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矜持と恭順のはざまで


「井戸揚水器の修理代が届いた。昨日のうちに記帳してある」


 席についたばかりのリディアの前へ、ヴァルターがパン籠の横から工房台帳を回した。朝食室の長卓には、二人分の皿が一席ぶん空けて置かれている。


 台帳には窯と井戸、二件の入金が並ぶ。リディアは金属片と導線、研磨材の代金を引いた。


 最後の数字は、赤い線の上で止まった。


 赤い線を越えた数字を、最初からもう一度足した。結果は変わらない。削った金属片もつないだ導線も、入金になって戻っていた。


「今月分の材料費が払えます」


「家計から足さずにか」


「はい。工房の収入だけで」


 初めて、自分の仕事だけで次の材料を買える。数字に置いた指へ、工房を開けていられる重さが返った。


 扉の外で靴音が止まり、家令が一礼した。


「アルデン家の商会から、リディア様へ使者が参っております」


 銀の認証札と焼けた導線の苦い匂いが、朝食室へ戻った。


 指先が台帳の紙へ張りついた。


 ヴァルターは台帳の上に残るリディアの指先を見た。


「会うか。断ってもいい」


 断れば、用件は分からないままだ。リディアは台帳を閉じた。


「会います」


 小応接室で待っていた使者は、アルデン家の封印がある書面を卓上へ置いた。


「窯の調炎魔具と井戸揚水器、二件の修理が成功したと聞いております」


 使者は書面の向きを、リディアの側へ直した。


「修理工房への専属契約のご提案です。契約いただければ、必要な素材を優先して、一定の価格でお渡しします」


 材料が一定の値段で必要な時に届く。それは二件の入金より長く工房を支える条件だった。


 リディアは書面を開いた。


 専属の文字の下に、保証名義が記されている。修理品はアルデン家の新品保証を付けて出荷し、グレン家の工房名も、リディアの名も表へ出さない。


「修理した者の名は、買い手へ知らせないのですか」


「商会が新品と同じ保証を引き受けます。買い手にとって重要なのは、誰が直したかではなく、誰が保証するかです」


 言葉は滑らかだった。アルデン家の保証だけを表へ出すなら、工房とリディアの名を伏せたまま、技術だけを取り込める。


 リディアは持ってきた工房台帳を契約書の隣へ置いた。


「この二件は、私たちの工房名で受けた仕事です。今月の材料費も賄えました。それでも名を伏せる必要がありますか」


 使者は二つの数字へ目を落とした。


「二件の実績では、素材商も大口の買い手も動きません。修理工房の名義だけでは、安定した供給も顧客への保証も続かないでしょう」


 工房を続けるための材料を差し出し、その代わりに工房の名を消す。条件は初めから一つにつながっていた。


「ご検討の時間が短く申し訳ありません。素材割当ての都合で、本日の日没までにお返事をいただけますか」


 使者がヴァルターへ向き直った。


 ヴァルターは契約書に触れなかった。


「工房の契約を決めるのはリディアだ。書面を置いて、夕刻に出直してくれ」


 使者は一礼し、小応接室を出た。


 ヴァルターは椅子へ背を預け、ただ待っていた。井戸ではリディアの停止判断を支え、今は契約の返事を急かさない。


 砦を捨てた臆病者。その呼び名だけが、目の前の姿から浮いている。


「一つ、伺ってもいいですか。契約とは関係のないことです」


「聞こう」


「なぜ、破談の前から、うちへ縁談を打診していたのですか」


 ヴァルターはすぐには答えなかった。卓の契約書でも窓でもなく、リディアを見たまま、短く言った。


「……いずれ、話す」


 はぐらかしの言い方ではなかった。期日を切らない保留は、商談にもある。話す時期まで込みで、値の付く話なのだろう。


 リディアはそれ以上押さず、今月の材料費を賄えた工房台帳と、名前を消せと告げる契約書を並べた。


 夕刻までに選ぶため、専属条項の最初から読み直した。



 夕刻、アルデン家商会の使者は小応接室へ戻った。


 匿名専属契約書と工房台帳は、朝のまま卓上にある。


「先に一点、誤解のないよう申し上げます。窯と井戸の依頼主を商会へ移す話ではありません。あの二件で、こちらは工房の修理技術を確認しました。今後、商会が受ける案件を専属でお願いしたいのです」


 使者は契約書の保証名義を示した。修理品はアルデン家の新品保証で出し、リディアとグレン家工房の名は伏せる。その代わり、必要な素材を一定の価格で優先して回す。


 二件の仕事を奪うのではない。二件を証明にして、その先の仕事と材料を一つに束ねる提案だった。


「検討の時間が短く恐縮ですが、資材割当ての締めが日没です。お断りの場合は、優先枠を依頼した三軒の材料商へ今夜中に伝えます」


 リディアは二件の入金へ指を置いた。材料が安定すれば、次の仕事は続けやすい。けれど、続くほど自分の名は表から消える。


「条件は分かりました。署名はしません」


 使者は一度だけ確認した。


「最終のお返事として、三軒へ伝えてよろしいですか」


「はい」


 使者は契約書を鞄へ戻し、一礼して退室した。


 ヴァルターは扉が閉じるのを待ってから、濃紺の封蝋がある書面を出した。


「これはアルデン家の契約とは関係ない。グレン家と、あなたの間で結ぶ工房の営業契約だ」


 表題の下に、営業者リディア・エルマーとある。この契約の下では、仕事はエルマー工房の名で外へ出ることになる。


 受注と修理保証はリディアの名で出す。生活契約にある「新たな損失はリディアが負う」という条項だけを改め、工房収入で埋められない営業損失は、営業者と工房主が半分ずつ負担する。材料も顧客も保証しない。


 同じ内容の書面が二通あり、どちらにも二人分の署名欄があった。


「今までの生活契約とは別ですか」


「工房を使う権利も、ほかの生活条件も変えない。これは、誰の名で仕事を受け、営業損失をどう分けるかだけを決める」


 リディアは材料費の欄を開き、二件の入金からもう一度差し引いた。


 素材の供給はない。顧客の保証もない。損失は帳簿に残る。どれも、知らない危険ではなかった。閉じた工房を開けた日から、自分で数えてきたものだ。


 それでも二件の入金は、今月の材料費を越えている。この数字を続ける限り、自分の名でここにいられる。


 リディアは二通の営業者欄へ署名した。


 ヴァルターも二通の工房主欄へ名を書いた。一通をリディアへ渡し、もう一通を自分の前へ置く。


 翌朝、二人が工房で工房台帳の在庫の頁を開いていると、家令が封書を三通運んできた。


 差出人は、修理用の同系統合金を仕入れていた三軒の材料商だった。理由の書き方は違った。大口契約の優先、割当て済み在庫、入荷時期の未定。結論だけが揃っている。新規注文は受けない。


 リディアは封書を重ね、合金の棚を開けた。薄板と切れ端を作業台の布へ出し、受注の頁の必要量と照らす。


「最初の一件にも足りません」


 ヴァルターは家令へ返書を命じなかった。自分の署名がある契約書へ三通を挟み、棚の反対側から残った合金を布へ移す。


 使える合金の列は、受注の頁の必要量を示す線まで届かなかった。


 ヴァルターが不足分を余白へ書く。リディアはその手を待たずに、次の在庫箱の留め金を外した。


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