不条理な街に火は燃える
教会の近く、火事で全焼した建物はもともと精神科のクリニックだった。例のあの日以降、閉院した多くの病院の一つである。
そもそもエネルギー資源が枯渇している状況で、かつてのような医療は既に存在しない。CT、MRI、透析など大掛かりな医療機器は動かない。薬やワクチン、健康診断で使うような検査試薬に消毒薬、使い捨てのガーゼ、点滴パック、全て工場が動かないので供給は止まっている。
医者達の選択としては完全に辞めるか、せめて予防医療など出来ることに心血を注ぐか二つに一つ。整形外科、審美歯科のような生命維持に直結しない分野、眼科、内分泌科など専門性が高かったり医療器具の供給が途切れたら何もできない分野の医者は軒並みいなくなった。今残っているのは殆ど総合内科医、次いで外科や小児科、産婦人科、歯科医だろうか。
「あの病院の先生、たまーに炊き出しも貰わんと姐さんの説教だけ聴きに来よったんや」
片付けから戻った伊丹さんは顔見知りだったらしい。水を蒸留するための火の番をしながら、聞かれてもないのにポツポツと太基に語って聞かせる。
「まさか、今日片付けた火事跡で死んでたとか」
「いや、先生はもう一年半くらい前から行方不明や。只々泣きながら説教聞いてはったのを見たのが最後」
ちなみに、今夜焚き火にくべているのは片付けた建物から引っ張り出した、まだ燃えそうな荷物だ。無言で火にくべて燃える煙をただ見ている。伊丹さんは既にその先生が生きてはいないと思っているのだろうか。だとすれば、何だか伊丹さん一人でその人の葬儀をしているみたいだ。
「行方不明になる直前まで、病院の建物は開けてあってな。最後に選んだ専門が精神科ってだけで医師免許と知識はあるから、少ない道具でできる応急手当とかはしてくれとった。けどなあ、段々『こんなことしか出来んでごめんなぁ』って言わはるようになって。今思えば少しずつおかしくなっていっとったんかな」
そうしてある日失踪してしまった。病院は一応きちんと施錠されていて、中の設備や備品もそのままだった。
地震でダメージを負った建物で、窓ガラスが修復できていない場所もあった。それでも玄関が施錠され、昼夜問わず人の往来もある場所だから今まで奇跡的に無事だった。
「病院、薬局で一番狙われるのはクスリ。しかも精神科にわざわざクスリ狙ってくる奴ってのは、まあ十中八九、リラックスできるとかハイになるとかそういうの狙い。ほら、伊勢神宮で暴れたおばちゃん。ああいうのは何もかも放り出してクスリに逃げて、クスリのために生きてるみたいになってしもうとる。クスリ渡す奴からしたらええカモや」
「つまり、おクスリ盗んだんですか? でもじゃあ何で火事なんか」
「さあな、そこはもう分からん。やった本人が捕まれば分かるかも知らんが」
そこで話が途切れた。暫くして眠気が襲ってきた。
朝から妙に浮き足だった周囲の雰囲気、大勢の知らない人だらけだった公園、何より、どう見ても『アバター』の一人であり剣呑な空気を纏っていた男。
事を構えないと言っていたが、最初の一瞬の威圧感は警戒するなという方が無理な相談だった。そのせいか無自覚に張り詰めていた緊張の糸がふと切れてしまえば、眠くなるのは仕方がない。かろうじて手元の僅かな水を飲み干して、太基は夢も見ないような深い眠りに落ちていった。
同じ頃。市役所の正面玄関でもまた焚火の横で男が二人話している。彼らの周りだけでなく、他にも自衛隊の隊員達が水を煮沸するために火を焚いている。とんでもなく蒸し暑い中で黙々と働く隊員達に二人とも心の中で感謝しつつ、現状を打破する策を考える。
「南波ちゃん、今日炊き出し手伝ってた男の子の情報ある?」
「昨日家族でボランティアしてた人達から簡単に聞いた程度のことなら。実家は長野の山奥、例のあの日からお祖父ちゃんに師事して山を歩き回っていたそうだよ。流石に子供だから猟銃は使えないけど、箱罠、括り罠の知識は一通り持ってるみたい。山菜、キノコ類もかなり詳しいし、自家消費用に養蜂もしていたから、その辺の基礎知識もありそうだってさ」
「俺達の部隊まとめて教えてやって欲しいくらいだな。実家の手伝いで十分食べて行けるだろうに」
「お祖父さんに追い出されたってさ。若いウチに色んな経験して来いってことらしい。昨日から炊き出しの手伝いをしてくれていた御家族が預かってた所に、牧野先生からの救援要請が来たからって歩いてきたそうだよ」
「子供二人連れでか。父親らしき人物とは話もしたが、アレはまあ学者肌でどっかズレてるタイプと見た。母親が肚据わってるってことだな」
「煌さん、家庭の中で奥様が一番強いのはどこも同じじゃない。あの子の力を借りられるだけ借りたかったら、今回はあのお母さんを口説かなきゃ」
「煌さん呼びは止めろ、部下もいるんだぞ……カカア天下はウチも同じだったな」
鈍渡煌二郎、とフルネームを名乗ってから南波という男は部隊長という立場もお構いなしにあだ名で呼ぶことがある。気安いからといって不愉快には感じさせないのは天性というものだろうか。おそらく育ちは良い男なのだろう。
育ちが良いといえば、あの家族連れの父親の方もそんな印象だった、と彼は考えを巡らせる。我が子にも浮浪者にも分け隔てなく穏やかに対応し、今のご時世で荒んだ雰囲気が全く無いからだ。
それに比べ、教会員達でいえば伊丹さん等は年配だがヤクザと間違われそうな独特の雰囲気を持っているし、中国籍のジョーと呼ばれる青年は理知的だが何処か人間を人脈として使えるかというビジネスライクな視点で観察していそうだ。尤も、彼方の国の場合は内側に入りこめば親しく接してくれるので、彼らに見せている顔は他所行きなのだろうが。
あの家族の父親は視点も中々鋭かった。任務期間の長さについて、かの東北の大震災ですら自衛隊の任期は実は一年に満たなかったことは知っていそうだ。その上で隊員達が国家公務員であることから東京、つまり東日本との接点がある可能性を推測していたし、財源に関しても疑問を持っていたかもしれない。日本を遮断している結界が切れた際の国防の重要性もあっさりと認識した。最初に日本全体が結界で封鎖されていることを知っているかのように話してしまったのは失敗だった。上手く誤魔化せていればいいが、と内心落ち着かない。
「あの御家族の奥様を説得するのは南波ちゃんに任せたわ」
「はいはい。そういう煌さんは水のほう真剣に考えてね」
「だから部下もいると……最大の難点は凝集剤を使わない方法を考えることだな。あの子は湧き水が濾過されていると言っただろ。浄水場も基本は同じだ。ただし大量の水を濾過するから無機凝集剤であるポリ塩化アルミニウムやらポリアクリルアミドみたいな高分子凝集剤で、目に見えないほど小さなゴミでも細菌でも固めて沈殿させるんだが」
「小さなゴミも固めて沈める、でいい? 薬品名聞いただけでアレルギー出そう」
「もうそれでいい。で、ゴミを沈殿させる過程は時間かければ重力任せでも多少は出来る。地面の水たまりと同じだ。そこの川の水をバケツに汲んで一日待ってから僅かに傾け、上澄みだけ回収してみたこともある。結果、下流の水は屎尿の臭いが酷くてな。結局、隊員達の生活用水は交代で梅田より更に北の川から運び、大きな汚れは沈めて捨てて、最後に蒸留してから使っている。だが、下流域の住民は下流の水を蒸留か煮沸したほうが早いだろうな。根本解決はたぶん南波ちゃんの領分だ。上流域の汚物処理、誰にどうやって任せてる?」
「基本的に府の人材派遣だよ。汲み取りして人里離れた堆肥作りの試験場に運んでもらう。何箇所かあるけど梅田からなら東側の生駒山の麓」
上流域、つまりは郊外にあたる地域は元々中心街より裕福な層が多い。別に大阪が特殊なわけではなく、ドーナツ化現象とも呼ばれるどこの都市でも起きる現象だ。
現在でもその傾向は変わらないどころか格差は広がっている。その格差が資産額ではなく水利に現れている。
「遠いな」
「クレーム来るから」
「絶対そんな距離運んでねえな。適当にごまかして下流域の排水溝に捨ててるだろ」
「同感」
梅田から二十五キロの距離を運ぶくらいなら、少し離れたマンホールに捨てる方が簡単。あまりに近かったり川の上流域にあたる場所ではクレームが出て解雇されかねないから自然と下流側のマンホールに捨てるのが楽となる。
「近距離、出来ればその場で処理できるのが理想。あの子に実家でどうしていたか聞いてみて、その後上手いこと応用するのは南波ちゃんの領域だろ」
「分かったよ。明日は教会からの寄付受付して直ぐに、あの子達を連れて市役所に行くさ。いきなり市長に突撃は出来ないけど、外堀は埋めるか」
うーん、と伸びをして南波さんは離れていく。教会から炊き出しに出てくるメンバーは固定ではない。おそらく朝一番に教会を訪ねるつもりで今夜はさっさと撤収したのだろう。
鈍渡隊長の意識は後ろでその気配を濃くしていく黒い鴉に向かっていた。こちらは三対一で不利、事を構えるなら戦力差を埋めてからだというのに今顕現してどうするのか。
『そんなに嫌そうにするなよ。ホウレンソウは大事だろ? 残念ながら、もう一羽東から近づいている。さてどうする?』
時に悪魔の名で呼ばれる黒鴉は面白がるような、試すような声音で更なる天使の来襲を告げた。




