修理道具だけは
エルマー家へ戻ったときには、もう夜になっていた。
リディアは玄関で外套だけを脱ぎ、修理箱を持ったまま応接室へ入った。革の持ち手には、祝宴灯の焼けた導路の匂いが残っている気がした。
父は長椅子に腰かけず、暖炉の前に立っていた。
卓上には、封を切られた書面が一通置かれている。見覚えのあるアルデン家の封蝋が、二つに割れていた。
「お前より先に、使いが来た」
父が書面を示した。
「お前とユリウス・アルデンの婚約を解消する。条件の詳細は後日、両家で確認するそうだ」
広間で聞いた言葉が、今度は紙の上に並んでいた。
左列の祝宴灯が消えても、婚約は戻らなかった。リディアの診断が正しくても、書面の文字は一つも変わらない。
「分かっています。本人から聞きました」
「そうか」
父は書面を畳み直した。
慰めの言葉はなかった。責める言葉もない。ただ、破談が覆らない事実だけが、卓上に置かれていた。
父は、もう一通の書面を卓上へ出した。
「先に説明しておく。今夜、破談の知らせを受けてから探した話ではない」
「先に、とは」
「グレン家からは、以前からお前との縁談を打診されていた。アルデン家との婚約が続く間は、返事を保留にしていた」
リディアは初めて見る封印へ目を落とした。剣と城壁を組み合わせた紋が、濃紺の蝋に刻まれている。
蝋は乾き切って、縁が白く粉を吹いていた。今夜押された封ではない。
つまり、ユリウスが商人たちを並べて婚約の解消を告げていたあいだ、この家には、もう次の紙が伏せてあった。
「なぜ、私には何も」
「進められない話で混乱させる必要はないと思った。だが、アルデン家から正式な通知が来た以上、これ以上は伏せておけない」
父は書面をリディアの側へ寄せた。
「破談は、明日には広まる。広まってから縁談を探す家と、先に打診を受けていた家とでは、こちらの言える条件が違う」
暖炉の火が、濃紺の蝋を鈍く光らせた。
「受ける方向で返事をする。相手はヴァルター・グレン騎士爵だ」
知らない名ではなかった。
けれど、知っているのは名前より、その前につく言葉だ。
砦を捨てた臆病者。
「ヴァルター・グレンというのは、辺境戦で砦を捨てた指揮官ですか」
父は否定しなかった。
「そう噂されている騎士爵だ。悪評があることも承知している」
「それでも、縁談を進めるのですか」
「噂だけで断るとも決めない。悪評のある家は、こちらの条件を通しやすい。家同士で確かめたうえで、正式に返事をする」
婚礼の日取りを相談するつもりで出かけた日の夜に、別の相手との縁談を告げられている。
リディアは指先を握った。祝宴灯へ魔力を流したときより、今のほうが手が冷たい。
「その返事に、私の言葉は入りますか」
父はすぐには答えなかった。
「縁談を進めないという返事をするつもりはない」
やはり、相手を選べるわけではない。
「ただし、今夜ここで婚姻が成立するわけでもない。先方へ返す条件があるなら、先に聞く」
「条件」
「暮らし方でも、持参する物でもいい。後から聞いていなかったとは言わせない」
ユリウスとの婚約がなくなったあと、誰の妻になるかは父が決める。それでも、新しい家へ何を持っていくかには、リディアの言葉を入れられる。
足もとの修理箱が、暖炉の光を鈍く返していた。角の擦れた革箱は、新品の祝宴灯が並んだ広間でも場違いだった。騎士爵家へ持っていっても、同じように扱われるかもしれない。
それでも、左列の導路が焼けると分かったのは、この箱の道具と、自分が覚えた仕事があったからだ。
婚約を失っても、その事実だけは消えなかった。
リディアはグレン家の書面から目を離し、修理箱を両手で持ち上げた。
「持参する物は、これから選びます」
父の視線が革箱へ落ちる。
「それも持っていくのか」
「修理道具だけは、持っていきます」
政略結婚を選んだわけではない。
ヴァルター・グレンがどんな人物かも、噂以上には知らない。
けれど、この箱を置いていくかどうかだけは、リディアが決められる。
父はしばらく修理箱を見ていた。止めはしなかった。
「では、それも荷に加えなさい」
父はもう、卓上の書面へ目を戻していた。
リディアは縁談の書面を受け取った。薄い紙は、使い込んだ修理箱よりずっと軽い。それでも、これからの暮らしを動かす重さは、紙のほうにあった。
応接室を出る。
片手には、自分が知る前から届いていた縁談の書面。
もう片方には、自分で持っていくと決めた修理箱。
リディアは二つを持って、新しい家へ行く支度を始めた。




