矜持と恭順のはざまで
◇
「井戸揚水器の修理代が届いた。昨日のうちに記帳してある」
席についたばかりのリディアの前へ、ヴァルターがパン籠の横から工房台帳を回した。朝食室の長卓には、二人分の皿が一席ぶん空けて置かれている。
台帳には窯と井戸、二件の入金が並ぶ。リディアは金属片と導線、研磨材の代金を引いた。
最後の数字は、赤い線の上で止まった。
赤い線を越えた数字を、最初からもう一度足した。結果は変わらない。削った金属片もつないだ導線も、入金になって戻っていた。
「今月分の材料費が払えます」
「家計から足さずにか」
「はい。工房の収入だけで」
初めて、自分の仕事だけで次の材料を買える。数字に置いた指へ、工房を開けていられる重さが返った。
扉の外で靴音が止まり、家令が一礼した。
「アルデン家の商会から、リディア様へ使者が参っております」
銀の認証札と焼けた導線の苦い匂いが、朝食室へ戻った。
指先が台帳の紙へ張りついた。
ヴァルターは台帳の上に残るリディアの指先を見た。
「会うか。断ってもいい」
断れば、用件は分からないままだ。リディアは台帳を閉じた。
「会います」
小応接室で待っていた使者は、アルデン家の封印がある書面を卓上へ置いた。
「窯の調炎魔具と井戸揚水器、二件の修理が成功したと聞いております」
使者は書面の向きを、リディアの側へ直した。
「修理工房への専属契約のご提案です。契約いただければ、必要な素材を優先して、一定の価格でお渡しします」
材料が一定の値段で必要な時に届く。それは二件の入金より長く工房を支える条件だった。
リディアは書面を開いた。
専属の文字の下に、保証名義が記されている。修理品はアルデン家の新品保証を付けて出荷し、グレン家の工房名も、リディアの名も表へ出さない。
「修理した者の名は、買い手へ知らせないのですか」
「商会が新品と同じ保証を引き受けます。買い手にとって重要なのは、誰が直したかではなく、誰が保証するかです」
言葉は滑らかだった。アルデン家の保証だけを表へ出すなら、工房とリディアの名を伏せたまま、技術だけを取り込める。
リディアは持ってきた工房台帳を契約書の隣へ置いた。
「この二件は、私たちの工房名で受けた仕事です。今月の材料費も賄えました。それでも名を伏せる必要がありますか」
使者は二つの数字へ目を落とした。
「二件の実績では、素材商も大口の買い手も動きません。修理工房の名義だけでは、安定した供給も顧客への保証も続かないでしょう」
工房を続けるための材料を差し出し、その代わりに工房の名を消す。条件は初めから一つにつながっていた。
「ご検討の時間が短く申し訳ありません。素材割当ての都合で、本日の日没までにお返事をいただけますか」
使者がヴァルターへ向き直った。
ヴァルターは契約書に触れなかった。
「工房の契約を決めるのはリディアだ。書面を置いて、夕刻に出直してくれ」
使者は一礼し、小応接室を出た。
ヴァルターは椅子へ背を預け、ただ待っていた。井戸ではリディアの停止判断を支え、今は契約の返事を急かさない。
砦を捨てた臆病者。その呼び名だけが、目の前の姿から浮いている。
「一つ、伺ってもいいですか。契約とは関係のないことです」
「聞こう」
「なぜ、破談の前から、うちへ縁談を打診していたのですか」
ヴァルターはすぐには答えなかった。卓の契約書でも窓でもなく、リディアを見たまま、短く言った。
「……いずれ、話す」
はぐらかしの言い方ではなかった。期日を切らない保留は、商談にもある。話す時期まで込みで、値の付く話なのだろう。
リディアはそれ以上押さず、今月の材料費を賄えた工房台帳と、名前を消せと告げる契約書を並べた。
夕刻までに選ぶため、専属条項の最初から読み直した。
◇
夕刻、アルデン家商会の使者は小応接室へ戻った。
匿名専属契約書と工房台帳は、朝のまま卓上にある。
「先に一点、誤解のないよう申し上げます。窯と井戸の依頼主を商会へ移す話ではありません。あの二件で、こちらは工房の修理技術を確認しました。今後、商会が受ける案件を専属でお願いしたいのです」
使者は契約書の保証名義を示した。修理品はアルデン家の新品保証で出し、リディアとグレン家工房の名は伏せる。その代わり、必要な素材を一定の価格で優先して回す。
二件の仕事を奪うのではない。二件を証明にして、その先の仕事と材料を一つに束ねる提案だった。
「検討の時間が短く恐縮ですが、資材割当ての締めが日没です。お断りの場合は、優先枠を依頼した三軒の材料商へ今夜中に伝えます」
リディアは二件の入金へ指を置いた。材料が安定すれば、次の仕事は続けやすい。けれど、続くほど自分の名は表から消える。
「条件は分かりました。署名はしません」
使者は一度だけ確認した。
「最終のお返事として、三軒へ伝えてよろしいですか」
「はい」
使者は契約書を鞄へ戻し、一礼して退室した。
ヴァルターは扉が閉じるのを待ってから、濃紺の封蝋がある書面を出した。
「これはアルデン家の契約とは関係ない。グレン家と、あなたの間で結ぶ工房の営業契約だ」
表題の下に、営業者リディア・エルマーとある。この契約の下では、仕事はエルマー工房の名で外へ出ることになる。
受注と修理保証はリディアの名で出す。生活契約にある「新たな損失はリディアが負う」という条項だけを改め、工房収入で埋められない営業損失は、営業者と工房主が半分ずつ負担する。材料も顧客も保証しない。
同じ内容の書面が二通あり、どちらにも二人分の署名欄があった。
「今までの生活契約とは別ですか」
「工房を使う権利も、ほかの生活条件も変えない。これは、誰の名で仕事を受け、営業損失をどう分けるかだけを決める」
リディアは材料費の欄を開き、二件の入金からもう一度差し引いた。
素材の供給はない。顧客の保証もない。損失は帳簿に残る。どれも、知らない危険ではなかった。閉じた工房を開けた日から、自分で数えてきたものだ。
それでも二件の入金は、今月の材料費を越えている。この数字を続ける限り、自分の名でここにいられる。
リディアは二通の営業者欄へ署名した。
ヴァルターも二通の工房主欄へ名を書いた。一通をリディアへ渡し、もう一通を自分の前へ置く。
翌朝、二人が工房で工房台帳の在庫の頁を開いていると、家令が封書を三通運んできた。
差出人は、修理用の同系統合金を仕入れていた三軒の材料商だった。理由の書き方は違った。大口契約の優先、割当て済み在庫、入荷時期の未定。結論だけが揃っている。新規注文は受けない。
リディアは封書を重ね、合金の棚を開けた。薄板と切れ端を作業台の布へ出し、受注の頁の必要量と照らす。
「最初の一件にも足りません」
ヴァルターは家令へ返書を命じなかった。自分の署名がある契約書へ三通を挟み、棚の反対側から残った合金を布へ移す。
使える合金の列は、受注の頁の必要量を示す線まで届かなかった。
ヴァルターが不足分を余白へ書く。リディアはその手を待たずに、次の在庫箱の留め金を外した。




