まずはその目で見に行こう
翌朝になって、太基は汗だくで目を覚ました。あちこち蚊に刺されていて、唯一よかったことといえば環がおねしょをしていなかったことだ。山の中、あるいは奈良にいた時と比べると大阪は格段に暑かった。伊勢にいた時ですら、夜には雨が降ってさっぱりとしていたというのに、ここではそれすら無い。
「おはよ、太基君。それで体拭いたらいいよ。ついでに環もお願いできる?」
紫珠乃がアパートの洗面台のほうから声をかけてきた。水で湿らせたタオルを二枚渡された。
「綺麗な水は殆ど手に入らないみたい。雨が降らない限りは太陽光か焚き火で川や海の水を蒸留してるんだってさ。昨日の夜に色んなところで火が燃えてたでしょ。あれは明日に備えて蒸留するための火なんだってさ」
「川があるなら何で普通に使わないんですか?」
「今日、見てたら分かるよ」
寝ぼけ眼の環を拭きあげて、それから自分の体の汗も拭う。まだ少し湿ったタオルはそのまま首から掛けておいた。
そんなラフな服装のまま会堂に集められ、朝の祈りと讃美歌、聖書の朗読をこなす。
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
聖書の内容は太基には分からない。前の教会と違って歌はバラバラで下手くそなのに底抜けに明るく歌う。朗読も声が大きくて、前の教会とは全く雰囲気が違う。何となく、ここに集う人々の人柄が見えた気がした。
「ほな、シズちゃんと旦那君は炊き出しやら手伝いしてな。玖村君はトモちゃんとあともう一人くらい連れて街やら見てきてくれへん? 細かいことは街行ってから話してくれたらええから。おチビちゃんはどないする?」
「ママといる」
「そうか、それがええな。自衛隊のお兄さん達もおるから休み時間には遊んでもろうたらええよ」
「「「自衛隊?」」」
三人の疑問の声が揃った。太基は自衛隊とは何か知らないという意味で。紫珠乃と文里は自衛隊が常駐している状況が異常だという意味で。
「ママ、自衛隊ってなーに?」
「外国から攻められた時に私達を守ってくれるお仕事の人達よ」
「攻めるってなに?」
「知らない人達が叩いたり蹴ったりしてくることよ。あんまり酷いと殺されちゃったりするの。パパやママと環と一緒にいられなくなったりとか」
「そんなのやだ」
「後は、地震っていって地面が揺れてお家壊れちゃった人達のところに助けに来てくれることもあるわね。でも、ずっと一緒じゃないの。ちょっと大変でも、暫くしたらそこに住んでいる人が自分達で生きていかなきゃいけないから」
「ふーん?」
環は分かったような、分かっていないような顔をしている。幼いながらに一生懸命考えているのだろう。その様子を一瞬見ていた紫珠乃が牧師の先生に目を向ける。
「そうそう、だから牧田先生?」
一瞬、紫珠乃が言葉に詰まった隙に文里が牧師の先生に問いかける。ちら、と紫珠乃の方に目を向ける。名前なら合ってるから、と諦めたように囁く声を聞いて文里はまた向き直る。
「つい最近何かあったんですか? 例えば台風とか」
「最近何かあったとか、もうそんな状況とちゃうねん」
予想外の答えに、紫珠乃も太基も思わず顔をあげた。先生はといえば、次に何と言えばいいのか考えあぐねている。
「あのな、ウチらも分からん事だらけやねん」
例のあの日。大阪もまた揺れた。とはいえ紫珠乃達の泊まっていたボロアパートが倒壊していないことからも分かる通り、揺れの程度は浜松ほどではなかった。当日は停電などはあったとしても一部だったし、マスコミが伝えていたのは主に浜松、名古屋の被害状況だった。
大阪の状況は一ヶ月、一年と月日が流れる中で徐々に悪化していった。もともと、その日暮らしで生活してきた人、グリ下に集まる若者が多いことはニュースでも度々社会問題として取り上げられていたが、それが些末に感じられるほどだった。
例えば株取引などが制限されているせいで不動産投資が目当てで来た人々。或いは不幸にも帰国できない観光客。
他の都市より長く外から流れ着く人々との折り合いに悩み考えてきた実績と、奇しくもガラ空きだった万博跡地。つまり西日本で一番、福祉も土地も得やすい場所となってしまった大阪には寄る辺の無い者達が集まり続けている。
本来なら国とも連携した対応が求められるところだろうが、東京とは未だ連絡が取れない。行政もかつての首長レベルの人員と、一部のスタッフは精一杯働いているとはいうものの、そもそも日本円が殆ど意味をなしてないので給与が出るわけがない。家族、特に子供を抱えている者から徐々に離れていった。
「それでも例えば農政やらは自分らも食わなあかんし、まだギリギリ動いとるんちゃう? あとは公衆衛生の人らも頑張って働いてくれとる。土やら動物やら触ったら手洗いせえ、って。消防は今殆ど消防団やね。一番、人がおらんようになったのが警察や」
「え、めっちゃ必要やない?」
「おかしな奴捕まえたところで、どこで面倒見んねん」
「あー、刑務所とかが機能して無いってことか」
「そういうことや。そうなったら警察なんてピストル持っとっても怖くないねん。アメリカみたいに容赦なく撃ち殺したりせえへんやろ」
「そうなると分かりやすい抑止力ってことで自衛隊になるわけね」
「そうなるな。それに一応西日本の中心やから自衛隊の一番でかい拠点にもなっとるらしいで」
先生と紫珠乃の会話を聞きながら、太基もとにかく理解しようと努力はした。一番理解できたところを一言で言うならば『悪い奴が野放し』だ。
「先生はそんなところに行くんですか? 危なくないんですか?」
「せやな。確かにウチの教会の子達を護って欲しいのは確かや。でもそんな所で、アホなことしよる奴のためにウチらは行かなアカン」
「え? アホなことしてるっていうか、悪いことしてる人ですよね?」
「罪人にこそ愛がいるんや。あとな、ウチらも同じ罪人なんやで」
「は?」
「神様を見てないことが罪なんや。神様は愛を以てウチらを見ている、それを忘れて自分と精々友達か家族のことしか考えへん、ウチらは弱い」
「じゃあ、先生はそうじゃないから行くんですか?」
「そんなわけないやん。罪だらけのどうしようもない人間の傍に居続けて、最後は犠牲となられたのが救い主イエス様、ウチらの『愛』の師匠や。ウチらはその師匠の足元にも及ばん。ヨチヨチ歩きもええとこやが、それでも一歩でも歩かな、どこにも辿りつかんやんか。さあ、すっかり遅くなった。今日も頑張っていくで」
動作には年齢相応の衰えはありつつ、それでも滲み出るような明るさと快活さがあった。鞄を抱えて辺りを見回した先生に、もう準備が終わっただの、話が長いだのと口々に信徒達が声をかける。
やがて会堂は閉められ、太基と伊丹さん、あとはもう一人若い角刈りの青年を残して炊き出しの手伝いに行ってしまうことになった。
「環君、先生やおじちゃん達の言うこと聞くんだよ」
「はーい」
「文里さんも紫珠乃さんの目の届くところに居てくださいよ」
「最近僕の扱いが酷くないか?」
「だって何か気になることがあったらすぐそっち行くじゃないですか」
「うう、そうだけどさ。炊き出しの現場の方が色々話は聞けそうだから、どっか行ったりしないよ」
「何があるって言うんですか」
「自衛隊だけ稼働してる謎とか?」
「へえ、そうですか。紫珠乃さーん、やっぱり見張ってなきゃダメっぽいですよ?!」
「うん、知ってた!」
伊丹さんに何処に行くのか尋ねると、何も対策が出来ていない休耕田の幾つかを廻った後に夢洲に行くという答えが返ってきた。
「太基君には口で説明するより見せた方が早いわ。というわけで、山歩きじゃなくて悪いけどな」
「残念ながら海でもないでしょ」
ジリジリとコンクリートに太陽が照り付け、茹だるような熱気に包まれた街に向かって足を踏み出した。長い一日の始まりだった。




