地の果実、世の光
シャコシャコシャコシャコ……部屋の隅から歯磨きの音が聞こえる。日も長くなりまだ微かに明るいうちに外では誰かが火を熾している。灯りであり、水を得るためだ。そうした灯りが漏れてくる場所で紫珠乃が環の歯を磨いてやっている。
「もうちょっと口開けてて」
「ええー、もう無理」
単調なリズムもその合間の会話も何度繰り返されたか分からない。それをぼんやり聞きながら、太基の思考はぐるぐる回る。
生きるためには水がいる。日光で蒸発したのを集めるだけでは足りない。飲み水が無くて干上がって死ぬ。どこからか汲んできた水を火にかけて蒸留するのが一番簡単なので皆がそうしている。木でも草でも燃やせるものは燃やして、森が無くなる。山の獣が追われて、山の獣に追われた人々がやって来る。そうした人の一部は怪しげな商売をしてでも生きていく。
木を植えないといけない。だけど幼木を誰が見張るというのだ。種芋は持ってきた。だけど育てられる土が無い。堆肥やら何やら用意する間に種芋のほうが干からびそうだ。山菜として食べられる植物を太基は知っている。だけどそれらはコンクリートの隙間に生えているのを探すしかないのだろうか。だとしたら、一つ見つけて採集したら次が無い。
いったい、どこから手をつければいいのだろう。いったい、何ができるというのか。いや、森を戻すだけなら、太基には一瞬で解決する手立てがある。
「たーいーきー君!」
「うわっ! いきなり何ですか?!」
「いきなりじゃないって。なんかボーッとしてるから」
考え事をしていたのは事実だ。どう説明したらいいのかも思い浮かばないが。
「暑くて寝れたもんじゃないけど、少しでもちゃんと横になりなよ」
はいこれ、と水で濡らしたタオルを渡してくれた。今日一日使っていたタオルは纏めて洗ってもらうために渡してしまう。
「今日何見て来たかは知らないけど、一人で考えすぎちゃダメよ。さっさと諦めて手放すのが最善ってこともあるから」
「諦めって」
「言葉が悪い? じゃあ、他の人を信じて任せてしまえって言えばいい? スーパーマンなんて本当は要らないんだから」
「どういうことですか?」
「皆でちょっとずつ頑張れれば良いのよ。というか、貴方が仮に解決したら皆が自分で頑張らなくなるから却って悪くなるわよ? だから抱え込んじゃダメ」
「はあ、そんなもんですか」
「そう。だから、あの能力は使っちゃダメよ」
おやすみ、と紫珠乃は別室に消えて行った。
諦めろ、と言われてしまうと少し考える気力を削がれてしまう。体を拭いて早々に寝てしまうことにした。首から下げていた葡萄のチャームが汗で肌にべったり貼り付いていた。それもタオルで拭いて、鞄に突っ込んだ。
『……起きろ、起きろ』
ふ、と微睡んでいた意識が覚醒する。ゆっくり目を開いて声が聞こえた方向を見る。大人の背丈と同じくらいの大きさの白い鴉がそこにいる。三本の脚で立っている鴉がこちらをじっと見つめている。窓を背に立っている鴉は薄ら透けていて、街のそこかしこで燃える焚火の灯りが向こうに見える。
ふわ、と鴉が窓をすり抜け、ゆうるりと外に降り立つ。こちらに来いということだろうか。まだ白い鴉はこちらを見つめている。太基は意を決して部屋を静かに抜け出して白い鴉を追いかける。最初はゆっくり飛んでいた鴉は徐々に飛ぶ速度を速めていく。人の背丈くらいの高さを大きく羽を広げて飛ぶ鴉は、何もかも擦り抜けて飛んでいく。走っていくうちに橋を幾つか渡り、西に西に向かっていく。途中の大きな橋など歪みやひび割れ、錆びついた場所もある。僅かに恐怖を感じながら、それでも覚悟を決めて進んでいく。
『見えるようにしてやろう。《アバター》に対してであれば、それくらいは容易い』
「アバター?」
『我らに選ばれ、共に在る者のことだ。敵味方は問わず』
ぱち、と瞬きとともに今度は眼前に色とりどりの光が集まっているのが見えた。思わず息を呑んでしまうほどの光が、橋の向こうの陸地に煌めいている。辺りを見渡すと、海も小さな光の粒子が集まって浮いている。
後ろを振り向けば、こちらは更に明るく輝いている。橋の向こうの島より明るい色合いの光が集まっている。光の粒はただ広がっているだけではなかった。まるで流れ星のように微かな光の線が虚空と光の集合を行き来している。
『この光のひとつひとつ全てが生命そのもの。人は魂と呼ぶのだろう』
「魂……」
『この世界を感じ取り、時に広大な世界と無意識のうちに繋がって、経験とともに磨かれていく光だ。実に美しいだろう?』
確かに綺麗だった。今まで見てきたどんな自然にも負けないほど。
『あらゆる物事を見聞きして、経験を重ねて磨かれて。例え忘れたように感じていても得られた経験はこの世界に降り積もる。思い出さないだけで、遙か昔の記憶とも繋がりながら輝きを増す。虚数時間の彼方から永劫にも思えるほどの時間をかけて生み出された偉大なシステムにして私達の果実』
「君達の?」
『正確には、いと高き所におられる方の。永劫の時間を待ち続けた御方の、だ』
「何のために?」
『あえて理由をつけるなら、私達は常により美しく善いものを、あるいは変化を求め続けている。小さな種から作物を育てる農夫のように、私達の撒いた種が七倍、七十七倍にも実って、その果実を輝かせるように』
「……綺麗なのは分かったよ。だけど何で僕にこれを見せたの。君は何で僕とずっと一緒にいるの?」
『麗しい果実には虫がつくだろう。実りを無駄にし、横取りし、腐らせる奴ら。或いは横取りする盗人が。それらを追い払って守ってやるのは農夫としては当然の仕事だろう。腐っていくのは果実のためにならないし、盗人から果実を守るのは当然の権利だ』
次に瞬きをすると、今まで見えていた光は消えていた。急に見えていた光が無くなると辺りの景色まで何も見えなくなった。暫く目を凝らしているうちに、徐々にまた人々が焚火をしている灯りがまた見えるようになってくる。
『さっき目が眩んで何も見えなかっただろう? 私達が全ての魂達を失うということは、私達にとってこの暗闇に堕ちるようなもの。山に溢れる生命とともに生きて、雪崩に呑まれても生きることを諦めなかった君にこうして数多の魂の輝きを見せたなら、この輝きを守ることがどれほど大切か何よりその心で感じ取ってくれるだろう。だから私は君を選んだ』
白い鴉はまたふわりと宙に浮いた。来た道を戻っていく鴉を太基もまた追いかけていく。足元は暗くて、この白い鴉を追いかけていなければひび割れた地面に足をとられてしまいそうだ。
浮島を背にして追いかけていく。先程見ていた光の色合いは浮島のほうが全体的に暗かった。人が少ないのだろうか。
『橋を挟んて島と陸地で、光の色が違っていたのに気づいただろう』
太基の思考を見透かしたように答えが返ってくる。思考を読まれたみたいで驚いたが、色味の違いに気がついたのは事実なので頷いておく。
『正しくない方向に導かれれば、徐々にああやって輝きは失われていく。先の例えでいうなら腐っていく果物と同義だ。類は友を呼ぶ、なんて諺があるがアレは輝きを失いかけて淀んだ魂どうしで引き合ったという所だろう。見ていて気持ちの良いものではないが、見てもらうのが一番早い。百聞は一見に如かず、だ』
町に戻っていくほど焚火の灯りは増えて空気は蒸し暑くなっていった。アパートの一室に戻った頃には汗だくだった。
『今夜はぐっすり眠るといい。戦いはまだ先だから』
声の命じるまま、太基の意識は深い眠りに落ちていった。明日もまた手探りで生きていかなければならない太基のために、天使が与えたささやかな休息だった。




