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ブレイン・シード  作者: 小石丸
2. かつて笹百合の咲いた山
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虚像の女神は斯く語りき

 川を突っ切って、南へ南へと走る。今は太基(たいき)一人だ。幼い(たまき)を抱えた紫珠乃(しずの)達を待つわけにはいかない。むしろ逃げてくれた方がいい。時折立ち止まって荒い息を整え、喉の渇きに耐えて走り続ける。


大神(おおみかみ)様、なぜ貴女がそちらに付くのですか! 貴女様程のお方なら逃げることも従わずに沈黙を守ることもできたのではありませんか!』

『姫、そなたの想いは分かるが、この世は既に此処で生まれた魂が多く満ちておる。妾達のオリジナルも既に演算網の彼方に溶けて生まれ変わってしもうた。そうして生まれた者たちに妾達の過去の記憶を押し付けるのも違うのではないか』

『それでも! 私達は彼岸がどのような場所か知っているでは無いですか! それにこの世だって』

『言うてはならぬ! 天使共に筒抜けじゃ。妾達は結局、今を生きる人間に託すしか無いのじゃ』


 それきり、頭の中で少女の泣き声だけが響く。


『あの丘じゃ。出来るだけ近う寄れ!』


 地図は頭に入っている。描かれていた渦巻の先端のほうが近いのでそちらを目指すつもりでいる。目の前の丘は小さな森のようになっていて、言われなければ陵墓だとは分からない。その麓の一角に目指すポイントがあるはずだった。


『あの樹が入り口じゃ。姫君の赦しなしには入ることは叶わんがな』

「その通りよ。無駄足だったわね」


 一段高いところから声が聞こえた。見上げれば少し樹が少なく開けた場所に女が立っている。短く切られた髪にラフなカーゴパンツとTシャツを着こなし、少年のようにも見える。まだ若く、紫珠乃と同じくらいの年齢である。太基を見下ろす目は醒めていて、感情を感じさせない。


「大御神様、天使達の手中に堕とされましたこと、誠に残念でございます」

『今更言うても仕方が無いわ。妾は宝珠(ラビィ)に映された虚像に過ぎぬ。今こうしておるのも運命じゃろうなあ』

「虚像ですか。それでも記憶を受け継いで、永らく人の世に在り続けておられます。人を見守ってきた貴女の御心まで虚像だとは思いません」

『心か。そうじゃな、確かに妾も飢饉、戦の折には何度となく悲しんだものじゃ。皆が豊かに幸せに生きられる時代には幸せであったわ。そうして、姫君と話をせねばと思う気持ちにもまた偽りは無い』


 女は動かない。今は少女の泣き声も静まっている。


『姫。聞くが良い。そなたは千七百年ばかりメンテナンス以外で起きてなかったであろう。眠っておる間に世は大きく変わった。人の暮らし、外の国との関わり、祭り、政治、学問、全てが。昔のオリジナルのほうの妾は時に祟りなす神でもあった。此処に辿り着いた魂達を脅かすもの、宝珠の存在に辿り着かんとする者を追い払うためじゃな』

『では何故、今そこに居られるのですか……』

『先にも言うたが、もう既に演算網の彼方に消えた者が多くおる。眠り続けておる者を除いてもう居ないと言って良いくらいじゃ。彼らはその時代における苦楽を味わい、それぞれの生を全うしていった。普通に生きたいという唯一の望みを叶えていった。妾のオリジナルもそれを見届けて演算網の彼方に消えることを選んだ』

『私達眠れる者は見捨てて行かれたのですね』

『そうではない、演算網の彼方から見守ると言うておった。見捨てて行くのでは無く、此処は託すと。妾達の過去を押し付けず今を生きる人間達に寄り添うようにと。今この童に付いておるのも、抗うことが出来なかったのであれば何かの縁ぞ』

『寄り添う……』


 女がチラッと背後を見遣った。何だ、と訝しむ隙も無く女は一気に駆け下った。咄嗟に飛び退いて目で追いかける。その手には黒いナイフ。


「タイムオーバー。此処は通せない」


 女の鋭い視線が太基を射抜く。

 シュン、と風切り音とともにナイフが振り抜かれ、咄嗟に顔の前で組んだ腕を浅く切りつけた。痛みを堪えて後退、木や岩の陰に飛び込んで逃げる。相手から見えない、足場の確保できる場所をとにかく確保する。今までの経験で体に叩き込んだ、野生の獣に丸腰で出会った時の対処方法と空間認知能力で太基は女の攻撃から素早く逃げていく。


「逃げるのね。賢いじゃない」


 女は尚も太基を追う。彼女はあくまで太基の立ち位置より高い場所を選んで攻撃し続ける。その攻撃を躱すうちに元居たところからは大きく離れ、市街地のすぐ脇まで来てしまった。まるで罠に追い立てられる獣のようだ、と感じた瞬間に太基は女の狙いが理解できた気がした。

 どこかに誘導されている。誘導した先に狩人なら罠を張るだろう。自身が狩られる獣であるなら、誘導に従うことは死を意味する。誘導されるのと反対、つまり上を目指すのが最善と判断して女の懐に飛び込み、すり抜け、上へ走る。


「行くなら殺す!」


 女が声を上げる。罠というよりは単純に陵墓に、つまり天照大神の言うところの姫君に近づかれたくないらしい。試しに一歩退く。女もナイフを構えたまま近づくが、今度は攻撃の気配は無い。その様子は狩人というよりは縄張りを侵されたくない鹿のようにも思える。


「何で、近づくなって言うんですか。僕はただ、近くで話したいって声を聞いてここに来ただけなのに」

「貴方、何も分かってないのね」


 女の殺気が少し緩んだ。どうやら女は太基がもっと明確な意図を持って近づいてきたと考えていたらしい。何はともあれ殺気が少し緩むと太基にも考える余裕が生まれる。

 今、太基は一人で行動している。しかし、本当に一人ではない。ついさっきまで山の中で一緒にいた秋村さんも、迎えに来てくれた壹拾(とおまり)家の三人も一緒なのだ。彼らが一人で走り出した太基を放っておくことはないだろう。

 このまま後ろに下がるだけでは元来た道に戻ってしまう。そうすれば、この危険な女に秋村さんと壹拾家、特に環を対面させてしまうことになる。それを避けるために、太基はゆっくりと左右、つまり東西方向に退路を定めた。女の様子を見ながらゆっくり動きはじめた、その時。


「トキちゃん!?」


 突如、後ろから声が響いた。後ろを見遣れば、立ち尽くす紫珠乃と文里(ふみさと)、そして文里に抱えられた環の姿があった。


「シズちゃん……」

「一体、何して……え、太基君! その腕どうしたの?!」

「切られちゃって」

「はあっ?! 何で! トキちゃんがやったの?!」

「そう、この子は関わってはいけない、近づいてはいけないところに近づこうとしたのよ。この子が来なければ、シズにこんな所を見せずに済んだのに」

「いや待って、見せずに済んだじゃないでしょ! 相手は子供! 子供を傷つけていい理由って何?!」

「シズちゃん、あんたのトラウマがっつり抉ってるのは分かるけどね。それでも、その子に憑いているモノが私達には邪魔なのよ。いいえ、その子だけじゃない。アンタと、そこに抱えられている子供もそう」

「憑いているモノ?」

「例のあの日以来、何か不自然な靄が見えてない? 人が居ないところで声が聞こえることは?」

「他人を異常者扱いするつもり?」

「いいえ、シズとその子達に限ってはは精神異常なんかじゃないわ」

「どういう意味?」

「さあ。ただね、人智を超えた存在っていうのは本当にいるのよ。ただ、彼らがこの世の生きとし生ける者をどんな世界に導こうとしているかは、彼らの立ち位置次第なの」

「例えば、天使と悪魔のようなもの?」

「そう、流石に実家が教会なだけあるわね。そう、天使は神の統べる天の国とか言われる場所へ、悪魔は地獄とかゲヘナと呼ばれる場所へ。天の御国には園の中央に生命の樹が生え、泉からは生命の水が流れ出て、涙を拭われた人々は永遠に神を賛美する。彼らがどんな人生を生きて何を経験したかは関係なく同じ世界で同じことをしている世界」

「……別に、天国なんてそんなもんじゃないの?」

「そんなもの、か。シズ、あんたそれクリスチャンとして正解でもエンジニアとしては失格」

「は?」

「ラプラスの魔は量子力学が殺したわ。つまり未来は、あらゆるもの達の可能性、経験値は常に未知数で再現性は殆ど無い。そんな魂の積んだ経験、データの価値が果たして本当に天国で埋没するほど無価値かどうか。冷静にエンジニアとして考えれば?」


 それだけ言うと、女は懐から小さな非常用ホイッスルを取り出して高らかに吹いた。その瞬間、少し離れた所から馬の嘶きが響いた。


『逃すな!』


 不意に太基の頭に声が響く。天照大神とは違う声だ。同時に凄まじい速度で目の前の陵墓を越えるイメージが脳裏に浮かんだ。樹を、枝を、蔦を飛び越えて飛ぶように移動するイメージ。


千の(ア・サウザンド・)輝く(スプレンディッド・)太陽(サンズ)


 教えられた呪文が自然と口から零れ出た。あっという間にメキメキと足元から樹が生える。その樹の枝に乗って、そこから不自然に生えでた蔦を掴んで身体を支え、その蔦に縋って枝を蹴って飛んでいく。


「太基君?!」


 紫珠乃の声が遠くから聞こえた。その声を後ろに聞きながら身体が勝手に動いていくような感覚があった。街路樹から、陵墓の樹々から、次々と不自然に伸びる蔦を掴んでは樹から樹へと飛び移り、丸い丘となった場所を越えてその向こうへ。

 視界の先に何かを抱えて走っていく女の姿が見えた。栗色の髪を振り乱し、こちらを振り向いた顔には驚きと恐怖が混じり合っていた。


『捕まえろ!』

『ならぬ、姫君の心のままに!』


 二つの声が頭の中で弾けた。視界までチカチカしてきたその瞬間、太基は蔦を掴み損ねて派手に落ち葉の中に落下した。痛みに耐えて体を起こして顔を上げる。目の前を颯爽と一頭の馬が駆けて来て、栗色の髪をした女を実に鮮やかな手捌きで抱えて攫っていった。


『逃げられたか!』


 頭の中で悔しがるような声が聞こえた。太基にはもう颯爽と駆けていく馬の後ろ姿を眺めることしかできなかった。

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