出来ること全部
朝から燦々と降り注ぐ陽の光のせいで早々に目が覚めた。深く眠れたおかげか体は軽い。少しだけ伸びをして、窓から景色を眺める。もう夜のような焚き火は見えない。代わりに今度は川の水を汲んだ器にビニールやガラスで覆いを被せる人々の姿が見える。
「おはよ、なんか昨夜は随分ぐっすり寝てたわね。疲れてた?」
「おはようございます。そうですね、ちょっと疲れてたかもしれないです。今は平気ですけど」
喉がカラカラに渇いている。水差しの中の貴重な水をコップに注いで一気に飲み干した。
「水、何とかならないんですかね」
「なってたら、昨夜の火事はもう少し早く収まったでしょうね」
「火事?」
深く考えずに呟いた言葉に予想外の返答が返ってきた。太基の驚きをよそに紫珠乃は淡々とコップに水を注ぎながら話を続けた。
「深夜に随分な騒ぎになったわ。伊丹さんはいつでも逃げられるようにしろって知らせに駆け込んできたし。太基君、起きないからいざという時は荷物捨ててフミ君に抱えてもらって逃げようかって相談してたくらい」
ガラガラと音を立てて紫珠乃が別室のサッシ窓を開け放った途端に異臭が漂ってきた。川から立ち上るのと同じドブ臭さに焦げ臭さが混じっている。太基は盛大に咳き込み、紫珠乃も顔を顰めて窓を閉めた。
「ママ、臭いのやだ!」
「はいはい、ごめんね。ね、本当に近所だったのよ。おかげで窓も開けられないわ」
「そうですけど。みんな大丈夫だったんですかね」
「分かんないわね、もし死んでてもわざわざ探しに来てくれる人は居ないかも。掃除のついでに遺体が見つかったら牧野先生に報告しましょうか。身寄りが無い遺骨も先生はなるべく引き取るようにしてるから」
朝の集会は慌ただしく過ぎた。明らかに近くで火事が起きて浮き足立っている。集会が終わる頃には窓の外から大勢の人が瓦礫を片付けたり漁ったりする音が聞こえてくる。そんな中でも集会自体は牧野先生の祈りで静かに締めくくられた。
「天の父なる神様。昨夜はこんな近くで火事がありました。まだ被害がどんだけあったかもウチらには分かりません。傷ついた人達のとこにも、こういう誰かの不幸に乗っかって変な噂をばら撒くアホんだらのとこにも行きますから、どうぞ纏めてウチに放り込んでください。神さまの愛と義を伝えるために、この小さな教会で出来ること全部やらせてください」
ちなみに牧野先生の言うところの『アホんだら』の意味の一端はすぐに分かった。いつの間にか教会の玄関に大きく落書きされていたからだ。
《DSに死を S.L.F.》
「何ですかこれ……」
暑くて仕方ないからと開けっ放しの観音開きの玄関扉を閉めると目立って仕方ない。おそらく夜に書かれたのだろう。朝に会堂を開けるのは内側からで、牧野先生もよく見ていなかったそうだ。閉めた勢いで、落書きの赤黒い文字からパラパラと小さな粉が落ちた。
「何かの血で描いとるのお」
「ああ、確かに塗料としては一番手っ取り早いか」
そんなことを平然と話しているのは伊丹さんとジョーさんだ。血で落書きする発想に混乱する太基をよそに平然としている。紫珠乃はさっさと雑巾を持ってきていた。乾いているなら乾拭きで削っちゃいましょう、なんて言いながら坦々と手を動かしていた。淡々と働く大人達を前に太基にできることは何も無かった。
せめて邪魔にはなるまいと一歩下がる。下がった先には七つに分かれた大きな葉を持つ木が何本か生えていた。太基の身長を越えているが茎は細い。近くの枝が折れていたので取ってやって地面に捨てた。
「あーあ、わざわざ茂みを掻き分けて入ってきたんやろな。ご苦労なこっちゃ」
「幾つか枝が折れてました。上の方が何本かやられてます。これ何の木ですかね」
「唐胡麻。ヒマとも言うがな。姐さんが好きで何本か育ててんの。秋になったら種がつく。絞ったら油も取れる」
改めて木を見上げた。
実は太基の夢の中で鴉達の身体の中から生えてきた樹とそっくり同じ形であることを、この時に彼が思い出すことはできなかった。
その日の仕事はいつもの炊き出し班と火事の片付けの手伝い班に分かれることになった。伊丹さんとジョーさんが軍手を引っ張り出して向かっていく。二人とも何故かナイフを鞄に放り込んでいた。
「ナイフっているんですか?」
「あのな、瓦礫の撤去とかはワシら正直出番ないねん。ワシらの仕事は仏さんの回収。生焼けの肉がへばりついとる時は削ぎ落として腐る前に埋めて、骨だけ燃やしなおし」
聞かなければ良かったとはこのことだ。太基が炊き出し班に入ったのは、要は大人達の配慮だった。
「ウチらはそこの公園行くで」
牧野先生に言われるまま、太基は簡素な折りたたみテーブルと飲み水、あとは丸めたビニールシートを持たされてついて行った。公園に着いたら適当に真ん中あたりに机を置く。ビニールシートを周りに敷いたら飛ばされないように石を置いて準備完了。その間に紫珠乃達はかき集めた食糧を既にその場にいた迷彩服の人達に渡していた。
「そのまま渡しちゃうんですか?」
「それでええねん、バラバラに炊き出しするより持ち寄った方が効率ええやん」
「最初は公務員ですから、って渋い顔されたけどなあ。外からの寄付も勝手に受け付けたらアカンって」
「はい、そういうわけで私がきております。こちらに一旦渡していただけますか?」
「え?」
迷彩服の間を掻き分けて、白いシャツの男が顔を出した。額から流れる汗を拭きながら、牧野先生にも会釈をする。
「私、大阪市役所の南波といいます。総合案内の係員でございます。大阪市の自衛隊派遣要請、並び人道支援、治安維持、その他活動へのご理解、ご寄付、誠にありがとうございます」
「その口上、ええかげん聞き飽きたなあ」
「紙もペンも無いので皆さんの記憶と証言が公務員の命綱です。反社会団体ではないか、派遣元として必ず確認しております、どうぞ耳にタコ作ってください」
どこにでも悪い人はいる。おかしな言い掛かりをつけられたり、弱みを握られたりで無理矢理協力させられることなどいくらでもあり得る。大抵の場合、被害は本人だけでなく周りにまで及ぶ。自分の畑で細々自給している一般市民なら最悪でも一家全員が餓死するだけだが、公務員とか弁護士、医者など職種によっては周りへの被害が計り知れない。自衛隊の場合は部隊丸ごと風評被害で活動できなくなっても困るので、必ず市役所を挟む形で落ち着いたらしい。
「牧野先生、お役所動かすまで粘ったんじゃないかな。毎日のように役所に押し掛けるとか……南波さん、お疲れ様です」
いつの間にか紫珠乃が傍にいた。感心というより呆れたというような口調だった。
「はは、いいんですよ。そりゃあ、最初は隣で炊き出しして説教して、しかも色々遠慮が無い方だから自衛隊のほうが戸惑ってたみたいで。どうしたものかと相談がきちゃったので僕が話し合いの場を持たせてもらったんですが」
「あー、それは益々お疲れ様です」
「最終的には実質的には一緒に炊き出しするくらいの距離感になって良かったのですよ」
「そうなんですか?」
「長引けば長引くほど。全体の士気の減退が一番の問題になります。先生の説教は僕らにも聞こえてきます。先生は僕ら向けに説教してはいませんが、聞いているだけで励まされるというか。士気が保てている気がします」
ぞろぞろと、何処からともなく人が集まりだす。牧野先生が騒めく群衆に向かって語りかける。
「ご飯目当てにアンタらが集まってるのは知ってる! それでも、神様はアンタらを愛して呼んではるんや。アンタらの霊は何処におるんやって。だからまずは話聞いてな」
「魂な。呼ばれてるっていうのは、本当と言えば本当やな」
太基の斜め後ろに迷彩服の男が立って見下ろしていた。後ろに見える黒い鴉は、彼もまた『アバター』であることの証明だ。その黒い鴉は太基に向けて、もはや殺気と言っていいほどの威圧感を放っていた。




