虫の視点
この前ふと作品情報ページ見てたら、評価くださった方がいるのに気づきました。ありがとうございます!
十紀子に暫しの別れを告げた時、まだ日は充分高く、それでいて風は爽やかだった。
まだ、景色を眺めてぼんやりするのは後でいいかもしれない。でも気持ちは高くて眺めが良い場所へと傾いていた。結局、紫珠乃は周辺のアパートを調べることにした。それなら平地より景色も良いし風はさらに爽やかだろう。中途半端な選択である。紫珠乃は残念ながら『敢えて休む』のが苦手だった。
この辺りで簡単に入れそうなアパートは、精々三階か四階建てしかなかった。通路側から見ても空き家かどうかは分からない。空室の郵便受けにテープでシールを貼っておく慣習は既に維持できず、過去のものとなっていた。道路側からベランダの窓を見上げても昼間に様子は分かるはずもない。
平屋で目ぼしいところは全滅でした、という結果だけ報告して終わりにすることにした。今後注意すべきは集合住宅、と一つ意見すれば一日分の仕事としては充分だろう。直線距離ではたいして宿から離れていないが、十紀子と立ち話をしていた時間のほかはずっと歩き通しだった。
やや左側から照りつけ始めた太陽がジリジリと熱くて眩しい。西に向きを変え、暫くまた歩いたところで道の真ん中にしゃがみ込む男がいた。何やら箸のようなもので地面をつついて、そのまま何を掴んだのか今度は夕日の光に翳して観察しているのだった。
「こんにちは。何されているんですか?」
この地域の人なら、何か話は聞けるかもしれない。凶器は持っていないと判断した紫珠乃は男に話しかけてみることを選んだ。
「こんにちは。観光ですか?」
「観光じゃないですけど、ちょっと用事で来てまして。ところで、何見てたんですか?」
「おお! よく聞いてくれました! この子ですよ、ほら。キラキラ青くて綺麗でしょ」
そう言って男がひょいと掌に端から移した青い甲虫を紫珠乃に見せた。西日のオレンジで分かりにくいが、確かに青い綺麗な虫だった。
「綺麗ですねえ」
「そう、ルリセンチコガネという虫です。ちょっとお食事中のところを観察させてもらってました」
「何食べてる虫なんですか」
「主に鹿の糞ですよ」
鹿の糞と聞いて思わず後ろに下がった紫珠乃だが、構わず男は良く喋る。
「すぐそこの奈良公園とか多いですよ。大量に出る鹿の糞で奈良公園が臭くならないのはこの子達のおかげです。ちゃんと土に還してまた芝生になるから鹿の食糧も無くならない。今までは、そうでした」
「今までの?」
「そうなんですよね。今はほら、鹿せんべい無くなっちゃったでしょ」
「観光どころじゃなくなりましたものね?」
「生産どころじゃなくなった、というのが正しいです」
どこもかしこも電気系統が使えなくなった。単に工場が動かないだけではない。銀行が機能しないから給料振り込みは止まり、経済が回らなくなった。
西日本は貨幣の価値が無くなった。東日本の状況は不明だが、日銀と造幣局はあちら側だから案外どうにかなっているのかもしれない。
原材料の米糠と小麦粉にしろ、小麦粉は輸入がストップしている。あったところで人が食べるほうが先になるだろう。
「なるほど。それで、鹿せんべいと糞虫がどう繋がるんですか?」
「鹿せんべい、だけでなく人間の保護あって維持できていた個体数だったということは、自然ではない個体数ということです。それに、人間側も鹿と共存するエリアはちゃんと区切って管理を続けてきたんです」
それがある日突然無くなった。餌を貰える前提で奈良公園に集まっていた鹿達は芝生を食い尽くして他所に行く。棲み分けも無くなり、他所で雑草やら森の植生やらを食べる鹿達は元市街地の道路のような草も生えないような所で糞をする。
糞虫達がいくら分解してもアスファルトの上では土に還らない。アスファルトの隙間にようやく出来た土に育つ雑草もすぐに食い尽くされる。
「だったら鹿が減っていく?」
「長期的には、そうなるでしょうけど。人間の手が入らなくなって悪かったのは、むしろ増えたことなんです」
「え?」
「おそらく一時的な現象だとは思うんですけど。一時期は避難所暮らしの人もいっぱいいて、あらゆる所に人の手が入らない間に食糧を求めて庭や畑や山に鹿達が入ったんです」
鹿にとっては食糧と自分達の陣地が増えたから、数も増えた。畑も何もかも荒らされ、動ける人はさして遠くない京都や大阪の市街地に逃げた。放棄される土地は鹿の住処になって、後はもうこの繰り返しで悪循環だった。
漢國神社の宮司は鹿が増えたことで田畑が荒らされ、耐えかねて逃げた住人が残した空き家を狙うならず者が増えたと考えていた。だとはいえ本人はもう歳で長時間歩くのは腰の調子が許さない。だから紫珠乃に様子を見てくれと頼んだ。紫珠乃も宿賃代わりと快諾した。
「人が出て行って昔からの人が安心して暮らせないのを嫌がるのは、お寺さんや神社らしいなあ。昔からの祭りを守りたいから当たり前だけど。でも、どうしても人間社会ばっかり見てるなあ。もう少し糞虫や土や雑草に目を向ければ分かることがあるのに。ああ鹿が増えたな、くらいには思ってるかもしれないけど」
「鹿のせいで畑が荒らされて人が減って、空き家も増えて、泥棒も増えた。少なくとも治安の方は人間の話ではないですか? 窓や扉が壊されている平家はたくさんありました。軽く中に潜り込んでみたら、食糧は全滅。あとたまに布とか消耗品も荒らされた家があって酷かったですよ」
「勇気あるなあ。うん、布とか缶詰とか獣が使わないものは人間でしょうね。でも、多分最初に侵入したのは人じゃないパターンが結構あると思います」
「人じゃない?」
「はい。多分最初の侵入者は結構な割合で熊ですよ。落ちている糞からして、たぶんそう」
鹿に樹皮を剥がされた木はやがて枯れる。ドングリなど熊の食糧になるものが減る。その時狙われるのは人間の食糧だ。
熊はハンターではない人間は弱いと理解する。雑食なので人間の食べ物は一度でも食べたら忘れられないご馳走となる。ビニールを開けるのはもちろんのこと、最近の缶切りがなくても開けられる缶詰だって、振り回して上手く硬いものにぶつければ或いは開けられるかもしれない。
「宮司さんからは熊の話なんて全く聞かなかったんですけど」
「たぶん、熊に襲われて亡くなられても気がつかれずに放っておかれてます。それくらい人が減って空き家が増えて、ご近所付き合いがないんです。悲鳴をあげても気付かれないか、悲鳴を上げる間もないか、襲われたら助かりませんが、付き合いが無さすぎて目撃者も居ないのでしょう」
その状況で熊の仕業と見破るには、わざわざ糞を観察するしかないわけである。高齢で孤独死したか、襲われた傷が致命傷になったかで亡くなった人の家の中で食糧を荒らされた形跡と、近くの糞虫が分解した跡を彼は観察した。残された跡が大きくドングリの殻など植物性の餌の破片が割とそのままであったことから熊だと結論付けた。
「うーん、それでも家の壁なんて突破できないのでは? それに見かけたら家ににげて扉閉めればいいと思いますけど」
「人間のスピードじゃ逃げられません。特にご高齢だったり女性や子供はね。ほら、家に人が住んでいたって換気やら洗濯物を干すのやらで窓や扉を開けたりはするでしょう。夏なら網戸しか閉めてなかったり。多分ね、そういう時に突破できるって学んだ個体がいて、それを毎年の子育てで子熊に教えちゃったりするんじゃないかなあ。二階建で二階の窓が空いていたりしても危ないです。木登りとか得意ですから簡単に侵入できますって」
話をしながら、彼は観察していた糞虫を糞のところに戻してやっていた。辺りが暗くなるのでそろそろ帰るということらしい。
「まあ、全て推測なんですけど。夏は子熊の独り立ちの時期ですから移動する個体も増えます。くれぐれも気をつけてくださいね」
「待って待って。ちょ、その話ちゃんと宮司さん相手に説明してくださいませんか?!」
パンパンとズボンをはたいて立ち去ろうとする男を、紫珠乃が引き止めた。
「え、でもただの推測」
「推測でいいです。だってその仮説、熊にばったり遭遇して証明するんですか? 死にますよ?」
「それもそうか。でもねえ、猟師がいるわけじゃないから対策なんて出来ませんよ」
「いやいや、罠猟だったら何とか出来る子と一緒に旅してきたんで! でもその子も一日や二日で貴方ほど詳しく状況把握できるわけないです。熊が出るかも知れないって、それ命に関わる情報でしょう!」
「す、推測で喋っていいなら、いいですけど。ていうか僕が喋った内容は師匠の受け売りでした、ごめんなさい。そんな詳しく聴かれそうな場に行くとか無理です、ごめんなさい」
途端に小動物か何かのように逃げ腰になった男だったが、結局は紫珠乃の勢いに負けた。そして師匠とやらと一緒に神社に連れて行かれたのだった。




