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ブレイン・シード  作者: 小石丸
2. かつて笹百合の咲いた山
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面倒ごとは避けて通れない

 伊勢から奈良に真っ直ぐ向かうには、山を突っ切る道を選ぶことになる。海沿いとは違い、標高が上がるにつれて徐々に空気が澄み森は深くなっていく。

 太基(たいき)にはやはり山の方が心地良かった。家の近くとは違う山であれ、帰ってきた感じがする。


「ねー、待って。抱っこー」

「はいはい、太基君ちょっとだけスピード落として」


 数日かかって歩き続け、今度は徐々に下り坂が増えていく。自然と足取りは速くなり、その度に(たまき)紫珠乃(しずの)が待ったをかける。休憩と言っても、環は心の赴くままに目の届かないところまで冒険しようとする。見ている側としては気が気でない。

 やがて町が近くなったのか、かつて整備されていた登山道からひび割れたアスファルトの道へと徐々に趣きが変わっていく。目的地へ向けて人の手でかつて整備されていた、ただ歩くためだけの道が太基には少し物足りない。

 山は山菜も獣も川魚もいる。中に入って仕舞えばそこに溢れるもの達のひとつとなり、生かされている限りどれだけ深くでも溶け込んでいけると太基は()っている。

 だが、現実には今の太基は他の人間を引き連れた異邦人であるからか、少し荒んだような、山の神様にそっぽを向かれてるかのような雰囲気を感じていた。それを裏付けるが如く歩いてきた道では大した収穫が無い。食糧はこのところ目に見えて減っている。

 下るにつれて地面に藪さえ無くなっていき、土と落ち葉ばかりが目立った。益々、生命力を感じられない土地だった。こんな道を辿って、伊勢を出て一週間ほど掛けて、とうとう開けた場所に出て来たのだった。


「ようやく着いたのかしら?」

「せやなあ。見てみい、鹿が歩いとるで」

「鹿さん? どれ?」

「環君は初めてかいな。ほら、あそこで草食べよる。奈良は鹿が有名なんや」

「可愛いねえ。あ、行っちゃった」


 鹿は少しだけ地面の葉を齧るとすぐに居なくなった。太基はもう少し地面をよく見て、すぐに鹿の糞があちこちに有るのを見つけた。


「環君、また鹿さんにはいっぱい会えるんじゃないかな」

「ほんと?」

「ほんまにそうやな。奈良公園なんかは鹿で有名なんやで」


 いっぱい会えるどころか増えすぎた鹿は害獣です、とまでは子供相手には言えなかった。環と和やかに話す大人達はどこまでそれを分かっているのだろうか。

 この分では間違いなく畑の野菜は食い荒らされているのだろう。冬の間の鹿や猪を獲る狩猟は、春から先の畑の作物を守るためでもある。これだけ町を鹿が堂々と歩いているということは、畑は全滅していないかと太基は辺りの様子を窺う。


「奈良公園もいいけど! 歴史ある町だから見るべきところは山ほど有るよ。法隆寺なんかは有名だけど、漢國(かんごう)神社もなかなか起源は古いはずなんだ。あ、近くには箸墓(はしはか)をはじめとして古墳もたくさん」

「フミ君? どうするかは帰り道で考えようか?」


 太基は密かに溜息をついた。

 あるべき均衡を取り戻すべく、仮に今から大急ぎで森や畑に害が及ばないように鹿の数を減らすとしても、森はすぐには戻ってくれない。狩った獲物だって、まず食べきれない。本当にただ殺すだけになってしまう。

 漢國神社に着いた頃にはそろそろ陽が落ちそうになっていた。五月も下旬に差し掛かり、夕暮れ時になっても風は生温く、荷袋を背負った背中はじんわりと汗ばんでいる。草花は今が盛りのはずなのに、気休め程度に張られた柵の向こうの畑は荒れているし、柵そのものが壊されている箇所も多い。そして町の中では所々鹿が我が物顔で座り込んでいる。


「ごめんくださーい。誰か居ますかー?」

「いますかー?」

「ここにおるで」


 まさかの後ろから、と紫珠乃が呟くのが聞こえた。環が元気な挨拶を返すのに合わせて会釈をする。


「あの、伊勢のほうで漢國神社の宮司さんに渡してほしいものがあると頼まれて来ました」

「ウチに?」

「笹百合の種だそうです。数年前にここで奉職していて、伊勢のご実家に帰るときに譲っていただいた株を増やしたのだと仰っていました」


 ゴソゴソと文里(ふみさと)が包みを出して渡した。漢國神社の神職の一人であろうという男は文里の言葉に驚いて暫く固まっていた。


「あれ? 大丈夫ですか?」

「え、ええ。大丈夫です。いや、驚きました。もうこの一帯で笹百合は二度と咲かないだろうと半ば諦めていたところです。こんなに嬉しいことはありません」

「二度と咲かない?」

「立ち話もなんですから、中にお入りください。社務所で良ければ水くらいはお出しできます」


 小さな社務所には荷物がいっぱい置かれていて、大の大人四人、それから太基と環が入ると案外狭い。

 環が「これなーに? あれなーに?」と騒ぎ出したから、一緒に席を外して環と一緒に居てやることにした。大人は大人で落ち着いて話せた方がいいだろう。


「元々ねえ、祭礼で使う笹百合って山で採ってきてたんですよ」


 ちびちびと口を湿らせながら、宮司が話し始める。


「数年前から、温暖化だったりマナーの悪い登山客が持って行ってしまったりで、数は減ってきてはいたのです。ただでさえ一夏暑さを経験して、その翌年の初夏にようやく咲くような花なんです。一旦減り始めると、後は坂を転がり落ちるように減ってしまうのです。それでも、もう少し時間はあると思っていたのですが」

「何かあったんですか?」

「鹿です」

「鹿?」

「元は奈良公園を中心に保護、避妊処置、それでも増えたら捕獲して麓苑で保護して共生していました。なんたって春日大社の神様は白い鹿に乗って奈良に降りたったのですから、奈良の鹿たちはみな神様の遣いの子供達というわけです」

「へえ、知らなかった」

「なるほど、そんな謂れがあったんやなあ」

「……僕はもう少し知られた話だと思ってたよ」


 ここまで徹底して鹿と共生していたのはこの地域くらいだ。

 他の地域なら自治体が駆除依頼を出す。とはいえ狩猟免許を持つ人は少なく、謝礼も少ない。時間も経費もかかるし危険も伴い、赤字になることもある。


「全国各地、最前線に立っておられた方々には頭が下がります。本当に、鹿も増えすぎると植物が食い荒らされてしまいます」

「あ、じゃあ笹百合も?」

「はい。あの日以来、鹿の保護どころじゃなくなりましたから、鹿達が生きるために他所に植物を食べにいくのは仕方ありません。正直もう笹百合どころか農作物にも毎年被害が出ています。森も下生えが食い荒らされて樹皮も剥がされる始末です。アセビやツツジみたいに毒がある植物ばかりが残されて、最近はそれすら食べて体調を崩す個体も見かけますよ」


 ツツジと聞いて紫珠乃さんと伊丹(いたみ)さんは渋い顔をしていた。先日の蜂蜜中毒騒ぎを思い起こしたに違いなかった。


「じゃあ、流石に駆除するんですね?」

「できることならそうしてるでしょうね。現実には、狩猟免許を持った人なんて私の知る限り居やしません。中や罠で捕まえられない、農業が出来ないとなっちゃあ人間の方が出ていくしかないのです。私も宮司として神様方に仕えなければという意地だけで此処にいるようなものです」

「へえ?」


 紫珠乃さんがこちらを見ている。お鉢が回ってきたぞ、と思ったがもう遅かった。

 簡単なことだと思わないで欲しいものだった。鹿だって、野生の生き物だ。人間なんかより本当は遥かに速くて強い。それに、山の神様から授かる命をただ捨てることになりそうで、やりきれない。


「あの子、お祖父ちゃんと一緒に罠猟してたことあったんじゃないかな。少しだけならレクチャー出来るかもしれないですよ。太基君、実際どうかしら?」

「どうかしら、って。僕そんなに上手じゃないと思いますけど?」


 簡単に言ってくれるな、というのが正直な感想である。それに免許というなら太基も持っていない。いや、未成年なので取れないと言う方が正しい。


「ところでこの一週間、歩き通しの割に思ったより山菜も何も取れなくて保存食ほとんど無くなったのよね」

「それはまあ、森であまり山菜とか見つからなかったですけど」

「太基君のスキル不足じゃなくって鹿のせいだって」


 そもそも伊勢に何日もいるつもりも無かった。その時点で大誤算ではある。


「ということは大阪まで水だけで残りを歩くことになりそうだけど」


 食糧が切迫しているのは本当だった。特に奈良に近づけば近づくほど得られるものが少なく、思った以上に食糧の消費は早かった。山菜採りに少しは自信があったのに実際の成果は芳しくなく、落ち込んでいたのにも気づかれていたようだ。紫珠乃の話の持っていき方には何となく太基の心を抉るものがあった。


「出来るだけはやってみます。獲れた鹿肉は持てるだけ持って行きますんで」


 引き受けると言ってしまった。面倒ごとは避けて通れないように出来ているらしい。犠牲になる命は、せめて出来るだけきちんと食べてやろうと思った。

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