高台のレジデンス
1
「あんた、本当に大丈夫なのかい? 変な男に騙されて、山奥のタコ部屋に売り飛ばされたりしないだろうね?」
築三十五年の木造アパート『コーポ若葉』の前で、腰の曲がった大家の老婆・トメさんが、怪訝そうに眉をひそめて美咲を見上げていた。
「大丈夫ですよトメさん! ちゃんとした芸能事務所ですって! ほら、契約書にも世田谷区の住所が書いてあるでしょ?」
「世田谷ねえ……。世田谷にも悪いやつはいっぱいいるよ。ま、家賃の滞納分を綺麗に払ってくれたのはありがたいけどさ」
トメさんは受け取ったばかりの茶封筒をエプロンのポケットにしまい、美咲の足元に積まれた荷物に視線を落とした。 擦り切れたキャリーケースがひとつ。 そして、ガムテープで厳重に封をされた段ボール箱が三つ。表面にはマジックで大きく『シャイニング☆ベリーズ 橘美咲チェキ&グッズ在中』と書かれている。
「そのミカン箱、置いていってもいいんだよ? こっちで燃えるゴミに出しておくからさ」
「捨てません! これは私の過去二年間の血と汗と涙の結晶なんです! 持って行きます!」
美咲は段ボールを抱きかかえるようにして守った。 昨日、契約書にサインをした直後、桐生は手付金として現金十万円をその場で手渡してくれた。「引越し代と、これまでの未払い分の清算に使ってください」と、まるでコンビニでガムでも買うかのような平然とした手つきだった。 おかげでトメさんに溜まっていた家賃四万二千円を耳を揃えて支払い、四畳半の部屋を綺麗に引き払うことができた。 手元に残ったのは、約五万円の現金と、わずかな着替えと、売れ残りのチェキの山。
「……二十歳、職歴なし。だけど、今日から月給三十万円の所属タレント」
迎えに呼ばれたタクシーのトランクに段ボールを押し込みながら、美咲は青く澄み切った春の空を見上げた。 ボロアパートの薄い壁、夜中に鳴り響く隣人の笑い声、冷え切った畳の匂い。 そのすべてと、今日でお別れだ。 シートに深く腰掛け、美咲は車窓を流れる見慣れた下町の景色を見つめた。心臓がトクトクと早鐘を打っている。これから向かう先が天国なのか、それとも桐生という男が仕組んだ壮大なペテンなのか、まだ美咲には判断がつかなかった。
2
タクシーが環七通りを抜け、世田谷区の閑静な住宅街へと入っていくと、周囲の景色は一変した。 高い生垣、手入れの行き届いた松や新緑の木々、立ち並ぶ重厚な邸宅。下町特有の生活感あふれる雑踏は消え失せ、車道には外車が滑るように行き交っている。
「お客さん、この辺りのはずですが……ここですかね?」
運転手が速度を落とし、坂の上に車を停めた。 美咲は窓から顔を出し、息を呑んだ。
「……うそでしょ」
そこに建っていたのは、映画や海外ドラマでしか見たことがないような、白亜の巨大な邸宅だった。 敷地を囲む重厚な黒いアイアンゲート。手入れされた青々とした芝生の前庭には噴水があり、三階建ての建物は元外国人公館か大使館を思わせる、洋風のクラシカルな石造りだった。表札にはシンプルに、真鍮のプレートで『Life-Long Residence』と刻まれている。
「お会計、三千四百円になります」
「あ、はい……」
美咲は震える手で千円札を四枚渡し、荷物を歩道に下ろした。 タクシーが走り去り、静まり返った住宅街に、キャリーケースを引くガラガラという音だけが響く。
「都内宿舎完備って……これ、宿舎っていうか『要塞』じゃん……」
恐る恐る門の横にあるインターホンのボタンを押すと、ピンポーンと重厚な電子音が鳴り響き、カチャリと自動で電子ロックが解除された。 当然ながら、キャリーケースと段ボール三箱を一人で一度に運べるはずもない。キャリーケースの上に段ボールを一箱乗せてガラガラと敷地内へ引き込み、残りの重たい二箱を抱えて門と玄関の間をゼエゼエと往復する羽目になった。過去の売れ残りの重みが、文字通り両腕と腰にずっしりと食い込む。
最後の段ボールを抱え、玄関ホールの重い木製ドアを開けて踏み込んだ瞬間、ふわりと上質なアロマの香りが鼻腔をくすぐった。 玄関だけで、美咲が住んでいた四畳半アパートが丸ごと収まりそうな広さがある。大理石の床はピカピカに磨き上げられ、靴箱にはすでに数足の靴が並んでいた。
「ご、ごめんくださーい……? 橘美咲ですけど……」
荒い息を整えながら、スリッパに履き替えて廊下を進む。 正面に広がっていたのは、吹き抜けになった巨大なリビングダイニングだった。 優に三十畳はある。中央には北欧製の巨大なソファセットとガラステーブル。壁一面の棚には、芸能関係の雑誌だけでなく、なぜか『会社法入門』『日商簿記テキスト』『ミクロ経済学』といった分厚い専門書がずらりと並んでいた。 そしてその奥には、プロのレストランの厨房かと見紛うような、広大なステンレス製のアイランドキッチンが鎮座している。
「本当に家賃タダなの……? 石油王の隠し子にでもなった気分なんだけど……」
美咲が呆然と口を開けて立ち尽くしていると、背後から冷ややかな声が降ってきた。
「感心しているところ悪いですが、玄関の鍵はオートロックですから、ドアはきちんと閉めてください。防犯上、セキュリティの隙を作るのはリスク管理として極めて杜撰です」
3
「ひゃいっ!?」
変な悲鳴を上げて飛び退くと、そこには一人の少女が立っていた。 年齢は十八歳くらいだろうか。黒髪のボブカットに、理知的な切れ長の瞳。黒いタートルネックセーターにスラックスという、無駄を削ぎ落としたシンプルな服装をしている。その手には最新型の薄型MacBookが抱えられていた。
「あ、ご、ごめんなさい! 今日から入居する橘美咲です!」
「知っています。あなたが最後の一人ですね」
少女は表情を一切崩さず、リビングのソファへと歩いて腰を下ろした。膝の上にラップトップを開き、カタカタと恐ろしい速さでキーボードを叩き始める。
「私は白石琴乃。今年十八歳です。親の敷いたエリートコースに嫌気が差して進学校を中退し、この事務所の門を叩きました」
「進学校を中退……?」
「ええ。医学部に入って医者になり、実家の病院を継ぐことだけが正解だと思い込んでいる親と激突しましてね。自分の力で事業を興し、経済的自立を証明するためにここに来ました」
琴乃は冷徹な視線をMacBookの画面から美咲へと移した。
「橘美咲さん。二十歳。元『シャイニング☆ベリーズ』のセンター。……先ほど、あなたの過去二年間の活動データを分析させていただきました」
「へ? データ?」
「チケット単価二千五百円、月平均動員数十五人、チェキ一枚千円で原価約八十円。事務所の中抜き率七十五パーセント。推定されるあなたの月間手取り額は、平均して四万三千円前後。……はっきり言って、ビジネスモデルとして完全に破綻しています。限界利益率が低すぎる上に、労働時間に対するリターンが最低賃金を大幅に下回っている。典型的な『夢の搾取型地下構造』ですね。よく二年間も餓死せずに生き延びられましたね」
「ぐっ……!」
的確すぎる痛烈な刃が、美咲の胸にグサグサと突き刺さった。初対面の年下にここまでズバズバ言われる筋合いはないが、数字を出されると一言も言い返せない。
「な、なんなのよ生意気な! こっちは現場で泥水すすってチェキ撮り続けてきたの! 数字だけでアイドルの汗がわかるわけないでしょ!」
「汗に価値はありません。価値があるのは、その汗が『誰に、どんな付加価値を提供し、いくらの対価を生み出したか』だけです」
「キーッ! 可愛げがない!!」
美咲が髪を振り乱して抗議したその時――キッチンの奥の引き戸が、バーンと勢いよく開いた。
「はーいっ! ご飯炊けましたよーーーっ!!」
現れたのは、巨大な花柄のエプロンをつけた、小柄な少女だった。 くりくりとした大きな瞳に、ふんわりとした茶髪のツインテール。両手には、湯気をもうもうと立ち上らせる巨大な寸胴鍋を抱えている。
「あ、美咲さんですか!? 初めまして! 一ノ瀬ひまりです! 長野の農家から出てきました、十九歳です!」
ひまりは鍋をアイランドキッチンのコンロにドスンと置くと、満面の笑みで美咲に駆け寄ってきた。その手には、巨大な木べらが握られている。
「お腹空いてますよね!? お引越し、重い荷物持って大変だったでしょ! 実家の畑からお父ちゃんが送ってくれた信州味噌と根菜で、豚汁作ったんです! 炊飯器のご飯も五合炊いてありますから、いっぱい食べてくださいね!」
「と、豚汁……? 五合……?」
「はい! 琴乃ちゃんたら、パソコンばっかりカタカタ叩いてお昼ご飯も食べてくれないから心配してたんです! ほら、琴乃ちゃんもパソコン置いて! ご飯冷めちゃうよ!」
「一ノ瀬さん、私は今、エクセルで減価償却のシミュレーションを……」
「ご飯のほうが大事です! 脳みそに糖分が行かないと、いい計算もできません!」
ひまりはぐいぐいと琴乃の手を引っ張り、手際よく大きなお椀に豚汁をよそい始めた。 ゴロゴロと入った大根、人参、ごぼう、豚バラ肉。立ち上る味噌と出汁の香ばしい匂いに、美咲の胃袋が「ぐううぅぅぅ」と情けない大音量で鳴り響いた。
「あはは! 美咲さん、素直なお腹ですね! さあさあ、座って座って!」
あまりの怒涛の展開と、太陽のようなひまりの温かさに、美咲のトゲトゲしていた心が急速にほどけていく。 超絶知性派の皮肉屋と、底抜けにお人好しな農家の娘。 どうやら、美咲のこれからの仲間たちは、想像以上に強烈な曲者揃いらしい。
4
「三人とも、揃ったようですね」
三人がテーブルに並んだ豚汁と白米に手を合わせようとした瞬間、リビングのドアが静かに開き、スーツ姿の桐生が現れた。 手には、クリップボードと三冊のファイルが握られている。
「桐生さん! ちょうどよかったです、桐生さんの分も豚汁ありますよ!」
ひまりが嬉しそうに立ち上がると、桐生は柔らかく微笑んで手を挙げた。
「ありがとう、一ノ瀬さん。ですが、食事の前に五分だけ時間をください。これからこのレジデンスで暮らすにあたり、皆さんに守っていただく絶対のルールを説明します」
桐生はテーブルの端に立ち、三人の顔をゆっくりと見渡した。
「まず、このレジデンスの設備についてです。地下には二十四時間防音のダンススタジオとレコーディングルーム。二階には皆さん一人ひとりに、防音と鍵付きの完全個室を用意してあります。Wi-Fi、光熱費、設備の利用料はすべて事務所が全額負担します」
「本当に……夢みたいです」
美咲が呟くと、桐生は表情を引き締め、人差し指を立てた。
「しかし、勘違いしないでください。ここは甘やかされたアイドルのためのリゾートホテルではありません。我が事務所の第一原則――『家政婦やお世話係は、一切雇いません』」
「えっ?」
ひまりが首を傾げ、美咲が目を丸くする。
「炊事、洗濯、掃除、ゴミ出し、日用品の買い出し。この建物におけるすべての家事は、三人で当番を決め、すべて自分たち自身で行っていただきます」
桐生の言葉に、琴乃が静かに眼鏡の位置を直しながら口を開いた。
「桐生さん。質問です。あなたの資産規模からすれば、月数十万円でプロのハウスキーパーを雇うことなど容易なはずです。なぜあえて、私たちの時間を家事に割かせるのですか? 機会費用の観点から非効率ではありませんか?」
「鋭い指摘ですね、白石さん」
桐生は頷き、ホワイトボードの前に歩み出た。
「理由は明確です。これもすべて、『あなたがたが一人の人間として、一生自立して生きていくための必須スキル教育』だからです」
桐生はマーカーを手に取り、ホワイトボードに大きく三つの文字を書いた。
『生活力の欠如は、人生の破滅を招く』
「芸能界にはびこる最大の病理は、十代の少女たちに家事の一切をやらせず、チヤホヤしてお世話係をつけ、『歌って笑うことしかできない無能な大人』に育て上げてしまうことです。掃除もできない、ゴミの分別も知らない、自炊もできず毎日コンビニ弁当を食べる。そんな人間が、三十代になって放り出された時、どうなると思いますか?」
美咲は息を呑んだ。 前のグループにもいた。ファンから貰った高い服を着て、部屋は足の踏み場もないゴミ屋敷。食生活が荒れて肌がボロボロになり、最後は体調を崩して消えていった仲間が。
「自炊は、最高の原価管理と栄養学の実践です。一週間の食費予算を決めてスーパーで買い物をし、食材を無駄なく使い切る。それはそのまま、将来あなたが個人ビジネスを持つ時の『予算管理』や『仕入れの感覚』に直結します。部屋を清掃し、身の回りを清潔に保つことは、自己管理能力そのものです。生活が破綻している人間に、持続可能な事業など起こせるはずがありません」
桐生の熱のこもった言葉に、ひまりが深く何度も頷いた。
「わかります……! うちのお母ちゃんも言ってました。『ご飯が作れて、自分のパンツが洗えれば、人間どこに行っても生きていける』って!」
「その通りです、一ノ瀬さんのお母様は素晴らしい教育者ですね」
桐生は微笑み、話を続けた。
「日々のスケジュールについて確認します。平日の日中――朝九時から夕方十七時までは、プロのアイドルとしての集中業務時間です。ボイストレーニング、ダンスレッスン、ミーティング。これは会社の正規労働時間として厳格に管理します」
そして桐生は、三人の目を真っ直ぐに見つめた。
「そして、十七時以降の終業後、および土日の休日。これはすべて、あなたがたの『プライベートの時間』です。この時間を使って、家事を分担し、FPの勉強をし、そして自分自身の『将来の個人ビジネスの種』を育ててください。地下スタジオも、PCも、キッチンも、プライベートの研究や仕込みのために二十四時間自由に使って構いません。――自分の人生を切り拓く覚悟は、いいですね?」
「「「はいっ!!」」」
三人の声が、重なるようにリビングに響き渡った。 反発していた美咲も、理屈っぽかった琴乃も、天真爛漫なひまりも、その瞬間、同じ目配せを交わしていた。 誰一人として、甘ったれた気持ちでここに来た者はいないのだ。
「では、説明は以上です。冷めないうちに、一ノ瀬さんの豚汁をいただきましょう」
5
「……う、美味すぎる……!」
食卓を囲んだ美咲は、豚汁を一口すすった瞬間、思わず涙ぐみそうになった。 根菜の優しい甘みと、濃厚な信州味噌。炊きたてのツヤツヤの白米をかきこむと、身体の芯から温かいエネルギーが満ちてくるのを感じた。 コンビニの冷たいおにぎりや、百円のカップ麺ばかり食べていた美咲にとって、それは何ヶ月ぶりかの「本物の食事」だった。
「ひまりちゃん、これ本当においしい! 神様なの!?」
「えへへ、よかったです! 実家から野菜はいくらでも送ってもらえますから、これから毎日作りますね!」
「一ノ瀬さん、この豚汁の材料費は一杯あたり約四十八円です。市販のカップスープが百五十円することを考えれば、約三分の一のコストで約三倍のビタミンと食物繊維を摂取できています。非常に優れたコストパフォーマンスです」
「琴乃ちゃん、数字ばっかり言ってないで、ほら、もっと人参食べて!」
「……私は人参の青臭さがやや苦手なのですが」
「はい、あーん!」
「ちょ、口に押し込まないでください……っ!」
テーブルの上で繰り広げられるドタバタ劇に、美咲は思わず吹き出してしまった。 一人きりの四畳半で、天井の染みを数えていた昨日の夜が、遠い昔のことのように思える。
夕食の後、三人は早速ジャンケンで家事当番を決めた。 今日の皿洗いは美咲、明日の朝食の準備はひまり、リビングと廊下の掃除機がけは琴乃。それぞれが分担を終え、二階の自室へと引き上げていった。
ガチャリとドアを閉め、美咲は自分の部屋を見渡した。 八畳ほどの洋室。白い壁に、新品のクローゼットと学習机。そして部屋の中央には、ふかふかの羽毛布団が敷かれたセミダブルのベッドが置かれていた。
「……私の、部屋」
美咲はベッドの上にダイブした。 吸い込まれるように柔らかいシーツの感触。天井には染みひとつなく、窓の外からは世田谷の静かな夜風がカーテンを揺らしている。
机の上には、昼間手渡された『FP3級』のテキストと、ノートとペンが綺麗に並んでいた。 壁のコルクボードには、さっき三人で書いた家事当番表と、明日からのレッスン時間割が貼られている。
美咲はベッドの上で寝返りを打ち、スマートフォンの画面を開いた。 手帳アプリの目標欄に、新しい文字を打ち込む。
『二十歳。今日からスタート。 三十歳まで、アイドルも勉強も全部全力。 三十五歳までに、最高の笑顔で結婚する!』
「やってやろうじゃないの」
消灯した部屋の中、美咲はシーツを胸元まで引き上げた。 明日から、地獄のように忙しくて、最高に熱い日々が始まる。 美咲の胸の奥底で、小さな、けれど決して消えない希望の火が、パチリと音を立てて燃え上がっていた。




