『東方仙影譚』第四十三話
あー、もう、学校やだ帰りたい
「ヴッ、ハァ、アァ……」
過呼吸のように喉が引き攣り、まともに酸素が吸えなくて視界がぐにゃぐにゃと歪む。どこか、どこか隠れるところは、無いのか……!?
そう思いながら必死に廊下を疾走していた、まさにその時だった。
――タタァンッ!!!
自分の足が和室の段差に雑に引っかかり、俺は激しく前のめりに倒れ込んだ。俺は転んだ。長い廊下の板張りの床に、十二歳の小さな身体がドサリと無様に突っ伏す。
立てない、なんで? 父さんに殴られた頬以外、どこも痛くないのに。ただ床に激突しただけなのに、脳からの命令が手足に一切伝わってくれない。
クソッ、動けよ、俺の体……! 俺は必死に歯を食いしばり、床に爪を立てて這って進んだ。片腕が使えない。なんでだよ。なんでこんな時に限って、利き腕がまるで他人のものみたいに完全に麻痺して力が入らねぇんだよ。心が限界を迎えちまったせいで、俺の身体の方が先に拒絶を始めてやがる。
あぁ、足音が聞こえる。ペタペタと、廊下の向こうからこちらへ近づいてくる静かな足音。
『あら? 仙さん、リビングの方で何かあったんですか……?』
鈴仙の声がする。おそろしく久しぶりに物語の表舞台へと顔を出したらしい。
いや、どうでもいい。早く隠れなきゃ。このボロボロで、片腕を引きずりながら床を這いつくばっている無様な姿を、これ以上誰にも見られたくないんだ――。
「……あそこの物陰に……」
俺は残った片手の爪を床に立て、必死の思いで廊下の隅にある背の高い棚の裏へと身体を滑り込ませた。棚の物陰に、隠れた。
これで誰の目にも触れないはずだ。そう思った瞬間、身体のバグはさらにその深刻さを増して俺を襲った。
なんでだろう。手が、感覚がない。
床を掴んでいるはずの指先が、まるでおそろしく分厚いゴムの手袋でも嵌められたみたいに、何も感じなくなっている。
足がピリピリする。
正座を何時間も続けた後のような、おぞましい電気が下半身を駆け巡り、立ち上がることすら完全に拒絶される。
視界が霞む。
目の前にあるはずの木製の棚の輪郭が、涙と過呼吸のせいで白くモヤがかかったようにぐにゃぐにゃに溶けていく。
『仙ーーー!!! どこ行ったんだーーー!?』
『仙さん!? どこにいるんですか!?』
『おい仙! 冗談だろ、出てこいよ!』
遠くの廊下から、鈴仙とか、魔理沙とか、妹紅とか、色々な奴らの焦り狂った声が響いてくる。
お前ら、探すなよ。
一人にさせてくれたっていいじゃないか。
俺の中で、なにかがパキンと音を立てて崩れる音がした。
あぁ、滑稽だな。
外の世界で『出来損ない』と殴られて、心の行き場も完全に無くして。
幻想郷っていう温かい場所にまで戻ってきておいて、結局やってることと言えば、ただ暗い棚の物陰に一人でうずくまって、震えながら隠れ続けているだけ。
ホンットに滑稽だ。
愉快だ。
お前、十二歳の男勝りな主人公のくせに、最後はこんなゴミみたいな格好悪さで終わりを迎えるのかよ。
俺は、感覚の消え失せた両腕で自分の頭をキツくキツく抱え込み、暗闇の中で、声にもならない自嘲の笑みを、ただ静かに浮かべることしかできなかった。
朝一番から不法侵入に脅かされ、実家で父親に殴り飛ばされ、最後は居候先の廊下の物陰で身体の感覚を失って這いつくばる俺。
俺と望月ルクスの物語は、やっぱりタイトル以上の大渋滞と精神の崩壊と共に、かつてないほど真っ暗な棚の裏で、孤独な暗闇へと、沈み込んでいくのだった。




