破棄の夜、灯りは予告どおりに
アルデン家の祝宴広間は、新しい灯りの白さで隅まで照らされていた。
祝宴灯は三列。背の高い支柱が床の導線から魔力を受け、頂の硝子覆いには傷一つない。どの支柱にも銀色の認証札が結ばれている。
今夜は、この祝宴灯の初点灯と、製造元との新規取引を披露する内祝いだという。
リディア・エルマーは、使い込んだ修理箱を足もとへ置いた。
夕刻、修理先から工房へ戻る途中でアルデン家の使いに呼び止められた。婚礼について話があるので、すぐ来てほしい。そう聞かされ、修理箱を置きに戻る時間もないまま直行した。
父が修理の看板を下ろしたあとも、工房の鍵を持って通っているのはリディアだけだ。
新品ばかりの広間では、角の擦れた革箱だけがひどく場違いに見える。それでも婚礼の話なら、結婚後も修理職人として働くことを、今夜こそ婚約者のユリウスと具体的に相談できると思っていた。
「急に呼び出して悪かった」
ユリウス・アルデンは、長卓の向こうに立っていた。隣には彼の父と、見慣れない商人たちが並んでいる。壁際には、給仕を待つ使用人たちが控えていた。
誰もリディアへ椅子を勧めなかった。
「君との婚約を解消する」
婚礼の日取りを決めに来たはずだった。
息が浅くなる。数えようとした癖だけが空回りして、何も読み取れない。言葉の意味は、遅れて形になった。
「新しい取引の祝いに、なぜ私を呼んだのですか」
「今夜、取引先との新しい縁談も公表する。人づてに聞かせるより、この場で私から伝えるほうが、君のためだ」
公表のために、長卓の向こうへ商人たちが並んでいる。
婚約を終える話だけが、リディアの知らないところですでに整えられていた。
「……理由を聞いても?」
「アルデン家は、新品の魔法道具を扱う家と提携する。婚姻も、その結びつきを確かなものにする相手と進めることになった」
ユリウスは認証札の下がる祝宴灯を見上げた。
「修理して古い品を使い続ける時代は終わる。これから必要なのは、規格の揃った新品と、製造元が保証する安全だ」
意味なら分かる。
同じ判断を、父はもう下している。
同じ規格の品を一括して仕入れれば、管理は簡単になる。故障のたびに職人を呼び、壊れ方を一つずつ調べる必要もない。
けれど、その選択に婚約まで含まれているとは思わなかった。
「私の修理が、提携の妨げになるのですか」
「君は直せる物と、使うのをやめるべき物の境を軽く見ている」
「その境なら、毎日見ています」
声が強くなった。リディアは息を整える。
「直せない物を直すとは、一度も言っていません。私は、直せる物だけを選んで、その責任も――」
「その判断を、一人の職人の感覚に任せるのが危険だと言っている」
ユリウスの視線が、足もとの修理箱へ落ちた。
「祝宴の席へまで、その古い道具を持ち込む。君はどこにいても修理職人で、アルデン家の妻になる準備をしようとしなかった」
話は終わっていた。
リディアは修理箱の持ち手へ指をかけ、身をかがめた。
床板が、温かい。
膝をついた姿勢のまま、手のひらを広間の床へ滑らせる。長卓の下から広間の左手へ向かって、温みは一方向にだけ続いていた。反対側の床は冷たい。
祝宴灯は、熱を出す道具ではない。
持ち手を握ったまま、リディアは動かなかった。
このまま出れば、破談だけを持ち帰って済む。
リディアは長卓を回り、温みの続く先の支柱へ近づいた。
「何をしている」
「床が温い理由を、確かめます」
支柱へ触れ、糸ほどの魔力を流す。
核石は、灯りをともす機能を正しく覚えていた。流した魔力はそこから導路を巡り、反響になって指へ返ってくる。左から三つ目の接続部で、その反響が鈍く詰まった。戻ってきた波は、入れたときよりわずかに熱を帯びている。
床の温みは、ここから来ていた。
もう一度流す。次の反響は、さらに遅い。
「左列を止めてください」
広間の視線が集まった。
「左から三つ目の接続部で反響が乱れています。このまま流せば、導路が焼けます」
言ってしまえば、もう黙っては出られない。
外れれば、破談された女が腹いせに祝宴を止めようとしたことになる。婚約も、修理を続けたまま妻になるという道も、今夜すでに失った。残っているのは壊れ方を読めることだけで、それを今、自分でこの場へ置いた。
ユリウスは眉を寄せた。けれど、支柱へ駆け寄りはしなかった。長卓に広げられた検査証を取り上げ、リディアへ認証官の刻印を見せる。
「昨日、製造元と認証官の検査を通った新品だ」
「今は反響がずれています」
「検査記録と、君が一度触れただけの感覚。取引の場でどちらを根拠にすべきかは明らかだ」
商人の一人が、小さく笑った。
「古い道具は、声を上げるそうですよ。修理職人にだけ聞こえる声で」
笑いが二つ、三つと重なる。
リディアは支柱から手を離した。もう一度調べれば、焼損までの余裕をもっと正確に読める。修理箱には導路を切り離す工具もある。
だが、持ち主の許しもなく、他家の品へ勝手に刃を入れることはできない。
「少なくとも、左列だけでも消してください」
「婚約を解消された腹いせに、祝宴を止めたいのか」
「腹いせなら、黙って出ています」
答えた直後、乾いた音がした。
青白い筋が左列を走る。三つ目の灯りの根もとで強く瞬き、そこで途切れた。
左列が、一斉に消えた。
笑い声も消える。
遅れて、焼けた導線の苦い匂いが広がった。硝子覆いの内側に細い煙がまとわりついている。
「主導路を切れ。左列には触るな」
ユリウスはすぐに使用人へ命じた。
「製造元を呼び、認証番号と焼損箇所を記録させろ。残り二列も再検査する」
指示は正しい。故障のあとに限れば。
リディアは修理箱の持ち手を握り直した。
「私の診断は、間違っていませんでした」
「新品が一つ故障したことと、君の修理が安全だということは別だ」
ユリウスは彼女を見た。声は低く、先ほどと変わらない。
「婚約解消も変わらない。正式な通知は、今夜のうちに君の家へ届く。条件は改めて両家で確認する」
彼の父は、煙の残る左列ではなく商人たちへ向き直った。
「灯りは、二列で足りる。製造元の確認が済みしだい、改めて説明の場を設けよう。今日の話は予定どおり進める」
もう、リディアへ向けられる言葉はなかった。
婚約は失われた。妻として入るはずだった場所も、そこで修理を続けるはずだった約束も。
当たったところで、何一つ戻らなかった。
それでも、左列は暗いままだ。
彼女は修理箱を持ち上げた。使い込んだ革と金具の重さが、手のひらへ確かに返る。
一礼し、灯りの欠けた広間を出た。




