茶苦茶。しかし、それを補って余りあるのが『山猫』のような目にも留まらぬ身のこなしと、スラムの泥沼で生き残るために叩き込まれた実戦の直感(野生の勘)だった。
急所を迷わず狙う容赦のない踏み込み、予動のない間合いの詰め方、そしてなにより、繰り出される斬撃の絶対的なスピード。基本をきっちり習得した程度の温室育ちの研修生では、手も足も出ずに玩具のように転がされるだけだった。
「ふぅーっ、今日もいい運動になった! さ、訓練もおしまい! インダルフのところに遊びにいこーっと!」
本来の訓練メニューを半分も消化せぬまま、ナージャは鼻歌交じりに木剣を投げ出し、一目散に走り出した。
養成所の喧騒から少し離れた静謐な敷地に立つ、古びた石造りの塔。
そこが、宮廷魔術師インダルフに与えられた研究室であった。
「インダルフ! 今日は何の怪しい実験をしてるのー?」
重い木製扉をいきなり蹴開けて飛び込んできたナージャを、インダルフは嫌がる風もなく、眩しいものを見るような温かい笑みで出迎えた。
「やあナージャ、いらっしゃい。ちょうど面白い研究をしていたところだよ」
「へえ、何それ?」
「『魔石』の解析さ。魔物の体内に生成される魔石と、その個体の魔術特性の関係性を調べているんだ。ほら、この魔石は比較的小さなゴブリンから採取されたものなんだけどね……」
インダルフは怪しげに光る鉱石を掲げ、瞳をキラキラと輝かせながら語り始める。
人体におけるマナの循環理論、魔石内部の魔導構造、それが引き起こすスタンピートの未然防止策――。
幼いナージャには、十言喋られても一言も理解できないような難解極まりない魔術論。だが、インダルフは「魔導を探求する者の性」とでも言うべきか、相手が誰であれ嬉々として己の知を言葉にしていくのだ。
ナージャはインダルフの隣の椅子にちょこんと腰掛け、顎を手に乗せながら、その美しい横顔と滑らかな声にじっと見惚れていた。
(……全然意味分かんないけど、インダルフが楽しそうだからいっか)
あの泥と飢えに塗れたスラムの地獄から、自分を救い出してくれた人。
温かいご飯と、安全な部屋と、そして何より自分を「一人の人間」として笑いかけてくれたこの人の力になりたい――その強い恩義と憧れが、幼いナージャの胸いっぱいに広がっていた。
(もっと勉強しなきゃ。インダルフの言ってることを全部理解して、一番近くで手伝えるようになりたい……!)
実はナージャ、養成所の訓練をサボって遊んでいると思われがちだが、夜になれば部屋に引きこもり、難解な魔術書を血眼になって読み込み、己のマナを極限まで精密に制御する修行を、誰にも知られず毎夜繰り返していたのである。
天才に少しでも追いつきたいという、健気で一途な決意。それが今のナージャを突き動かす最大の原動力だった。
「こーらー! 訓練場にいないと思ったら、やっぱりここに逃げてたわねナージャ!」
バン!と勢いよく扉が開いて、仁王立ちしたミーナが踏み込んできた。
「げっ、ミーナ姉……!」
「『げっ』じゃないでしょ! 同級生も上級生もボコボコにしてサボりなんて、教官たちが頭を抱えてたわよ! さっさと訓練場に戻りなさい!」
「えーっ! だってミーナ姉、あんなヤツら弱すぎて全然練習にならないんだもん! 時間の無駄だよ!」
「言い訳しないの! ほら、立つ!」
ミーナに首根っこを掴まれ、ナージャは露骨に不満そうな顔で引きずられていく。
「うぅ……インダルフ。また後でこっそり来るから!」
「ああ、いつでもおいで。待っているよ」
インダルフはいつもの優しい笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。
ナージャを引きずり出しながら、ミーナは呆れたようにインダルフを振り返る。
「……ねえあんた、前にも言ったけど、『弟子はとらない主義』じゃなかったの? あんなに懐かれちゃって、どうするつもりよ」
「はは、弟子なんて大層なものじゃないさ。師弟関係なんて余計な責任と拘束が増えるだけで、僕の研究の邪魔になるからね。面倒くさいよ」
インダルフは肩をすくめ、爽やかな口調でそう言い切った。
「ただ……そうだな。『仲間』としてなら、悪くないかもしれないね。彼女は本当に、見ていて興味が尽きない面白い子だ」
「……仲間、ねぇ」
ミーナはその言葉を反芻し、引きずられていくナージャの背中を見つめた。
――弟子でもなく、家族でもなく、ただの気まぐれな『仲間』。
インダルフにとっては深い意味のない軽やかな一言だったのかもしれない。だが、幼馴染として、そして彼の誰よりも近くにいたはずのミーナの胸の奥を、小さな胸騒ぎがかすかに走り抜けた。
インダルフの純粋すぎる魔術への好奇心と、ナージャが彼に向けるあまりにも一途で絶対的な憧れ。二人の間に漂う異質な空気が、まるでこれから訪れる悲劇の予兆のように、ミーナの心へ小さな靄を落としていたのだった。




