ふたつの署名
◇
リディアは居間の卓で仮の帳面を開き、白い欄の下へ十五日目の日付を書いた。
封印札の糊が乾いてから、十五日。工房台帳は、封印された工房の中にある。封印の日に、その最後の行——修理完了、引き渡しは明日——を書き写し、以来一日ずつ日付だけを増やしてきた。実績は、ここで止まっている。
扉が開き、ヴァルターが外套のまま戻った。隣村からだ。
「封印の翌日から組み直していた水汲み当番は、そのまま回せている。十五日ぶんの追加人手へ、うちから出す日当の額も決まった」
「仮の帳面に付けます。停止による損失ですから、折半の勘定です」
ヴァルターがうなずき、外套を脱ぐより先に、家令が入ってきた。卓へ厚い封書を置く。
「王都より。審査担当の公印でございます」
封を切ると、書面は三枚あった。
一枚目は通知。当工房の営業停止審査は、領の審査官から王都の審査担当へ引き継がれた。検体と、添えられた試験記録の写しは受理済み。
二枚目は照会。王都西門の旧式防壁に不調があり、症状が、貴工房より提出された井戸の実負荷試験の記録と似ている。ついては停止中に認められる限定診断として、当該防壁の診断を貴工房へ照会する。受諾するなら、本書到着の日から二十日以内に返書を。
三枚目は書面ではなく、綴じられた写しの束だった。表紙に、参考資料、区画別負荷記録、とある。
リディアは束を開いた。数字の並びが、区画の順に走っている。第一区画、第二、第三。負荷の値が日付ごとに記され、頁を進むほど、偏りが一つの区画へ集まっていく。
井戸の導路と同じだ。壊れる前の、偏りの寄り方。反響で聞いてきた崩れ方の、紙の上の形だった。
頁を繰る手が、最後の頁で止まった。
末尾の確認署名に、ヴァルター・グレンとある。辺境の砦の、撤退命令で終わる帳面。彼が捨てたと言われている、あの砦のものだ。
リディアは、最も数字の悪い区画を目で追い直した。悪化は記録の最後の日付まで続き、その欄外に撤退命令の発令時刻が書き添えてある。記録はそこで終わっていた。
そのあとに何が起きたのかは、この束のどこにも書かれていない。
「ヴァルター様。これを」
差し出した写しを、ヴァルターは一目だけ見た。それきり束には触れず、照会の書面を取り、期限の行を確かめた。
「二十日。返書と、試験を成立させる手続きは私が引き取る」
診断を誰が担うかを、彼はリディアへ尋ねなかった。
「照会は工房宛てです。止められているのは工房の営業で、提出した検体の保証に署名したのは私です」
リディアは記録の束を卓の中央へ戻した。
「この砦で、撤退の夜に何があったんですか。記録は、命令の時刻で終わっています」
ヴァルターは書面を置いた。すぐには答えず、束の表紙を一度だけ見た。
「今夜、話す」
リディアは仮の帳面を開き直し、白い行の一つに今日の日付と、王都より照会、到着から二十日、と書き入れた。
◇
夕食の皿が下げられた居間で、ヴァルターは二人分の茶を注ぎ直した。カップを卓へ置き、座り直してから、口を開いた。
「砦の防壁は、複数の区画で一つの導路網だった。負荷の記録は、区画ごとに毎日つけた。冬の終わりから、一つの区画だけ数字が上がり続けた」
リディアは記録の束を卓に置いたまま、頁は開かなかった。数字なら、もう読んである。
「軍務記録に残せたのは負荷の数字までだ。反響がどう崩れているのか、修理職人の解釈は無かった。春の攻勢の前に、その区画は持たないと判断した。全員に退去を命じて、砦を捨てた。その夜、最も崩れの進んでいた一区画が崩落した」
「人は」
「一人も残していない。石が落ちただけだ」
リディアは、記録の最後の数字を思い出した。悪化は命令の時刻まで続いていた。数字は崩落まで読めていたのだ。守られた者の数だけが、どこにも記されない。
「軍の裁定は違った」
ヴァルターは茶に口をつけずに続けた。
「撤退で維持の魔力が止まったから崩れた、というのが裁定だ。崩落は、捨てた証拠になった」
「記録があるのに」
「数字は、読める者がいなければ並んでいるだけだ。読みを証言できるのは、あの夜退いた者たちになる。裁定を争えば、彼らを軍と対立する証言台へ立たせる。大半は、今も軍務にある」
リディアは記録の束の端を押さえた。
「破談の前から、うちへ縁談を打診していたのは」
「記録に欠けていたのは、故障を読む目だ。同じ型式の防壁は、西門を含めてまだ立っている。同じ崩れ方を、次は読める者が要る」
名誉の話は、そこにもなかった。
「では、この婚姻は、壊れる前の兆候を見る目を、工房と家に入れる話だったのですね」
いずれ、話す——あの保留の続きが、これだ。破談前からの打診も、持参を許された修理道具も、あの乾いた条文も、それで一列に並ぶ。
ヴァルターは肯定も否定もしなかった。空になった二つのカップを見て、それから立ち、棚から書面を二通持ってきて卓へ置いた。一通は婚姻解消の書面。もう一通は、工房権をリディアの名へ移す書付だった。
「限定診断を受ければ、次は公開試験になる。停止中の工房が王都西門で試験を行うには、公的設備へ損害を出した場合の保証名義が要る。私が爵位と領地収入を保証にする。西門を安全な状態へ戻せなければ爵位を返上し、再生材の適合性を示せなければ、あなたも営業資格を失う」
「それで」
「王都へ発つ前に婚姻を解消し、工房権をあなたの名へ移す。私は保証人として行く。あなたはエルマー工房の診断者として行けばいい。工房権だけを移しても、婚姻が残れば、あなたと工房は『グレンの妻』として私の悪評と爵位喪失に結びつけられる。離縁すれば、それも切れる」
準備の良い書面だった。彼の署名は、もう入っている。空いているのは日付と、彼の署名の隣に用意された、リディアの欄だけだった。
リディアは書面を最後まで読み、失うものを数えた。この紙で彼が守ろうとしているのは工房と、エルマーの名。再生材の適合性を示せなければ、営業資格はどちらにせよ失う。先に消されるのは、選ぶことそのものだ。
「お断りします」
営業契約の控えを引き寄せ、開く。
「営業契約の条項を覚えていますか。停止による損失は折半——あなたが今日、村の日当で頷いた勘定です。この書面は、その取り決めの外で、私の分まで先に結論を用意したものです」
「あなたを守るためだ」
「その『守る』も、私に聞く前に出した答えです」
リディアは記録の束の上へ手を置いた。
砦だけの話ではない。工房に封の貼られた夜も、この家と切れて立て直すのが私の得だと、私より先に決めていた人だ。この離縁の書面も、同じ場所から出ている。
「弁明すれば部下が縛られる。そう決めて、部下の分の答えを、聞かずに出した。今度は、私の分です。——全部、同じです」
リディアは婚姻解消の書面を、彼の側へ押し戻した。
「私の仕事も、責任も、私を外して決めないでください」
押し戻した書面は、彼の前で止まっていた。
「王都へは行きます。義務ではありません。止められているのは、私が営業者として署名した工房です。それに、診たいのです。読めるはずの崩れを、読まずに手放したくない。あなたの記録と私の反響なら、西門は診られます。失うものがあるなら、私の分は私に選ばせてください」
ヴァルターは押し戻された書面を見た。
「分かった。あなたを外して守ることは、もうしない。保証は私が負う。あなたは診断を選んだ。なら、契約は二人で決めよう」
彼は二通の書面を重ね、日付の空いたまま引き出しへ戻した。卓に残ったのは照会の書面と、白紙が二枚。
二人はその夜のうちに、受諾の返書と、もう一通の契約を書いた。限定診断契約。公開試験の結果は再生材の適合性審査へ提出する。旧砦の負荷記録についても、同じ結果を添えて王都担当へ再評価を求める。役割の欄には、実負荷の運用はヴァルター・グレン、反響の診断はリディア・エルマー、と並べて書いた。
婚姻の契約は一行も変わらない。増えたのは、この一枚だけだ。
署名の欄で、彼の名の隣に自分の名を書く。インクの乾く間、二つの署名は同じ紙の上に並んでいた。
西門の防壁は、まだ誰も診ていない。




