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side ヴァルター

 夜更けだった。グレン騎士爵家の執務室は、灯りを一つに減らしてある。


 ヴァルター・グレンは帳簿を閉じた。数字は先月と同じ場所で赤い。家の工房を閉じても残る維持費。減ったままの交易の取り分。


 扉が鳴り、家令が書状を一通、卓へ置いた。


「エルマー家より、返書が届いてございます」


 何年も保留のままだった、自分の打診への返事だった。


 封を切る。アルデン家との婚約解消が成立したこと。グレン家の打診を受ける方向で進めること。その下に、条件が行の頭を揃えて並んでいる。日取りは早く。あとの行も、どれも角の立たない言葉で、エルマー家の側に都合よくできていた。書いたのは父親だろう。事務に慣れた、迷いのない字が、最後まで続いている。


 最後まで読み、ヴァルターは末尾の一行へ戻った。


――本人の希望により、修理道具一式を持参する。


 娘の声は、その一行にだけあった。もう一度、読んだ。


 砦へ発つ少し前まで、ヴァルターは王都にいた。


 婚姻は、当時から避けられない話だった。当主が独り身のままでは、家が続かない。届く縁談の紙はどれも同じに読めて、返事を延ばし続けていた。


 演習の朝、納品に来た職人の娘が、武具庫の前で足を止めた。積まれた演習用の槍へ指先で触れ、整備方に告げた。


「三列目の槍は、返りがずれています。導路が傷んでいる。使う前に、見てください」


 整備方は検査済みの札を見せた。娘は一度だけ言い直した。壊れる前なら直せます。それきり食い下がらず、受領の印をもらって帰っていった。


 三日後の演習で、槍が折れた。彼女の言った一本だった。柄を握っていたのは、ヴァルターの隊の若い兵だ。兵は、裂けた籠手と頬の浅い傷で済んだ。折れた穂先が半歩内へ跳ねていたら、傷では済まなかった。


 整備方は検査の周期と、兵の振りの癖を疑った。武具庫の前の言葉へ戻る声は、聞こえてこなかった。指摘と破損を繋げて考える者は、ヴァルターのほかに見当たらなかった。


 事故のあと、ヴァルターは隊の装具の検分を命じた。数日で、報告はこちらの顔色に合わせて整った。傷んでいるかと問えば傷んでいると言い、まだ使えるかと問えばまだ使えると言う。


 物は、壊れる前に兆候を出す。人は、まだ使えると読みたがる。兵の傷は、その読み違えの値段で、払ったのは読み違えた者ではなかった。


 彼女は、自分が正しかったことを知らないまま王都を去ったはずだ。名を調べたのは、ヴァルターのほうだった。エルマー。とうに修理の看板を下ろし、取次へ移った家の名だった。


 どうせ娶るなら、読める人がいい。壊れる前の兆候を、誰に頼まれなくても読む人がいい。そう決めて、その年のうちに、取次の伝手を通して内々に打診を入れた。家の中では、家職を口実に立てた。防壁と武具を預かる家に、壊れる前を読む目を入れる。当時は工房も生きていて、それで筋が通った。先方へは、理由まで伝えていない。


 返事は、初めから保留だった。やがて娘にアルデン家との婚約が調ったと知らせが来て、保留はそのままになった。取り下げは、しなかった。断りも、来なかった。


 ヴァルターは読み終えた返書を、家令へ渡した。


 目を通した家令が言った。


「条件が、家格の割に多うございます。いかがなさいますか」


「すべて受けると返せ」


 家令は一拍おいて、返書を卓へ戻し、頭を下げた。


「承知いたしました」


 理由は問われなかった。家の中では、これは工房のための縁組で通っている。


 一人に戻った執務室で、ヴァルターは返書を畳んだ。


 内々に打診を入れたころは、どうせ娶るなら、の話だった——と、自分には言っていた。どうせなら、で選ぶ男は、断りも来ない返事を何年も待たない。縁談の紙は、あれからも届き続けた。どれと結んでも、家は続いた。自分から望んで出したのは、あの一通きりだ。


 砦から戻り、悪評だけが残った。この家が差し出せるものは減り続け、言い方だけが剝がれた。あの読み方をする人が——彼女が、この家で暮らす。最初から、それが全部だった。


 閉じた工房を開けるかどうかは、望みに入れない。あれも道具のうちで、道具のことは、使う人が決める。


 望みは、言わない。彼女には、断れない婚姻だ。断れない人に家主の望みを重ねれば、条件になる。自分の望みは、自分で抱えればいい。


 彼女は、この家の悪評と、傾いた家計と、条件の並んだ紙だけを読んで来るだろう。読み違えるなら、させておけばいい。


 修理道具だけは、間違えずに持ってくる。


 ヴァルターは返書を引き出しへ収め、妻を迎える支度を家令へ命じるため、灯りを持って立ち上がった。


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