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ブレイン・シード  作者: 小石丸
2. かつて笹百合の咲いた山
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姫君、覚醒

 さっきまで立っていた場所に熊が落ちてきた。目の前にはさっきまで無かった巨大な樹。到底現実と思えない光景だったが、現に目の前の熊は頭を強打し首を絞められ息絶えていた。

 手を合わせて黙祷するうちにスッと気持ちが鎮まり頭の中が醒めていく。祖父と山を歩き、時に叱られながら危険を潜り抜けてきた。道を見失わない観察力も、方向感覚も、雪の恐ろしさ、雷の怖さも、山の獣の怖さも知っている。生き延びるために何よりもまず冷静さが必要だ。身体に叩き込まれた教訓が一瞬にして次に取るべき行動へと頭と心を集中させる。

 まずは熊が動かないのを確認したら念のため首元にナイフを突き立て全体重を掛けて深々と刺していく。続いて鹿は麻紐で括って吊るして放血させた。


「熊はともかく鹿は持ち帰ります。このまま他の熊に餌と認識されたら面倒なんで」


 一人で持ち帰ることは想定済みだ。頑丈そうな枝と麻紐を駆使して獲物を持ち帰れるようにする。一人で運ぶから引きずって運ぶことになるが仕方が無い。出来るだけ急いで人里に降りることにした。気休めに過ぎないとしても、壁がある方がまだ安全そうだからだ。

 なだらかな草原の道を選んで下りていった。樹木の中でいきなり熊に会うより遠くに見えた時点でさっさと逃げることを考えたい。時折待ってくれと声が掛かるせいで思っていたようなペースでは進んでいかないが、待ち時間は遠くまで見渡して注意深く辺りを観察する時間に充てることにする。


「あっちだよー」


 半ばまで下りたところで間の抜けた子供の声がした。遠くを歩いてくる大人二人に抱き抱えられた子供が一人。紫珠乃(しずの)達が家族でこちらに歩いてきていた。


「何でこんな所を歩いていたんですか?」

(たまき)太基(たいき)お兄ちゃんこっち、っていうから。まあ、その前に行く宛も無く町を歩く羽目になったんだけどね」


 紫珠乃達は箱罠を製作しようと奮闘している中野さんとは離れて環を連れて歩いていた。箱罠自体が危ないため環を近づけるわけにはいかない。住宅地にも熊が出没しているなら泊まっていた建物に引き籠もっているのが安全だと判断していたのだが、そうはいかなかった。


「すみませーん、ちょっと荷物置きます!」

「何ですかこれ」

「トラップの材料です。箱罠の部品とかは寺に置かせてもらったんですけど、この荷物まで全部置いたら実験スペース無くなると思うんで。あっちで組み立てて、こっちでトラップの仕掛けを考えて、後で組み合わせるんです。いやあ、壹拾(とおまり)さん達が事情を分かっててくださるから、ここに置けるだけでも作業が捗ります」

「あー、私達出掛けますね」


 トラップ、つまり硫化水素発生装置。庭先で実験されて安全なわけがない。そして子供の安全確保は親の務め。話が通じる相手なら抗議すべきだが、噛み合わない会話が徒労に終わるのが関の山だと紫珠乃は判断した。従って文里(ふみさと)と環を連れて逃げることにしたが、行く宛が無くて途方に暮れた。


「無防備に外を歩くのも嫌だし、平地より建物の高層階、気密性の高そうな場所がいいかとは思ったけど。それでもマンションの屋上を子供連れて徘徊するのはちょっと無理があるしさ。どうしようかと思って結局ちょっと離れた大学キャンパスにお邪魔してたのね」


 大学なら大抵は違和感無く溶け込めると考えてのことだ。人が少ないのを良いことに日陰を求め、入った先の建物は文系学部の研究棟。文里が目を輝かせていた。


「それで窓から外を見てたらいきなり樹が生えてくるし、何か塊が落ちていってて。環が『太基お兄ちゃんがいる』とか言い出すから。フミ君引っ張ってここまで歩いてきたのよね」

「やっぱりあの樹は……目立っちゃってますね。熊に遭遇しただけなのにな」

(こわ)! 此処から離れた方がいいわね?」

「はい。文里さん、これ担ぐの手伝ってもらえますか?」

「いいけど。シズ、ちょっとこのペーパー持ってて」

「何これ」

「大学に置いてあった古墳研究の論文」

「持ってきちゃったの?!」

「あんまり急かすから置いてくるの忘れた」


 結局、二人がかりで獲物を抱えながらまずは川を目指す。ほど良い場所で改めて臓物を取り出して肉は川に漬けて冷やしておく。ついでに血塗れの服も濯いでようやくさっぱりする。


「シズー、タオルある?」

「無い!」

「参ったな、続きが読めない」

「そんなに面白かったんですか?」


 内容は箸墓(はしはか)古墳の解析について。発掘調査が禁止されているため宇宙線を用いた解析を進めるというニュースが入ったのが約十年前。しかし解析結果についての報道や報告として信頼できる記事をネット上で見つけることはできなかったため、当時の文里がニュースを追うのを諦めた話題の一つだった。


「その解析結果がさ、論文に纏まって転がってるんだから見ない手は無いよね。で、結論がちょっと不思議でさ。円形部分を中心に渦を巻くように中心に向かう細い通路があるらしいんだ」


 そのような造りをした古墳は他に例がない。普通なら論文として発表後に学会で取り上げられて報道でも注目されるだろう内容だった。これだけどこも取り上げないというのは、意図的に黙殺されたのかと疑いたくなる。


「あまり注目されていない遺跡なんですか?」

「古事記にも出てくる有名どころでそれは無い」

「何があるんでしょうねえ」


 夏の日射しが照りつけ、川で濯いだ服はあっという間に乾いていく。文里は手が乾いたのか太基の質問には答えず論文を読み始めた。論文を返した紫珠乃は暑さに耐えかね、環と水遊びを始めている。

 太基も獲物の肉が十分冷えるまでは手持ち無沙汰だった。環を見守りながら足を水に浸している秋村さんに混じって、膝ぐらいまで浸かったほうが気持ちよさそうだ。


「環君、何してるの?」

「お魚捕まえるの」

「そっか、それで丸く水が溜まる場所を作ってるのか」

「パパにも見てほしいな」

「パパは箸墓古墳、って古墳の中のことを書いた紙を一生懸命読んでるから、後にした方がいいんじゃないかな」

「はしはか?」


 環は視線を宙に浮かせ、そのまま動きを止めた。紫珠乃がそんな環の様子を何事かと見守っている。


『不自然な通路、か。それに薄らと奴らの気配もしているのが気になる』

宝珠(ラビィ)の気配はしないんだけどねえ』

『ディープスリープというだけなら手立てはある』

『僕らの居場所を知らせるようなものだと思うけどなあ』

『今更、気にするようなことではないだろう。いと高き処に居られるお方のために力を尽くす、それに異議があるなら……』

『分かったって! ジルはそーいうお堅いところ変えた方が良いと思うよ! 環君、我らが主のために。目覚めの笛を』


楽の(ザ・フール・オブ)痴れ者(・ミュージック)


 どこからか美しい笛の音が聴こえる。咄嗟に周りを見回したが、他の大人達は環を見守っているばかりである。


「紫珠乃さん、どこからか笛の音がしてませんか?」

「笛? 何も聞こえないわよ」


 おそらく聞こえているのは環と太基だけなのだ。こうしている間にも、この世のものと思えないほど美しい音が天に昇って溶けていく。


『妾とはまた違うが、宝珠の力じゃ。それにしても良き笛じゃ、擬似人格とは思えぬほど』


 太基だけに囁くように天照大神が語りかける。その間にも、笛の音は遠く高く響いていく。


『誰なの、私を起こすのは』


 唐突に少女のような声が聞こえた。それとともにフッと笛の音は途絶えた。


『箸墓の姫君じゃ。出来れば静かに眠らせてやりたかったんじゃがの』


 大神の呟きの意味をこの時の太基はまだ理解していなかった。

注:実際の箸墓古墳に不審な構造物とかはありません。宮内庁から陵墓(歴代の皇室関係の墓所)として指定されていて殆ど調査されていないというのは本当ですが。

発掘調査は無しの方向で! と言われているのでじゃあ宇宙線を使おう、という研究があるみたいですね。

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