それぞれの認識と解釈
翌日、すっかり日が高くなった頃。太基は秋村さんと共に設置した罠の見回りをしていた。いや、罠だけではない。例えば道に新しい足跡がどれくらい付いているのか、新しく樹皮を剥がされてしまっている樹がないか。昨日と今日の違いを丹念に探して、次の作戦を立てる必要もある。
目に見える景色、肌で感じる気温や湿度や風の流れ、土を踏んだ時の感触、他の生き物や川の流れの音、何もかも捕捉していく。或いは、全て自分の一部と錯覚しそうなほど山そのものと同調していくといった方が近いかもしれない。
「何でここに罠を掛けたか教えてくれるかい?」
「まだ新しい足跡と、近くに樹を齧った跡があったからですね」
「見分け付くの?」
「足跡の、抉った土が乾き切れていなかったり、齧った傷痕から出る樹液がまだネバネバしてたり、見分けるポイントがあったので」
説明しながら、目の前の罠に鹿が掛かっているのを確認する。下がっててください、と秋村さんに言っておいたが、彼は身動き一つしなかった。今日の得物は竹槍とナイフだ。使い慣れた斧と少し勝手が違う。どう攻めたものか。とりあえず左手に竹槍、右手にナイフを持つ。
鹿の右眼を目指して一直線に突く。当然、顔を逸らして避けようとする。そのまま身体の前に斜めに竹槍を抱え身を守れるようにしながらナイフを出す。顔を逸らした一瞬、首ががら空きだ。竹槍を捨て全力で頸動脈を突こうとするが、相手は素早く身体を伏せてしまって捕らえられない。それでも。伏せた身体の首筋をもう一度狙う。今度こそ体重を掛けて。
ドス、という音と共に血が噴き出す。鹿の、生命が、流れ出していく。最後の足掻きで鹿が頭を振り、その角は真っ直ぐ太基を狙う。咄嗟に避けたが頬を掠めていった。ほんの少しタイミングがずれていたら? たぶん左眼は潰されていた。
「敵わないなあ」
秋村さんの呟きが聞こえる。そんなことはない、と太基は荒く息を吐きながら心の中で呟き返す。祖父なら、もっと危なげなく対処している。良い大人なら何とかなるだろうと言いたくなる。
「やっぱり、中野君みたいに搦め手で行くことを考えないと僕らには無理かなあ」
搦め手、つまり箱罠と硫化水素を組み合わせるアイディアのことだ。その一言だけで、太基の心に忘れていた蟠りが重くのしかかった。太基は中野さんに乞われて箱罠の作り方を教えたのである。だけれども、硫化水素を使うというアイディアの部分は箱罠を教えた後にようやく理解し、何となく嫌な思いをしたのである。
安全に対応できるとか、練度が低い人間が対峙したら獲物を苦しませるとか、そんな理屈じゃなく。何かそのやり方にモヤモヤと違和感を感じてしまうのだ。ちなみに、毒餌のほうは素材が見つかるまでは保留である。
「さあ。逆に僕には中野さんみたいなやり方は多分合わないし無理なんで」
つい、つっけんどんに答えてしまった。
「ああ、ごめんね。嫌なことを思い出させて。君が中野君のやり方を嫌ってるのは分かってるんだ。だから、君には箱罠の作り方を中野君に教えるよりこっちに一緒に来てもらおうとしたんだけどね」
獲物の足から麻縄を外す太基の背中を見ながら、秋村さんは動かない。邪魔しないようにという配慮と、少し不機嫌な太基に近寄りがたいのと、たぶん両方だ。
「中野君は、自分だけじゃなく他の人達が安全に対応できるように真剣に考えているんだけどね。彼もそういう気持ちの部分になると言葉足らずだね。君みたいに獲物と命がけで対峙する強さのある人間は居ない。少なくともこの地域にはもう残っていない。中野君はその前提でどうするかって考えているんだよ」
「僕は強いわけじゃないです。命を貰うために僕の全部を賭けて。今またこうして生きられているだけで」
「それは充分心が強いよ」
秋村さんの話を聞いているとやっぱりモヤモヤする。太基は話すのをやめて獲物に集中することにした。さっさと罠を外して、麻縄だけはちゃんと回収して、内臓は外して川で血抜きして、それから……
ガサ、と落ち葉を何かが踏みしめる音がした。
「あ」
秋村さんの間の抜けた声が聞こえた。視線の先には黒い影。熊だ。
「目を離さないで、ゆっくり下がって。木の影に隠れて」
秋村さんは尻餅をついたまま動かない。ひい、ああ、と言葉にならない小さな悲鳴をあげるだけで、動けないのだ。太基も余裕は無い。ナイフを構える。竹槍は拾えなかった。
熊は何の躊躇も無く向かってきた。明らかに人を襲うことに慣れている。真っ直ぐ構える太基を無視し、秋村さんに向かって一瞬で距離を詰めてしまう。
『千の輝く太陽』
「千の輝く太陽!」
頭に響いた天照大神の声をそのまま叫んだ。直後、熊の腹の下から凄まじい速度で一本の樹が伸びた。瞬く間に大樹へ成長した樹は熊の身体を跳ね上げ、地面に放り出した。
「に、逃げて!」
無我夢中で元来た道へ、秋村さんを引き摺った。地面の落ち葉を滑らせて1メートルほど動いた。ザン! と大きな音を立てて黒い塊が落ちた。そこに更に蔦が幾重にも絡まる。噛み切ろうとして開けた口にも容赦なく絡まり顔も全て覆っていく。やがて黒い塊はヒクヒクと暫く痙攣して、やがてその動きを止めた。
「い、今のは」
「さっきの熊、みたいです」
「樹が」
「何も、聞かないでください」
動かなくなった黒い塊へゆっくりと近づいた。あの熊だった。数十メートルの高さで樹から落とされ、頭から落ちたのだろう。最後は窒素死だろうか。虚ろな目をして動かない熊に、太基は無言で手を合わせた。
『宝珠の能力が使われたわ』
十紀子は、不意に頭の中に響く声に思わず足を止めた。宝珠の能力、すなわち各々の能力に従って現実に干渉する力だ。
「もう少し情報ちょうだいよ」
『19号機。場所はあっち』
「山のほう? ちょっと地図出すから待って」
改めて地図上で示された場所は当然ながら道などない山の中だった。地形で見れば標高はさほど高くない。広葉樹林の保護区だった場所から少し外れた位置でもあった。つまり、広葉樹林の保護区からなら分け入って行くこともできるはずだ。
「侵入は容易だけど、わざわざ入っていく意味ってあるかしら。食糧が尽きた?」
『もしそうなら、もう少し広域で山菜類を生やすような使い方してると思う』
「違うのね?」
『そこのアパートの最上階にでも登ってみれば?』
言われた通りに登っていく。よく観察すると、広葉樹林の保護区となっているらしい区画は少しだけ森の様相が他と違う。生えている樹の種類の違いは樹冠の色や形の違いとして見て取れるのだ。その奥に一本、不自然に大きな樹がその葉を茂らせていた。
「あの樹がそうかしら」
『そう。ほんの30分前まで無かったわ』
「食糧のためでなく、かといって目立つ樹を生やす意味か。今のところ直接関わったのはシズだけだけど、他にも天使のアバターがいるんだったわね?」
『いるわね。私は極力気配を消しているつもりだけど、こうして貴女と話している間に気付かれた可能性は否定できない』
「しかも、この地には宝珠の1つが眠っている」
『ディープスリープモードだから反応は無いけど、まあその通りよ』
「確かに私たちも探知出来ないものね。だったら宝珠狙いより貴女に気付いた可能性の方が高いのね」
『そうね。正直、向こうの天使様は分かってやってると思った方がいいわ。それでも敢えて能力使ってみせるなんて。はっきり言って宣戦布告よ』
十紀子は一瞬にして生えた巨木を睨みつけた。
「仕方ないわね、シズとは争いたく無かったけど。受けて立つしか無いじゃない」
そしてもう一人、まさに巨木が生え出る瞬間を目撃する者がいた。
『安海、いい加減、アタシを無視するのは止めてくれないかしら』
頭の中に声が響いても、彼女はしばらく無言だった。しかし、目の前の光景を見届けた彼女はやがて諦めたように口を開いた。
「あくまでこれは独り言よ。だから何を喋っても頭の中で誰かが返事をするなんてあり得ない。何か聞こえても空耳以外にあり得ない」
暫しの沈黙。宣言通り、何の声も聞こえない。
「一昨日だったかな? 私を探してたとかいう女が来たのって。私は『リリス』とかいう此の世の外の何者かの『アバター』で、私の存在が必要だって言った。頭の中で語りかける声には気付いているはずだとか、私達の『敵』がすぐそばまで来ているとか。そんなの普通に考えて頭おかしい奴の妄想。だから当然否定する」
もう一呼吸。彼女はもう一度巨木を見据えた。
「私の目も耳も頭も狂ったりなんかしていない。だからあの光景のタネや仕掛けは分からなくても、私は幻覚なんて見ていない。だから歩いていけばあの樹に辿り着けるし、枝だって折って持ち帰れる」
返事は当然無い。あってはならない。彼女は明るい栗色の髪を靡かせて巨木に向かって歩いて行く。
「私はまともよ。本当なら確かめるまでもなく」
彼女の声に応える者はいなかった。




