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夫は色の名前をひとつも知りませんでした。けれど私が染めた布を、一枚も手放しませんでした  作者: ヲワ・おわり


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第四十七話 染めることをやめられない

翌朝、工房の扉の前に立った。


手が、扉の取っ手に触れない。


昨夜はここを出た。乾燥台に染め途中の布が掛かったまま、出た。あの布はまだそこにある。色が定着しきっていない。このまま一日が過ぎれば、染料が酸化して濁る。完成しない布になる。


扉を開けた。


布が、そのまま乾燥台にあった。


光の角度で見ると、色がまだ浅い。もう半工程、染液に浸さなければならない。染液は昨日の分がまだ桶に残っているはずだ。


「奥方様」


ヨハンが工房の隅にいた。いつから来ていたのか、道具を整えていた。


「……染めますか?」


静かな問いだった。責めてもなく、勧めてもない。ただ、聞いた。


「……染める」


声が出た。


「止まれと言われた理由は分かっています」とイレーネは言った。「でも——染め途中の布を汚染物として捨てることはできない。職人として、できない」


ヨハンは頷いた。それだけだった。


「手伝います」と言って、桶を確認しに行った。


リゼッテが工房の入り口に来たのが見えた。入ってこない。ただ、入り口の框に手をついて、中を見ている。それでよかった。見ていてくれる人がいる、それだけで十分だ。


染液の桶を確認した。ちょうど良い温度が保たれている。ヨハンが昨夜のうちに管理しておいたのかもしれない。


布を桶に浸した。


手を動かしながら、頭の中で自分に問い続けた。


なぜ、染めるのか。


法令を無視するつもりはない。七日以内に署名をすれば、それで終わる。染めることをやめれば、ディートリヒは王都に戻る。クラウスへの圧力もなくなる。問題はなくなる。


でも——この布が完成を求めている。


職人の誠実さ、という言葉がある。師匠から教わったわけではない。でも染色台に立ち続けた十年の間に、体で覚えた感覚だ。染め途中のものは完成させる。途中でやめることは、布への裏切りだ。


「……なぜ染めるのか」


声に出てしまった。


ヨハンは何も言わなかった。作業を続けながら、聞こえていないふりをした。


「職人だから、ということだけじゃない気がして」


「そうですね」とヨハンが静かに言った。


「ヨハンは、なぜ染めるんですか」


少し間があった。


「わたしは——」とヨハンは言った。「老婆が泣いていたのを見ました。赤い布を見て。三十年ぶりに見た赤を、あの顔で見ていた。それがあるから、染めます」


手が、自然に動いていた。


布が液を吸って、重くなる。色が深くなる。染料が繊維に入り込んでいく感触は、いつも同じだ。失敗しても成功しても、この感触だけは変わらない。


「老婆の涙」


「はい」


「婚礼に赤い布を持てなかった人たちの顔」


「はい」


「昔の色名を書いた台帳——霧朝、岩雪、夕鉄——誰かがそこに残した言葉」


「はい」


言葉を並べていくうちに、分かってきた。


これが、自分の理由だ。


色が消えたことへの、抵抗だ。誰かが三十年間待ち続けたことへの、応答だ。職人だから、という理由だけではない。この土地に来て、この土地の色の歴史に触れて、「ここに色を戻したい」という思いが生まれた。その思いで染め続けている。


布を引き上げた。


乾燥台に広げると、日の光の中で色が見えた。


完成した。


深く、きれいな色だった。昨日まで浅かった部分が、今朝の工程で仕上がった。均一で、むらがない。三十年前の染色師が作ったものと同じ水準に、ここまで来ている。


「……これが、答えだ」


「奥方様?」


「わたしがなぜ染めるのか、という答え」


布を見ながら言った。


「色のない場所に色を戻したかった。それだけです。難しい理由じゃない」


ヨハンが、道具を洗いながら「そうですね」と言った。


布が乾燥台に揺れている。完成した色が、光の中にある。


ふと気づいた。


クラウスは——何も言っていない。


活動を続けることも、やめることも、何も。ディートリヒが来てから、仕事の話を一切しない。夕食の場でも、その後も。七日以内に署名を求められていることを、知っているはずなのに。


あの沈黙は、何を意味するのか。


完成した布を見ながら、夫の沈黙の重さが、急に変わった気がした。

次話も更新されます。引き続きよろしくお願いします。

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