閉ざされた工房
グレン騎士爵家の門が、馬車の後ろで低く軋んだ。
リディアは玄関前へ下ろされた修理箱を持ち上げた。衣類の荷箱を受け取った使用人が屋敷へ向かう。振り返ると、実家から来た馬車はもう門を出るところだった。
馬車は待たない。ここへ運ぶまでが役目だった。
玄関前に並ぶのは、年配の家令と二人の使用人だけだ。夕刻なのに、広間の灯りも二つしかともっていない。壁の燭台には空きが並び、窓枠の塗装は剥がれている。
壊れてはいない。ただ、直す順番を何度も後ろへ送られた家に見えた。
「婚礼の支度が簡素で、申し訳ございません」
家令が頭を下げた。
「以前から、このような状態なのですか」
「旦那様が辺境の砦から戻られてからでございます」
砦を捨てた臆病者。
父から聞いた評判が、灯りの少ない広間へ重なる。
家令の口が、一度開いて、そのまま閉じた。続きの代わりに、頭が深く下がる。
「……わたくしどもの口から申し上げられることは、多くございません。工房のことも、どうか旦那様に」
「工房があるのですか」
「ございました。今は閉じております」
靴音がして、家令が一歩退いた。
黒い礼装の男が廊下から現れる。飾りは少なく、腰に剣もない。それでも、広い肩と周囲を一度で見る目は、祝宴より戦場に近かった。
ヴァルター・グレン。
彼の目がリディアから修理箱へ移る。使用人が箱を受け取ろうと手を差し出した。
「その箱は、彼女が置き場所を決める」
使用人の手が止まった。
「お部屋へお運びしなくてよろしいのですか」
「本人が望むなら運べ。そうでなければ触れなくていい」
ヴァルターはリディアへ向き直った。
「長旅をさせた」
「予定どおりの時刻です」
「そうか」
歓迎されたわけではない。修理道具を役立つとも言われていない。
それでも、箱を持ってきた理由を問われず、置き場所を決める手だけはリディアに残された。
砦を捨てたという噂から想像していた男と、妻の荷を本人に決めさせる扱いは合わない。けれど軍では、隊の備品と私物を分けて扱うと聞く。指揮官の癖が、そのまま出ただけだろう。リディアは持ち手を握り直した。
小礼拝室では、司祭と家令と書記が待っていた。
花も客もない。司祭が婚姻の文言を読み、ヴァルターが先に婚姻台帳へ署名する。
筆がリディアへ渡された。
まだ名前を書いていない。今なら、法の上ではヴァルターの妻ではなかった。
けれど実家は、この縁談を進めてリディアを送り出した側だ。この婚姻が壊れても、昨日までの部屋へ戻れば済むわけではない。
修理箱の持ち手が、左手へ食い込んでいる。
箱を持ってくることだけは、自分で決めた。次に決められることが何かは、署名してから探すしかない。
リディアは台帳へ名を書いた。
書記が婚姻台帳を閉じる。乾いた音が礼拝室へ響き、司祭が婚姻の成立を告げた。
ヴァルターは閉じた婚姻台帳を見てから言った。
「今夜、ここでの生活について話したい。口約束ではなく、書面にする」
「私の条件も書けますか」
「そのために話す」
彼は家令へ、先に部屋を案内するよう頼んだ。
居住棟へ続く回廊で、リディアは足を止めた。
中庭に面した石造りの一角だけ、窓が板で塞がれている。厚い扉には大きな錠が下がり、その脇に色の褪せた修理受付の札が残っていた。
「ここが工房ですか」
「はい」
家令も立ち止まった。
「閉鎖後、残った品の持ち主へ三度、引き取りの通知を出しました。期限を過ぎても残っておりますので、明朝、整理業者が回収いたします」
長く閉じた工房のために、処分が急に決まったのではない。決まっていた手続きの最後へ、リディアが今日着いたのだ。
扉の中は見えない。何が残り、どれだけ損失があるかも分からない。
「お荷物をお部屋へお運びします」
家令が修理箱へ手を向けた。
リディアは持ち手を握り直した。
「これは私が持ちます。先に、執務室へ案内してください」
今夜の書面で回収を止められなければ、扉の向こうを確かめる前に工房は空になる。
リディアは部屋へ向かう回廊を外れ、修理箱を持ってヴァルターの待つ執務室へ向かった。
◇
執務室の机には、署名欄の空いた契約書が置かれていた。
リディアは修理箱を椅子の脇へ置き、ヴァルターの向かいに座った。部屋へ運ばれるはずだった箱がここにある理由を、彼は尋ねなかった。
「ここで暮らす条件だ」
ヴァルターが契約書をこちらへ向けた。
「夫婦の部屋は分ける。生活費は家計から毎月支給する」
家計から出せる額と支給日まで、先に書かれている。
彼の指が、最後の空欄で止まった。
「一年後も、あなたがここに――」
ペン先が紙へ小さな点を残す。
ヴァルターは言葉を切り、空欄へ文を書き始めた。
「一年後、あなたが望むなら婚姻を解消できる。私の許可は要らない。その条件を加える」
リディアは書き足された一文を読み直した。
一年間は婚姻が続く。その先まで期限なく縛られないための出口は、自分の側にある。ただし、その出口を使ったあとに戻る実家はない。
「一年が過ぎれば、私だけの署名で解消を求められるのですね」
「そうだ」
ヴァルターは短く答えた。先ほど言いかけた文には戻らない。
言いかけた文の先を、リディアは推し量った。修理の家の娘に、破談の前から目を付けていた家だ。持参を許された修理道具も、閉じたままの工房も、傾いたままの家計も、同じ向きを指している。職人を雇う金のない家が、妻の形で腕を入れたのだ。続きは、おそらく――一年後もあなたがここにいるかは、腕を見て決める。そう結論すると、条文の乾いた書き方まで筋が通った。
「あなたから加えたい条件はあるか」
リディアは足もとの修理箱へ目を落とした。回廊で見た錠と、明朝という言葉が重なる。
「閉じた工房を、私に貸してください」
ヴァルターの目が修理箱へ向いた。
「中を見ていない」
「はい」
「今から家令に開けさせることもできる。中を見てから決めてもいい」
見れば、損の大きさは分かるかもしれない。けれど、傷んだ物が多ければ諦め、少なければ借りるという話ではなかった。
リディアが欲しいのは、未知が消えたあとの安全な作業台ではない。
「中を見る前に、条件を決めたいのです」
ヴァルターが返事を待つ。
「何を直せるか、何を使うのをやめるべきか。受ける仕事も、工房を閉じる判断も、私に決めさせてください」
「権利だけでは渡せない」
「責任も聞きます」
ヴァルターは机の端から、赤い数字の残る帳簿の控えを出した。
「工房には既存の赤字がある。未処理品の持ち主には、直せるか、返すか、なぜ手を付けなかったかを説明しなければならない。再開後の損失は、今の家計では埋められない」
彼は閉ざされた工房の方角を見た。
「明朝の回収を止めれば、その品も説明も工房へ戻る」
修理箱を持っているだけなら、誰にも損をさせない。
工房を選べば、直せないという判断にも、材料を買ったあとの赤字にも、自分の名が付く。
それでも、何も見ないまま整理業者へ渡せば、直せたかもしれない物を残す権利も失う。
「既存の赤字と未処理品は、工房の責任として引き受けます。新しい損失を、家計には負わせません」
リディアは帳簿の控えをヴァルターへ戻した。
「その代わり、修理可否と受注、必要な材料、閉鎖の判断は私がします」
ヴァルターはしばらく黙っていたが、工房を開いてほしいとは言わなかった。
契約書を引き戻し、一つずつ条項を加えていく。
工房の使用権。既存赤字と未処理品を含む運営責任。受注、修理可否、閉鎖の判断権。新たな損失を家計で補填しないこと。収入は材料費と工房の支払いへ先に充て、残額をリディアの取り分とすること。
「確認してくれ」
リディアは最初の行から読み直した。
別室。生活費。一年後に婚姻を解消できる権利。その下に、明日から負う工房の条件が並んでいる。
リディアは署名欄へ名を書いた。
ヴァルターも隣へ署名する。
二つの名を確認すると、彼は扉を開けて家令を呼んだ。
「明朝の工房回収を止めてくれ。整理業者へ今夜のうちに伝える」
「承知いたしました」
家令が去ってから、ヴァルターは引き出しを開けた。
鉄の鍵を、署名済みの契約書の上へ置く。
「工房の鍵だ」
リディアが取るまで、彼の手は鍵へ戻らなかった。
二人で中庭へ出た。
錠に鍵を差し込む。重い手応えのあと、二度目で錠が外れた。
扉を押すと、冷えた埃と油の匂いが流れ出す。
作業台には未処理台帳があり、入口脇の板には廃棄対象一覧が留められていた。リディアは一覧の上から順に、台帳の依頼番号を照らし合わせる。
持ち主へ返す物。部品として回収される物。未着手のまま残った物。
一覧の先頭にある番号で、指が止まった。
棚の一番手前に、同じ札を下げた金属箱がある。台帳の品名は、調炎魔具。修理欄は空白だった。
リディアは箱を開けず、一覧の番号に取り置きの印を付けた。
「これは回収から外します。最初に、持ち主と未処理の理由を確かめます」
「分かった」
ヴァルターは異を挟まず、台帳の横へ回収停止の時刻を書いた。
リディアは鍵を握ったまま、空白の修理欄を見た。
一年後の日付がある契約書は執務室に残っている。目の前には、明日から自分の名で埋める最初の一行があった。




