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一生、推してくれますか?  作者: 咲夜


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3/3

初めての家計簿とボイストレーニング

1


「――ストップ! そこ、橘さん! また喉で叫んでる! ここはロックフェス会場じゃないのよ!」


 地下の防音ダンススタジオに、女性講師の鋭い怒声が響き渡った。  壁一面の巨大な鏡の前、全身汗だくの美咲は、思わず胸を押さえてその場に立ち止まった。荒い息が喉を焼き、肺が張り裂けそうだ。


「す、すみません……っ!」


「謝る暇があったら横隔膜を意識しなさい! 地下アイドル時代の悪い癖ね。マイクの音響が悪い箱で無理やり客席の奥まで声を届けようとするから、喉の筋肉だけでがなり立てるような発声になるのよ。そんな歌い方、二十代半ばでポリープができて声が出なくなるわ!」


 容赦ない指導を浴びせるのは、桐生が外部から招聘した一流のボイストレーナー・神崎(かんざき)だ。数々のメジャーアーティストを育ててきた業界屈指のプロフェッショナルである。  朝の九時。世田谷レジデンスの地下スタジオに集合した三人を待っていたのは、想像を絶する基礎訓練の嵐だった。


「はい、最初からもう一度! 白石さん、息が浅い! 体幹がブレてるわよ!」


「は、はいっ……ぐ、うぅ……っ!」


 神崎の視線の先では、黒いレギンス姿の白石琴乃が、生まれたての子鹿のように足をガタガタと震わせていた。額からは滝のように汗が流れ落ち、青白い顔は今にも気絶しそうだ。  頭脳明晰でエリート進学校出身の琴乃だが、体力と筋力は文字通り「文化系インドア派の底辺」だった。腹式呼吸のドローインを三十秒キープしただけで、床に手をついてゼエゼエと喘いでいる。


「琴乃ちゃん、大丈夫!? はい、お水!」


「あ、ありがとう、一ノ瀬さん……っ。ですが、運動生理学的に見て、私の心拍数は現在百六十を超えており……明らかに致死量です……」


「大げさ言わないの! ほら、息吸ってー!」


 ひまりがタオルを渡しながら励ます。  この中で唯一、平然とした顔で発声練習をこなしていたのがひまりだった。長野の広大な農地で、毎日トラクターのエンジン音に負けない大声で親の手伝いをし、山坂を駆け回っていた彼女の体幹と肺活量は、すでにアスリート並みだったのだ。神崎も「一ノ瀬さんは素材が一級品ね」と目を細めていた。


「橘さん、体力とガッツだけは認めるわ。でも歌は気合じゃない、精密な筋肉のコントロールよ。もう一回、スケール発声からやり直すわよ!」


「はいっ!」


 午前中の発声練習、午後のダンスステップの基礎反復。  鏡に映る自分たちの不格好な姿に歯を食いしばりながら、三人は必死に食らいついた。美咲のふくらはぎはパンパンに張り、琴乃は何度も床に崩れ落ち、ひまりは満面の笑みで二人を引っ張り上げた。


 そして――スタジオの壁にかけられた時計の針が、十七時を指したその瞬間だった。


 パチ、パチ、パチ。


 スタジオの扉が開き、スーツ姿の桐生が静かに拍手をしながら入ってきた。


「はい、十七時です。皆さん、本日の業務時間はここまでです。神崎先生、ありがとうございました」


「え?」


 美咲が床にへたり込みそうになりながら、時計を二度見した。


「あ、あの、桐生さん……もう終わりですか? 居残り練習とか、ステップの復習とかは……」


「ありません。労働基準法に基づき、本日の会社業務としての労働時間は終了です。すぐにシャワーを浴びて、しっかりアイシングとストレッチをしてください。プロの仕事は、休養も含めてプロなのですから」


 ダラダラとした深夜までの居残りも、理不尽な精神論も一切ない。  地下時代、深夜二時まで薄暗いレッスン室で怒鳴られ続けていた美咲にとって、それは信じられないほどクリーンで、徹底された「プロの現場」だった。


2


 夕方十八時。汗を流してすっきりした三人は、一階のアイランドキッチンに集まっていた。


「さーて! 今夜の夕食当番は美咲さんと私ですね!」


 花柄のエプロンをキュッと結び、ひまりが冷蔵庫をオープンする。  キッチンカウンターの上には、桐生から渡された本日のミッションが書かれたメモと、五百円玉がひとつ置かれていた。


『本日の夕食ミッション:三人分の合計予算五百円以内。栄養バランスを考慮した主菜と副菜を作ること』


「ご、五百円……!? 三人分で!?」


 美咲は目を白黒させた。  一人あたり約百六十六円。コンビニでおにぎりとペットボトルのお茶を買っただけで吹き飛ぶ金額だ。


「無理でしょこれ! もやしだけ炒めて塩かけて食べるしかないじゃん!」


「ふふふ、甘いですよ美咲さん! 主婦と農家の知恵を舐めてはいけません!」


 ひまりは腕まくりをすると、買い物カゴから手際よく食材を取り出した。  近所のスーパーの見切り品コーナーで買ってきた、特売の鶏むね肉一枚(百八十円)。木綿豆腐一丁(三十八円)。もやし一袋(二十円)。小松菜一束(七十八円)。実家からタダで届いた長野の玉ねぎと卵。


「鶏むね肉は皮を外して細かく刻み、水切りした豆腐と玉ねぎを混ぜて、かさ増しハンバーグにします! 調味料はお家にある醤油とみりんと酢で甘酢ダレを作って、マヨネーズと刻み玉ねぎの特製タルタルをかければ……『絶品チキン南蛮風・豆腐ハンバーグ』の完成です!」


「す、すごい……! めちゃくちゃ美味しそう!」


「美咲さんは小松菜ともやしを茹でて、胡麻和えにしてください! あと、スープはハンバーグで使わなかった鶏皮からダシを取ってワカメスープにします。捨てるところなんてひとつもありませんよ!」


 ひまりの的確すぎる指示のもと、美咲は生まれて初めて本格的な調理に挑んだ。  包丁を握り、もやしの根元を揃え、フライパンでじゅうじゅうと香ばしい音を立ててハンバーグを焼き上げる。甘酸っぱいタレの香りがキッチンいっぱいに広がった。


 三十分後、テーブルには彩り豊かな大皿が並んでいた。  ふっくらとジューシーに焼き上がった大きな豆腐ハンバーグが二個ずつ。小松菜の胡麻和え、黄金色の鶏皮スープ、そして炊きたてのご飯。


「……いただきます!」


 美咲が箸を伸ばし、ハンバーグを口に運んだ瞬間、目を丸くした。  外はカリッと香ばしく、中は信じられないほどふわふわでジューシー。甘酢と濃厚なタルタルソースが絡み合い、ご飯がいくらでも進む。


「な、なにこれ……! ファミレスのハンバーグより百倍うまいんだけど!?」


「えへへ、豆腐が入っているから高タンパクで低脂質、レッスンの後の筋肉の回復にも最高なんですよ!」


 向かいの席で、琴乃がノートパソコンの横にメモ帳を広げ、カチカチと電卓を叩いた。


「計算しました。食材費の合計は四百十二円。予算五百円に対し、八十八円の黒字です。一人あたりの原価は百三十七円。タンパク質は一人約二十八グラムを確保。……一ノ瀬さん、あなたの調理オペレーションとコスト管理能力は、飲食チェーンの仕入れ担当者並みに優秀です」


「もう、琴乃ちゃんたら! 数字の前に『おいしい』って言ってよ!」


「……非常においしいです」


 ボソリと呟いてハンバーグを頬張る琴乃に、美咲とひまりは顔を見合わせて笑い転げた。  一人あたり百三十七円。  コンビニの割高な弁当を買い、栄養も偏り、お金をドブに捨てていた過去の自分が、美咲はひどく恥ずかしく、そして遠い存在に思えた。


3


 夕食を片付け、時計が十九時を回った頃。  リビングのホワイトボードの前に、ラフなシャツ姿の桐生が現れた。  手には、三冊のノートと電卓が握られている。


「さて、ここからは皆さん自身の『プライベートの時間』です。第一回・人生防衛マネー講座を始めましょう」


 桐生がホワイトボードの前に立つと、三人は姿勢を正してソファに座り直した。


「美咲さん、まずはあなたから見せていただきましょうか。事前に書いてもらった、地下アイドル時代の『毎月のリアルな家計簿』です」


「うっ……! み、見せるんですか……?」


 美咲は顔を真っ赤にしながら、恐る恐るルーズリーフを桐生に差し出した。  桐生はそれをホワイトボードにマグネットで貼り付け、赤ペンを手に取った。


『橘美咲(当時19〜20歳)の平均月収支』 ・手取り収入:約43,000円(ライブバック・チェキ歩合) ・家賃:42,000円(実質ほぼ全額) ・食費:約25,000円(コンビニ、エナジードリンク、深夜Uber) ・美容・コスメ・衣装代:約15,000円 ・交際費・ファンへの手紙代等:約8,000円 ・使途不明金:約12,000円 ・毎月の収支結果:【大赤字(マイナス約60,000円)】 (※不足分はコンビニ夜勤バイトと、親からの仕送りで補填)


「……惨憺(さんたん)たる結果ですね」


 桐生の冷徹な一言に、美咲は頭を抱えてソファに沈み込んだ。


「うう……穴があったら入りたい……」


「典型的な『ラテマネー(無意識の使途不明金)』と、ストレスによる衝動買いの連鎖です。疲れたからと深夜のコンビニで買うスイーツ、移動中のカフェ代。一回数百円の出費が、チリも積もってあなたの人生の選択肢を奪っていた。あなたの財布は、底の抜けたバケツだったのです」


 桐生はホワイトボードに、大きくバケツのイラストを描いた。


「どれだけバケツに水を注いでも、底に穴が空いていれば一滴も残りません。だからこそ、今月から支給される固定給三十万円を、絶対に同じやり方で使ってはならないのです」


 桐生はペンを持ち替え、力強く二つの単語を黒板に書き殴った。


『新NISA』 『iDeCo(イデコ)』


「美咲さん、この二つの言葉を聞いたことはありますか?」


「えっ……? イデコと、ニーサ……? なんか、アニメの必殺技みたいな名前ですけど……」


 美咲が首を傾げると、隣の琴乃がすかさず眼鏡を押し上げながら口を開いた。


「新NISAは『少額投資非課税制度』、iDeCoは『個人型確定拠出年金』です。通常、株式投資や投資信託で得た利益には約二十パーセントの税金がかかりますが、新NISAはその運用益が無期限で完全非課税になります。一方のiDeCoは、掛け金が全額所得控除になり、毎年の所得税と住民税を劇的に圧縮できる公的制度です」


「その通り、完璧な説明です」


 桐生は満足そうに頷き、美咲に向き直った。


「美咲さん、我が事務所では、固定給三十万円が口座に振り込まれた瞬間、『給与の三割(約九万円)』を強制的に先取りして、この二つの制度に自動積立してもらいます」


「さ、三割も!? 九万円も投資に回しちゃうんですか!?」


「ええ。『余ったら貯金しよう』などと考えている人間は、一生お金など貯まりません。人間は、手元にあるお金をすべて使ってしまう生き物だからです。だからこそ、最初からなかったものとして、給料日に自動で別口座へ隔離するのです」


 桐生はホワイトボードに、二つの矢印を描いた。


「この二つの制度は、役割がまったく異なります。人生を守るための『二刀流』だと思ってください」


「二刀流……?」


「まず、新NISA。月々五万円から七万円をここに積み立てます。世界中の優良企業にまとめて分散投資する『全世界株式(オルカン)』などのインデックスファンドを自動で買い続ける。最大のメリットは、運用益が非課税なだけでなく、『いつでもペナルティなしで引き出せること』です」


 桐生は美咲の目を真っ直ぐに見つめた。


「これは、将来訪れるさまざまなライフイベントのための資金です。結婚資金、出産や子育ての費用、あるいは自分の個人事業を立ち上げるための開業資金。人生の転機が訪れるタイミングは人それぞれ違います。人生の勝負どころで、いつでも必要な時にペナルティなく使える強い味方になります」


「いつでも……引き出せるポケット」


「そして、もう一方のiDeCo。こちらには月々一万円から二万円を拠出します。iDeCo最大の武器は、掛け金の全額が所得控除になること。つまり、毎月積み立てるだけで、あなたが国に納めるべき税金が安くなるのです。ただし――iDeCoには、たった一つだけ強烈な縛りがあります」


 桐生は人差し指を立て、静かに言った。


「『原則として、六十歳になるまで絶対に一円も引き出せないこと』です」


「ろ、六十歳まで!? 絶対に引き出せないんですか!?」


「ええ。ですが、浪費癖のある人間にとって、これほど心強い金庫はありません。あなたがどんなに自暴自棄になろうと、どんな詐欺師に騙されそうになろうと、このお金だけは法律によって守られ、六十歳まで絶対に手を付けられない。『一生涯アイドル』として、定年後の老後資金を、二十歳の今から自前でガチガチにロックするのです」


 美咲はゴクリと唾を飲み込んだ。  いつでも引き出せる『新NISA』で三十代の結婚や夢を守り、絶対に引き出せない『iDeCo』で六十歳以降の人生を守る。  なんという計算だろうか。  桐生は、二十歳の美咲の足元から、六十歳を超えた老後の景色まで、すべてを盤石の盾で囲い込もうとしているのだ。


4


「さあ、理屈がわかったら、即座に行動です。三人ともスマートフォンとマイナンバーカードを用意してください。今からネット証券の口座開設と、iDeCoの書類請求を行います」


「えっ、い、今からですか!?」


「善は急げです。先延ばしにする人間に、資産など築けません」


 リビングのガラステーブルの上に、三台のスマートフォンが並べられた。  桐生の指示を受けながら、美咲は震える指先で大手ネット証券のサイトを操作した。画面の案内に沿ってマイナンバーカードを撮影し、本人確認の顔写真を認証させ、住所や生年月日を入力していく。同時に、iDeCoの加入申出書の郵送請求もタップひとつで完了させた。


 画面に『口座開設の申込を受け付けました』というグリーンのチェックマークが表示された瞬間、美咲は深い息を吐き出した。


「ふうぅぅ……! なんか、大人の階段を一気に十段くらい駆け上がった気分です……」


「お疲れ様でした。税務署や証券会社の審査がありますから、口座が開設されるまでに数日から一週間ほどかかります」


「ぜ、税務署の審査!? 私、脱税とか怪しいこと何もしてませんよ!?」


 美咲が目を丸くして慌てると、桐生はふっと口元を緩めた。


「脱税の取り調べではありませんよ。NISAは一人一口座しか持てない国の公的な非課税制度ですから、他の証券会社で二重に口座を作っていないかを税務署が一括で確認するんです」


「なるほど……国の特別な優遇だから、ちゃんと税務署がチェックするんだ……」


 美咲が納得して息を吐くと、桐生は手帳を取り出し、ホワイトボードの横に立ちながら続けた。


「無事に口座が開設されたら、ログインして真っ先に設定していただく銘柄があります。『eMAXIS Slim 全世界株式(オール・カントリー)』――通称『オルカン』です。これ一本で、アメリカ、日本、ヨーロッパ、新興国など、世界中の何千社もの大企業に自動で分散投資できます。積立日は、給料日の翌日の二十六日に設定してください」


「オルカン……! よし、忘れないようにスマホのメモに控えておきます! ……あ、桐生さん、もしかしてiDeCoのほうもオルカンを選べばいいんですか?」


「ええ、両方ともオルカン一本で構いませんよ」


 桐生は即答した。


「iDeCoには元本保証の定期預金や債券ファンドなどの選択肢もありますが、二十歳のあなたがたには、あと三十年から四十年という『超長期の時間』という最強の武器があります。一時的な相場の暴落があっても、長い目で見れば必ず世界経済とともに右肩上がりに成長していく。若いうちから過度に守りに入る必要はありません。NISAもiDeCoもオルカンに統一して、世界中の企業の成長の果実をフルに享受するのが、最もシンプルで力強い戦略です」


「理論的にも最適解です」


 隣で画面を見ていた琴乃が、深く頷いた。


「三十年以上の時間軸があれば、複利効果と株式のリターンが最大化されます。時間そのものが最大のリスクヘッジになりますからね」


「よーし、二刀流オルカン、完全に覚えました!」


「頼もしいですね。iDeCoの申込書類も一週間ほどで宿舎に届きますから、事務所の事業主証明書を添えて返送しましょう。これで来月から、あなたの資産形成は自動操縦モードに入ります」


 桐生は満足そうに微笑み、ホワイトボードのペンを置いた。


「日中はプロとして死ぬ気でレッスンに打ち込み、夜は生活を整え、自分の未来にお金を投じる。これを十年間続けた時、あなたがどんなに強靭で自立した女性になっているか……今から楽しみですね」


 時計の針は二十一時を指していた。  マネー講義を終えた三人は、それぞれの部屋へと戻っていった。


 自室に入り、美咲はクローゼットからパジャマを取り出して着替えた。  筋肉痛の始まった脚をさすりながら、机の上の『FP3級』のテキストを開く。昼間はチンプンカンプンだった「非課税制度」「所得控除」という文字が、今は驚くほど身近なものとして目に飛び込んできた。


 ノートを開き、最初のページにペンを走らせる。


『・新NISA:結婚や事業など、将来のライフイベント資金(流動性◎、非課税)  ・iDeCo:60歳からの老後年金(節税◎、強制ロック)  ・給料の3割は最初からなかったものとして生きる!』


「……穴の空いたバケツは、もう卒業」


 美咲はペンを置き、ベッドに倒れ込んだ。  全身の筋肉がズキズキと痛む。明日も朝九時から、神崎の地獄のボイトレが待っている。  けれど、四畳半のアパートで将来に怯えていたあの冷たい夜とは、まったく違う。


 壁の向こうから、琴乃の部屋のキーボードを叩く規則正しい音と、ひまりの部屋から微かに聞こえるストレッチの掛け声が伝わってきた。  一人じゃない。  歌う仲間がいて、温かいご飯があって、守るべき未来の盾がある。


 美咲はふかふかの枕に顔を埋め、深く、満ち足りた眠りへと落ちていった。

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