乾く畑で波を読む
◇
井戸は、乾き始めた畑の端にあった。
苗の列のあいだの水路は乾き、土の表面が細かく割れている。据え付けたままの揚水器には泥が乾いて残り、そこから伸びる吐出管だけが新しい光沢を返していた。
「工房で言ったとおりだ。水を吸わせると止まる」
農家の男が、揚水器の脇の金具を指した。
「そこの弁が、硬え音を立てて開く。開いたら、それっきりだ。空で回すぶんには、いくらでも回るんだがな」
「替える前はどうでしたか」
「遅くても、水は上がっていた」
男が井戸枠へ手を掛けた。指の付け根に、井戸縄で擦れた赤い筋と、硬く盛り上がった皮膚が残っている。
「今は手で汲んでる。桶で運ぶだけで一日が終わる。畑をいじる手が残らない」
男は乾いた水路へ目をやった。
「日が落ちるまでにこの溝へ水を通せなけりゃ、苗のほうが先に参る」
その代償が、男の手に残っていた。
リディアは揚水器の前へしゃがんだ。
据え付けを外さずに、外箱、吸入口、核石、主導路、脇へ分かれた旧保守導路、安全弁の順に確かめる。割れはない。吸入口に泥も藁も詰まっていない。安全弁は閉じた位置へ戻っている。
新しい吐出管の継ぎ手も、緩みなく締まっていた。管の内側には、水の通り道に沿って導路が走っている。揚水器の主導路から続く一本だ。
リディアは核石へ指を添え、ごく弱い魔力を流した。
羽根が一つ回るたび、主導路へ波が一つ送り出される。波は管の先まで行き、跳ね返って戻ってくる。
新しい吐出管の返りだけが、際立って速い。向きを変えてもう一度流しても、同じだった。往復が短いのだ。
「壊れてるのか」
「どこも壊れていません」
リディアは井戸を覗き込み、足元の小石を一つ落とした。
水面に輪が広がり、石積みへ当たって戻ってくる。戻ってきた輪が足元へ届いたその瞬間に、二つ目の小石を落とした。返る波と新しい波が同じところで足され、水面が一度、高く跳ねる。
三つ目は、輪が届く前に落とした。水面は跳ねなかった。
「間合いです。戻る波と、次に送る波が同じところで出会えば、足されて高くなる。ずれていれば、何も起きません」
「その管が、速いからか」
「速いだけなら、何も起きません。羽根が水の重さを受ければ、回るのは遅くなる。送るほうの間合いが変わります」
いま空で回っている間合いは、満水の間合いではない。
「揃うかどうかは、水を上げてみるまで分かりません。井戸から汲んで、そのときの中を読みます」
ヴァルターが井戸の縁から吐出管の先まで歩いた。
「深さは」
「十二間だ。管はあの溝へ向ける」
ヴァルターは継ぎ手の正面へ回り、地面へ境の縄を置いた。水と破片の飛ぶ方向を囲い、核石側だけリディアの手が届く幅を残す。
「線の内側に残るのは、操作する三人だけだ。あなたは棹、リディアは核石、私は継ぎ手の正面。ほかは外へ」
畑にいた農夫たちが下がった。農家が操作棹の前へ立つ。ヴァルターは継ぎ手の正面から動かなかった。
三つの持ち場のうち、水と破片がまっすぐ向かうのは、その位置だけだ。
リディアは核石に置いた指を、もう一度だけ継ぎ手へ移した。返る波は、さきほど確かめたときと同じだった。
「止めろと言われたら、棹はすぐ戻せるか」
「おう」
水と破片の飛ぶ正面を、この人が自分の持ち場にしている。臆病者は、そこには立たない。軍の中でも、立たないはずだ。
なら、噂のほうが間違っている。この人は、家の金で買った腕が転ぶ瞬間を、人任せにしない当主なのだ。損得の見張りなら、いちばん危ない場所に立つ理由になる。
リディアは核石へ指を戻した。
「動かしてください」
農家が操作棹を押した。
羽根の低い音が井戸へ沈む。はじめのうち、指先へ返る波は、さきほど読んだときと変わらない。やがて回転音に、水の重さが混じった。
羽根が重くなる。一回転が、わずかに長くなる。
送り出された波が管の先で跳ね返り、戻ってきた。戻った波は、ちょうど次に送り出される波と、安全弁の手前で出会った。
二つが足される。
一度目より二度目、二度目より三度目が高い。膨れた力が指を押し返す。揃ってしまったのだ——なぜ、いま、この回転で揃うのかは分からないまま。
継ぎ手がきしんだ。
安全弁が硬い音を立てて開く。羽根が止まり、吐出管の水が井戸へ落ちていった。
「まただ」
農家が井戸枠に掛けた縄をつかんだ。
「開くたびに止まるなら、こいつを押さえてくれ。日が落ちる前に、水を上げたいんだ」
縄を握る指に、硬い縄だこが盛り上がっている。今日も手で汲めとは言えない。
それでも、弁の手前で膨れた力は、まだリディアの指先に残っていた。逃げ場を塞げば、それは次に新しい継ぎ手へ向かう。
「できません」
リディアは開いた安全弁を示した。
「これは壊れて開いたのではありません。弁の手前で力が足されたので、逃がしたんです。押さえたら、次は管が破れます」
「なら、なぜ足される」
「まだ分かりません」
言ってしまえば、それが答えだった。呼ばれて来て、何も直せないまま止めろと言う者になる。
それでも、指先へ返った力は消えない。
「分からないまま押さえるのが、いちばん危ないんです。分かるまで止めます」
「止めたら、畑は――」
「管が破れたら、この揚水器では今日はもう水を上げられません」
農家が井戸の縄を持ち上げた。
ヴァルターが農家と安全弁のあいだへ入り、井戸の縄を持つ手を弁から遠ざけた。
「畑が乾くのは分かっている。それでも、続けさせない」
彼は縄を下ろさせてから、農家の目を見た。
「止めると決めたのはリディアだ。理由がまだ出ていないのも本当だ。それでも私はこの人の読みに従う。腹が立つなら、私に言ってくれ」
農家は縄を放さなかった。
握ったまま、揚水器を見ている。泥の乾いた本体を、上から下まで、値踏みするように。
「あんたら、これが破れたらどうなるか分かって言ってるか」
「分かっています」
「分かってねえ。代わりを買う金はねえんだ。この井戸には、こいつ一台きりだ」
リディアは答えなかった。男の言うとおりだった。焦げたパンなら明日また焼ける。この揚水器は、壊れたら畑ごと終わる。
ヴァルターが言った。
「壊れた場合は、グレン家が同じ型を購い直す。それと、直るまでの水汲みには、うちから人手を出す。日当もうちが持つ」
農家が、初めて揚水器から目を離した。
「……騎士様が、水汲みの人手を出すってのか」
「止めろと言ったのは、こちらの側だ。乾く畑の勘定を、あなた一人に負わせる話ではない」
農家はもう一度、揚水器から乾いた苗へ目を移した。
量れるのは、井戸の主だけだった。
農家は縄を井戸枠へ戻した。
「人手は借りねえ。うちの連中で運ぶ。日が落ちるまでだ」
彼はリディアを見た。
「それまでに、こいつを直すか、直せねえと言え。どっちでもいい。だが夕方までに言え」
「分かりました」
「おい、桶を出せ」
農夫の一人が納屋へ走る。
リディアはまだ、何ひとつ証明していない。それでも棹は戻された。渡されたのは、期限だ。祝宴の広間で認証札を示されたときには、誰も手を止めなかった。
井戸のそばには、開いた安全弁と、止まった揚水器と、答えの出ない管が残った。リディアの手元に、原因はまだない。
手桶が井戸を出て、畑へ行き、また戻ってくる。その一往復のあいだにも、日は高くなっていった。
◇
跳ね返っているのは、どこだ。
リディアは吐出管の継ぎ手へ手を掛けた。
締めすぎたのかもしれない。強く締めた継ぎ手は、そこで硬い壁になる。壁が手前にあれば、波はその手前で跳ね返る。往復は短くなり、返りは速くなる。
留め具を外し、ねじ山を光へ向けた。潰れていない。締めすぎた継ぎ手の当たり面に残るはずの圧痕も、どこにもなかった。管の内側を覗いても、詰まりはない。
締めすぎではない。
リディアは継ぎ手を締め直した。
背後で水の音がした。
農夫が手桶を井戸から引き上げ、畝のあいだへ運んでいく。桶の水は、一つの畝の根元を濡らしただけで尽きた。農夫はまた井戸へ戻る。
リディアは畝を数えた。井戸から向こうの生垣まで、水路は畑を二十以上に割っている。この速さでは、日が落ちても水は端へ届かない。
もう一度、新しい吐出管へ微弱な魔力を流した。
跳ね返るのは管の先だ。古い管でも、そこで返っていた。
リディアは返りの間合いを指先で測った。送ってから戻るまでの、短い一拍。何度流しても同じ長さだ。
その一拍を、さきほど覚えた別の間合いと並べる。水の重さが乗って落ちた、羽根の一回転。
二つは、ほとんど同じだった。
「揚水器は壊れていません。この管も」
リディアは新しい吐出管へ手を置いた。
「この管の返りと、満水のときの羽根が、同じ間合いになりました」
「揃うと、どうなる」
「毎回、同じところで足されます。安全弁の、すぐ手前で」
古い管は往復が長い。だから遅くても、水は上がっていた。
安全弁は、足されて膨れた力を逃がすために開いたのだ。
リディアは脇の旧保守導路へ指を移し、魔力を流した。
点検用に切られた道は、途中で二手へ分かれていた。波は二つになり、別々に返ってくる。返りの間合いも二つだ。どちらも、羽根の一回転とは揃わない。
「直します。部品は替えません」
リディアは開いたままの安全弁を、閉じた位置へ戻した。弁の働きはそのままにして、留め具を緩め、吐出管の接続を主導路から脇の旧保守導路へ移す。締め直し、もう一度弱い魔力を流して、返りが二つに分かれることを確かめた。
リディアは農家へ向き直った。
「保守導路は点検用の細い道です。ここへ回すと、汲み上がる速さは少し落ちます。それから、弁はこのままにします。もし足し合わせが出れば、弁はまた開きます。そのときは、また止めます」
農家は安全弁を見てから、うなずいた。
ヴァルターは境の縄の位置を変えなかった。
「線もさっきのままだ。持ち場も、合図も変わらない」
農家が操作棹の前へ立つ。農夫が桶を置き、線の外へ下がった。
「動かしてください」
羽根が回り始めた。低い音へ、汲み上がる水の重さが加わっていく。
リディアは、先ほどきしんだ継ぎ手へ意識を絞った。
羽根が重くなり、送る間合いが落ちていく。戻る波は保守導路で二手に分かれ、二つの間合いで返ってきた。どちらも、送りとは出会わない。指を押し返す力は来ない。
水の重さが二度、三度と乗っても、継ぎ手はきしまなかった。
安全弁は閉じたままだ。
吐出管の先が震えた。
最初の水が、向けられた溝へ落ちる。乾いた土が跳ね、叩かれたところから黒く変わっていく。水は途切れずに続いた。
農家は安全弁ではなく、伸びていく水を見ていた。それでも、棹からは手を離さなかった。
「リディア、もういいか」
リディアは反響を一巡待った。乱れはない。
「はい。もう止めません」
「では、試験はここまでだ」
ヴァルターが境の縄を拾い上げる。農家が棹から手を離しても、羽根の音は落ちなかった。
線の外にいた農夫が畑へ戻る。水が苗の列へ伸びていく。
農家と農夫たちは鍬を取り、水を次の溝へ導き始めた。縄だこの残る手が、今度は鍬の柄を握っている。
ヴァルターは井戸枠へ紙を広げ、書きつけていた。
試験の日付と時刻。安全弁が開いた回数。力が足された位置は、弁の手前。止めると決めたのはリディアであること。接続を主導路から旧保守導路へ移したこと。再試験では弁が開かなかったこと。
彼は紙をリディアへ渡した。
「工房台帳へ。この井戸の頁だ」
書かれた行を目で追う。止めると決めたのはリディアであること。その一行が、そのまま残っている。
「止めると言ったとき、なぜ疑わなかったのですか。理由は、まだ出ていませんでした」
「あなたが読んだからだ」
短い答えだった。
「……買った腕を信じるのは、当主の勘定ですね」
ヴァルターは答えなかった。境の縄を巻き取る手が、一拍だけ遅れた。
リディアは紙を畳み、修理箱へ収めた。
畑から戻ってきた農家が、井戸の脇で足を止めた。
「なあ。ほかにも、止まった道具を抱えてる家がある。話すとき、何て言えばいい」
ヴァルターは答えず、リディアを見た。
リディアは回り続ける揚水器を見てから、答えた。
「グレンの工房です。直したのは、リディア・エルマー」
男は口の中でその名を二度繰り返した。
井戸では、揚水器が水を上げ続けている。その音は、生垣の向こうまで届いていた。




