眼下に広がる点と線
道路脇の樹がその根を徐々に太く伸ばしていくせいで、歩道、車道問わずアスファルトは所々ひび割れている。だがその根が支えているはずの樹は刈り込み過ぎたせいで枯れたのかと思われる樹、高さ数十センチのところで切られた切り株ばかりだ。
「また樹が切られてんなあ」
「トモさん、しばらくおらんかったから」
太基に道案内をしているのは伊丹さんと、もう一人。彼は中国から来たのだと言った。
「シュー・シアクーや。皆は漢字の音読みからとってジョー、って呼ぶけど」
日本に遊びに来ていたところ、そのまま『あの日』に巻き込まれてここにいるという。
「困っていた頃に牧野先生に拾われてん。先生がおもろいから一緒におんねん」
「ケッタイな奴やで。元は叔父さんかなんかがコッチで商売しとって、それの後釜についたら別に住むとこくらいはあったんや。全部放り出して、あのボロアパートにおんねん」
「叔父さん、日本人の居酒屋の建物の家主しとってん。でもウチ、家には興味ないねん」
ウチだけに、とカラカラ笑い飛ばす。
「御堂筋とかは無事、それ以外は公園の樹も残ってないねん。気づいたら誰かが切ってまうんや」
「御堂筋?」
「大阪のメインストリートで、イチョウがぎょうさん植わっとる。あとは天満宮、大阪城、山田池の梅が残っとるくらいとちゃう? あれは貴重な食いモンやからな」
「そそ、梅干しだけならまだ食い倒れの街や」
「高血圧でな」
他愛もない会話とともに歩けるだけ歩く。市内には高い建物が多くて視界を塞いでいて、稀にいつ崩れてもおかしくなさそうな建物もある。全域を見渡すには新しめの高層ビルが良いと言われて案内された。
「なんかテープ貼られてますけど」
「見つかったら逃げる」
「崩れても逃げる」
それでいいのか、とは訊くだけ馬鹿らしいのでさっさと上に上がることにした。所々入り組んでいるが滑落しないから歩きやすい。
「ま、待って。何でそんな楽々上がんねん」
ジョーのほうが伊丹さんよりは若いはずだが、一番息が上がっているのも彼だった。
「ワシでも倍速で登れるで」
「た、体力おばけ」
ゼーハーと荒い呼吸の音を後ろに聞きながら眼下に広がる景色を見下ろした。近い位置にはビルの群れ。『御堂筋』と呼ばれる道はすぐに分かった。街路樹の緑がまともに残っているのはここだけだ。北には山があるが、そちらは土色になっていた。というか、四方とも緑が殆どない。奈良から高速道路伝いに来たせいで気が付かなかっただけで、周囲の森は食い尽くされた後だった。
展望台となっているフロアを巡り、今度は海に目を向ける。海の一部、河口付近を中心に赤錆色に色が変わっていた。いつか見た浜名湖の光景、あるいは灯台の沈む伊良湖岬の光景と比べれば異様な光景であると見て取れた。
「伊丹さん、あの海の赤茶色は何ですか?」
「赤潮やな。海に流れ込む養分が多過ぎるっちゅうことやな。本来なら、あれだけ山で樹を伐採するとこうはならんが、そこは人間のせいやなあ」
「人間のせい?」
「あのな、普通は山の樹の落ち葉とか、山の獣の糞やら、そういう物が土になるやろ。それに染み込んだ雨が土の栄養を溶かして川から海に流していくんや。せやから、あれだけ山の樹を切ってしもうたら海に栄養は流れへん」
「それでも養分が多過ぎて、それが人間のせいですか。あ、もしかして用を足したのがそのまま流れているんですか?」
「多分な」
奈良の状況がここに来て腑に落ちた。大阪の北方の山では人が樹を切り過ぎている。例えば鹿のような大型の獣は生きていられない。手近なところで生きていける場所を求めるなら一部が奈良に向かうのは自然な動きなのだろう。しかし、大型の草食または雑食の獣は何も鹿や熊だけではない。
「伊丹さん、ジョーさん、街に獣って出てますか? 熊に猪、後は猿」
「ん? 熊は最近おらんで。流石に危ないんで自衛隊の人らが捕まえてくれてな。ここ二、三年は出てこうへん」
「猪と猿なら出るかな。猪が出たら追い払うか、畑の近くじゃ住人が落とし穴掘ってたりして頑張っとるよ。猿は賢くて罠にもなかなか掛からない。人が寄ってたかって石を投げて追い払うしかないんや。危ないけど」
「ああ、やっぱり。奈良で鹿と熊の被害はよく見たんですけど、猿と猪はあんまりいない感じだったんですけど、こっちに出てたんですね」
鹿は草食、熊は本州ならツキノワグマで、本来なら草食寄りの雑食といったところだろうか。猿と猪も雑食で、こちらは人間の残飯、生ゴミを漁りに市街地に来ることは充分にあり得る。
熊は人に対する危険が大きいから自衛隊が出動して追い払うか一部を狩ったかもしれない。人里に下りることを覚えた個体は特に。
つまり、大阪に人が集まりすぎて山が禿山となった結果。猪や猿は人間の残飯を求めて近くの市街地へ、熊と鹿は草木の残っている場所を求めて奈良へ逃げたのではなかろうか。
「えらいことになっとるなあ。せや、ここで気分悪い話思い出してもうたわ」
「まだ何かあるんですか」
「ほら、伊勢でツツジの毒が入った蜂蜜を売ろうとしとったババアおったやんか」
「いましたねえ。まあ、奈良の森が相当荒れてたんで、もしかしたら他の毒も入ってたかもですけど。時期的にはシャクナゲ、アセビ辺りも毒があるから気をつけないといけないやつです」
太基の実家では小規模ながら養蜂も試みていた。ツツジの他、シャクナゲやアセビもだいたい春の終わりから初夏に咲く。花の蜜も多少の毒を含むので、この時期の蜂蜜は一応は大人が毒味をしてから子供達に回されていた。それも越冬した巣だけ。溜まった蜜の量もまだ少ないから僅かの量である。
太基と麻衣の兄妹にとっては貴重な甘味だった。それで玖村家で問題になったことは無かった上に蜂蜜の毒なら鳥兜の方が危ないから、太基自身も先日の伊勢での一件があるまで記憶の片隅に仕舞い込んでいた話ではある。
「農作物の受粉で養蜂業者の需要がある時期ってのも結構短いんや。その上、普通は春に蜜は採らへん。今は春の採蜜も割と聞くけど、それは単純に人間の都合やで。甘味が足らんと、少しの量でもええからって採る奴がおるらしい」
「ああ、僕と妹も春先は蜂蜜がちょっとでも欲しくてたまらなかったですね」
「まともな業者はちゃんと届け出もして、どこで育てとんのかだいたい分かるんやて。養蜂って、趣味でやっとる奴も基本的には届け出した方がええらしいわ。そういうのちゃんとしとる奴は最近はもっと西にいっとるらしい。それか、もう思い切り東、岐阜とか福井とかやな。で、届け出してへんようなヤンチャな奴らは奈良とか京都の南とかにおるという噂はあるな。巣箱が真っ当な業者と違うて小さい巣で蜜を採っても巣が崩壊せんよう形が違うんで、見る人が見れば判るらしい」
「ええ……爺ちゃんも父ちゃんも、忙しいんだから夏の終わりに纏めて採ったらいいって感じだったんだけど、そうじゃない方法もあるんですね」
「感心するところかなあ? いやいや、他の仕事もしとる奴はそうなるんちゃう? ツツジ毒入り、普通の蜂蜜、鳥兜の毒入り、と何とか分けて出そうとする阿呆もおるらしくてな」
「鳥兜!?」
「身綺麗な奴ばっかやないってことや」
森が荒れ、鹿も食べたがらない有毒植物の花ばかりが残った結果。むしろ毒として有毒な花から採蜜する不届者が出てきたことになる。
伊勢での蜂蜜騒動。奈良の鹿と熊の被害。バラバラだった物事がここに来て大阪周辺の森が荒れているという一点に集約されてしまった。
「全部、あの森をどうにか復活させないと解決しないですね。ただ、森が戻ったら鹿と熊も戻ってきますけど」
「熊、は困るなあ。自衛隊以外に対応できるところが無いんや」
「その分全部、奈良に行ってますけどね」
「そういや奈良からも一時期いっぱい人来とったなあ、伊丹さん。今はたいしたことあらへんけど」
森が枯れたせいで困っているのなら森が戻ればいいのだが、すぐ出来るのなら誰も苦労はしない。あるべき姿は思い浮かんでも実現の方法が見えない、そんなもどかしさを抱えて太基はただ眼下に広がる景色を見つめていた。




