3.絶望の渦の中
翌日、いつものように早く起き、バス停に向かうとゆいが立っていた。ゆいが俺に気が付くと手を振って大きな声で「おはよう!」と言ってきた。俺も笑いながら返して、昨日と同じようにバスに乗って登校した。
示し合わせたわけではなかったが、それからというもの、俺とゆいは、毎日バス停で合流し、一緒に登下校をすることが当たり前になっていた。ゆいと再会したことで俺は日常生活で影響を受け、自分自身が少しずつ明るくなっているように感じた。ゆいと居て気が緩まっていた俺は、「ゆいが居るなら、大丈夫だ。」という根拠も何もない考えが頭にあった。
そうして受けた、夏休み前のテストは、前回のテストよりも、成績が悪かった。
テストの結果を見て、俺は現実に引き戻された。
席に座り、「どうしよう…。」と消え入りそうな声が口から零れた。俺の顔色が悪かったのか、独り言が聞こえたのかはわからなかったが、隣の席に座っている、ゆいが「大丈夫?」と俺の顔を伺っている。「大丈夫。…ごめん、ちょっとトイレ行ってくる。」ゆいにそう告げ、席を立った。
トイレの扉を開け、入ってすぐにある鏡が目に入る。そこには、青ざめ、今にも泣きだしそうな情けない顔が映し出されていた。それを振り切るように、個室に入り、母にテストの結果をどう言おうか、頭の中でぐるぐると考える。けれど、どう頭を捻っても、正直に話して素直に母の言うことを聞き入れる、といういつもとなんら変わらない
考えにしか至らない。テストが返却されるといつも母が怖くて、自分の殻に閉じ籠り母親の言いなりになる。
「俺は俺が大嫌いだ。」
言うつもりのない言葉が口から出る。昔はもっと違っていたのに。
トイレから戻るとゆいが心配そうに尋ねてきた。
「…柊翔、大丈夫?」
ゆいのほうに顔を向け、無理に笑顔を貼り付ける。
「うん、大丈夫。」
ゆいはそんな俺の心情に気づく素振りもなく、頬を緩めて「良かった。」と言った。
ゆいは他人の仕草や気持ちの変化に昔から敏感だった。今、思い返すと、ゆいと離れる前も時々変なことを言う母だったが、ゆいが引っ越した後に母が悪い方向へ加速していったようにも思える。そんな母を怒らせないように、悲しませないように、あの頃の母のようになってしまわないために、俺は自分自身の気持ちを表に出さず、母の機嫌を伺うようになった。
いつからか、自分の気持ちに蓋をして、仮面を被るようになった。
テストが返却された後はずっと上の空でただ時間が流れるのを待った。誰かに話しかけられた時は適当に流して、愛想笑いをした。
ホームルームが終わり、ゆいに「用事があるから、先に帰る。」と短く告げて、そそくさと教室から出た。
帰路に着くと、ゆいと再会する前の、あの空虚な空間に放り出されたように感じた。バスに乗り、どうやって、母に話し出そうか頭の中で考える。気が付くと、もう、いつも降りているバス停に到着していた。
バスに乗り込んだ後もずっと頭の中は真っ白で、どうにかなってしまいそうだった。そんな俺を嘲笑っているかのように、考えがまとまらないまま、バス停に着いた。
バスを降り、家のほうに歩くにつれて、身体が強張っていく。なるべくゆっくりと足を前に出して歩く。ふと顔を地面から空に向けると、梅雨前だからなのか、どんよりとした雲が空一面に広がっている。雨が降りそうだなとどうでも良いことを考える。再び視線を戻そうとすると家が視界に入った。このまま進んでいけば家に着いてしまう。
頭では、警告音が鳴り響いている。
『まだ、帰りたくない。』
そう思っても、自分の体に見えない引力が働いているかのように、家に向かって足が勝手に前に出る。
とうとう家に着いてしまい、門扉を押して家の敷地に入る。深呼吸をして、ドアの鍵を開ける。
恐る恐る、声を出す。
「…ただいま。」
「……おかえり~。」
少し遅れて返事がきた。夜ご飯の準備をしているのだろうか、玄関まで匂いが立ち込める。母は、俺が帰ってくる頃には、家に居ることが多い。靴を脱いで、リビングに続く廊下を歩く。引き戸を引いて、リビングに足を踏み入れる。リュックを下ろして、弁当箱を取り出す。
「…母さん、弁当おいしかった、ありがと。」
「は~い、そこに置いといて、お風呂、もうできているから、入ってきて~。」
「わかった。」
階段を上がり、自分の部屋のドアを開ける。今朝、気持ちよく開けたカーテンから覗いた空は、今では、別物に変わっていて、そこには、自分の姿が灰色や黒色で映って見える。
太陽が沈んで辺りが暗くなったからそう見えるだけだ、と自分に言い聞かせる。だが、そこに映っている姿が、本当に自分自身を映し出しているかのように思えて、リュックを床に投げ捨て、急いで窓に近寄り、カーテンを閉める。
グッと力を込めてカーテンを掴んでいる手に気が付き、腕をだらりと脱力させ、手を放す。その場にへたり込み、俺は、「はぁ…。」と大きなため息を吐いた。
へたり込んだまま、髪の隙間から見えるリュックが視界に映った。俺は、風呂に入らないといけないことを思い出す。膝に手をついて、重い体をゆっくりと立ち上がらせる。放ったリュックから、携帯だけを取り出して、俺は自分の部屋を後にした。
ゆっくりと階段を下りていき、風呂場に向かう。ドアをガラリと開け、洗面台に携帯を置いて、服を脱ぎ始めようとしたとき、携帯に一件の通知が入った。それは、ゆいからのメールだった。
『テスト終わったし、明日とか来週の休み遊ばない?』
このメールを見て一番初めに思ったこと。
『どうしよう。』
母親にテストが悪かったことも、まだ、伝えられていない。
どのタイミングで言えばいいんだ…。いや、そもそもまともに話ができるのかも危うい…。
「とりあえず、風呂に入ってから、考えよう…。」
そう言い聞かせて、俺は、返信を後回しにした。
「母さん、お風呂出たよ。」
「あら、丁度良いタイミングね。今、ご飯できたところよ。」
俺は、母の柔らかい声が好きだ。この時の母は優しい。
二つのコップを出して、お茶を注ぐ。母が席について、二人で食べ始める。最初は今日あった出来事を話し、次に母が、俺が将来行く大学、就職先、しまいには、このくらいの年齢で結婚した方が良いなど、聞いてもいないのに饒舌に喋り始める。「柊くんには、お母さんのようにはなって欲しくないのよ。」これは母の口癖だ。それに、俺は「うん。」と短く、にっこりと笑って返事をする。いつもと変わらない会話、いつもとは違い、今日はやけに機嫌の良い母。
今から俺は、この空間に亀裂を入れるのだ。母の話に、ひと段落着いたところで、俺は、重い口を少しずつ開けた。
腹の奥深く、まだ言葉にはなっていないモノを喉のところでやっとの思いで、形にして、ようやく声を発した。
「…母さん、テストの順位を…落とした…。」
俺は、さっき、風呂から出た後、一旦、部屋に戻って、持ってきていた成績表を恐る恐る、母に差し出して、俯いていた顔をゆっくりと上げる。そこには、先程とは打って変わった母の顔があった。
そこから、何を言われたのだろうか。俺にはその記憶が、音声だけ再生できない映像のような感じで脳内の中で繰り返されていた。頭でやっと今の状況が理解できるようになった頃、母は席を立っていて、肩で息をしている気がした。
顔は、わからない。
俺はというと、自分の髪の毛を手で、ぐしゃりと掴んで、涙を堪えながら、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と連呼していた。
母がまた、怒鳴り声を上げようとすると、それを止めに入るかのように、携帯の着信音が、部屋中に鳴り響いた。
「こんな時に誰なのよ!」
母が乱暴に机の上に置いてあった、俺の携帯を取り上げ、何かを見ると、「ねぇ、柊くん…このゆいって子、もしかして、唯香ちゃん?」と少し嬉しそうな声色で聞いてきた。俺は、「うん、そうだよ。」と小さい声で答えた。母の顔を一切見ずに。
「そう、そうなのね。戻ってきたのね。…お母さん久しぶりに話してもいいわよね?」
俺は「うん。」としか答えられなかった。
「あっ、こんばんは、唯香ちゃん。久しぶりねぇ、…そう、柊くんが出ても良いよって言ってくれてね。……うん、うん…」
母が嬉しそうに話しているのを俺は、遠くから聞いているようだった。母が話し終わったのか、画面が暗くなった携帯を机の上にそっと置く。そうして、こう続けた。「唯香ちゃんと近々、遊ぼうとしていたの?」
俺は頷いた。
すると、母から意外な言葉がでてきた。
「いいわよ。次のテストは頑張りなさいね。…あと、家に来てもらうことになったから、部屋のお掃除を手伝ってね。」
母はにこりと笑った。さっきまであんなに怒り狂っていたのに、唯香と話したら、機嫌が直ったらしい。もう、母の頭の中は唯香が遊びに来ることで一色のようだ。俺は、地獄のような時間が終わって、ほっとしていたが、内心では、よくわからない感情が知恵の輪のようにぐるぐると渦まいているように感じた。
「ほら、何してるの?ご飯食べるわよ。」
母は俺にそう告げた。
読んでくださり、ありがとうございました!
今回の話では、柊翔が、何故ここまで母親を恐れているのかが分かるお話だったと思います!
ところで、柊翔がトイレから戻ってきたとき、「そんな母を怒らせないように、悲しませないように」と言う部分…。怒らせないようにというのはわかりますが、悲しませないようにとは…、それに『あの頃』とは、一体何なのでしょう…。
今回のお話で、新たな謎が増えてしまいましたね!
そのお話も今後書いていきます!
それでは、次回もお楽しみに!




