心の強い大人なら
もうそろそろ正午になろうかという頃、文里は紫珠乃と共に宇治橋の袂から町並みを眺めていた。環は紫珠乃を見た瞬間に飛びついていって、それから離れようとしない。
数刻前。布を奉納すると聞いた女に何か嫌な雰囲気を感じたと太基が言っていた。文里は見つからないように隠れていたため分からなかったが、概ね太基の勘は信用している。だから太基達が女の居るはずの出店に向かった時、文里は菓子屋の一室から真っ直ぐ神宮を目指したのだった。
「環君?」
「あ、お姉ちゃん!」
神宮へ向かっているところを呼び止めたのは不二果だった。不二果は文里達をメインの通りから離れた方に来るよう促した。建物の隙間の日の当たらない場所にしゃがみこんでいる人影に向かって、不二果は無言で歩いていった。
「ママ!」
しゃがみ込んでいたのは紫珠乃だった。こちらに振り向いた顔は疲れ切っていた。走り寄ってきた環を壁にもたれたまま受け止めて、頭を撫でてやっていた。
「探したよ」
「ん、ごめん。戻れなかった。不二果ちゃんも見張りありがとう。若いつもりだったけど徹夜はもう無理ね」
見張りという言葉に文里が首を傾げると、紫珠乃は少し移動して建物の隙間を指差した。その隙間からは喧騒をぼんやりと眺めながら店番をする女が見える。そこに少年が足早に進んできた。後ろの方には白衣の青年が小さく見える。
「なるほど、裏手から見張るだけなら大回りしなくて良かったんだ。太基君達が捕まえきれれば良いけどな」
「大丈夫じゃない? 三対一だよ」
「万が一の時にどこに逃げるか、どこに逃げられたら困るか、考えとくのは大事だよ。二人がここにいるなら、僕は宇治橋に行くよ」
宇治橋は今の場所から神宮内に入るのに最も近い入り口となる。その狭さ故に妨害するのも容易というわけだ。
「パパ、行かないで」
「環、声が大きいって。不二果ちゃん、私も宇治橋に行って良い?」
「大丈夫です、気をつけて」
それから文里が先導しながら環を抱いた紫珠乃と全力で走って宇治橋の袂まで走ってきた。二人とも着いた頃にはゼイゼイと肩で息をしていた。
「間に合ったかな? シズ凄いな。環抱えてんのに速すぎるって」
「本読んでばっかりで体使わないから。太基君をちょっとは見習えば良いのよ」
「酷いなあ。今朝の風日祈祭は見に行けなくても我慢したのに」
軽口を叩いている間に、町のほうから悲鳴が聞こえてきた。悲鳴があがる場所が徐々にこちらに近づいてくる。人にぶつかるのも構わずに神宮の敷地へ向かってくる者がいるのだ。
「正解ね。引き留めるわ」
「え、シズ待って」
文里の制止も聞かず、あっという間に紫珠乃は環を押し付けて通りに出ていった。
「探してましたよ? 九重さん。例の粉どうでした?」
「後にしとくれ、今忙しいんだ!」
「私も忙しいんで! 今すぐ報酬もらわないといけなくなったんです。払ってもらって良いですか?」
「うるさい!」
女は大声を上げるなり紫珠乃に体当たりをした。突き飛ばされた紫珠乃が悲鳴をあげる。女は後ろを振り返って、太基達が追いかけて来たのを認めると、宇治橋の向こうへ走って行った。
「ママーー!」
「誰かー! あの人捕まえてーー!!」
紫珠乃が絶叫し、人々が座り込む紫珠乃と走り去っていく女に注目する。その叫びは近くまで走ってきた太基達にも届いている。
「大丈夫ですか?!」
「平気、あっち行ったから探しましょ」
「紫珠乃ちゃん、無事やったか! あー、中じゃ広すぎて厄介やな。隠れるのも簡単やろし」
「ママ、大丈夫?」
「シズ、怪我ない? 自分から足止めに行かないでよ……」
「ごめんって。でも今日捕まえないと。騒ぎになっちゃったし、あれは放っておいたら夜逃げしちゃうやつよ。㭭幡さん、次の被害は出したくないんでしょ?」
「それはそう。申し訳ないけど、もう少し助けてほしいです」
「そうね、手分けして探すかしら」
「シズ、皆。あてもなく探しても仕方ないよ。神御衣祭がもうすぐ始まる。ああいうのが金目の物があると知ったら」
「げ、もしかして布と糸。僕のせいで……」
少し遠くからドン、ドン、と太鼓の音が聞こえた。
「報鼓だ。あれの後ろに唐櫃が付いていくんだ」
「じゃあアレに付いて行けばいいのね」
「予想が当たればな。ワシは出店のほうに戻る。変に片付けられるまえにガサ入れんとな」
「何かあるとまずいんで、液体や植物の類は触らないでください。あと手洗いも」
「わかった、わかった。じゃあ気ぃつけてな」
報鼓を持った神職者の後を唐櫃を持った者、他にも多くの神職者が付いて行く。道の両脇にちらほらと参拝客が見に来ている。宇治橋を渡り神宮に入った途端に気温はぐっと上がったように感じられ、参拝客達も木陰から動こうとしない。太基達のように後を追う者はおらず、行列が過ぎるたびに離れて行く者ばかりである。
「皆、最後まで見る気はないんですね」
「暑いし、地元の人はちょっと寄進して菓子屋に直行だよ。今日みたいなお祭りのある時は新メニューが出たりするから」
報鼓の後を追って、あっという間に荒祭宮の前に着いた。唐櫃を開け、中の物を出そうとした神職者の一人が顔を上げたまま固まった。
「寄越せぇーー!!」
「や、止めなさい! ひっ!」
ガラン!
派手な音を立てて蓋があらぬ方向へ飛んでいく。状況を呑み込めない参拝者達が顔を見合わせ右往左往している。神職者達が取り押さえようとしているが、ただでさえ動きにくい狩衣を着た彼らは唐櫃の蓋を振り回して暴れる女に近寄ることすら出来ていない。
太基は人の間をするりと抜けて女の前に躍り出た。後から㭭幡さんが走ってくる。女が唐櫃の蓋を振り回すのを、太基は冷静に躱しながらじりじりと階段の方へと下がっていく。
ーー背中向けちゃなんね、じっと目を離すんじゃねえぞ。
山で熊に会ったことがある。自分がキノコ採りに夢中になって油断したせいで、正面から向かい会う羽目になった。罠に掛かった猪や鹿とは比較にならないほど怖かった。祖父が普段は使わない鉄砲に弾を込めて仕留めた。
ーーよう頑張ったな。お前は絶対に心の強い大人になれるぞ。
ーー心の強い大人?
ーーお前が将来山にいても、どこにいても、おっかないもんは居るで。お前が強くなれば、おっかないもんから誰かを守ってやれるで。
今がきっとその時なのだ。鹿や猪、まして熊に比べれば唐櫃の蓋を振り回すだけの人間が向かってきても怖くはないが、周りの大人は混乱しているではないか。ならば自分がまずはこの女を人気のないところまで誘導しなければならない。
㭭幡さんが階段の端をすり抜けて上へ登って行った。宮の上で何かを探すような仕草をしている。武器になるものを探しているのか。探したところで簡素を極めた宮で武器になるものなど無いから太基は丸腰で対峙しているのだが。
しかし㭭幡さんは唐櫃に手を突っ込み、何かを取り出したと思うと真っ直ぐに女に向かって走ってきた。そのまま後ろから体当たりをする。女は『ぎゃあ』と蛙のような潰れた声をあげ、㭭幡さんに巻き込まれて階段を転がり落ちていく。その瞬間、宮の中から透き通った、しかし力強い女の声が響き渡った。
『女、そこまでじゃ。我欲に塗れた行いで、真心ある者を脅かすでない』
うわあ、と㭭幡さんの情けない声が聞こえた。見ると、その手に握った何かが眩く光っている。白い光はあっという間に烈しさを増し、太基の視界を白く塗り潰した。




