契約書とFPテキスト
1
スマートフォンが冷たく振動し、無機質な明朝体の文字が網膜を焼いた。
『厳正なる審査の結果、誠に残念ながら今回はご希望に添えない結果となりました。なお、本オーディションの応募規定は十九歳までとなっております。今後のご活躍を心より――』
「はいはい、ご活躍ご活躍。テンプレ感謝、お祈りどうも」
スマートフォンの画面を伏せ、橘美咲は天井の染みに向かって盛大なため息を吐き出した。 築三十五年、風呂・トイレ別だが四畳半の木造アパート。壁は薄く、隣の住人が観ている深夜バラエティ番組の笑い声が微かに響いてくる。部屋の隅には、先月解散した地下アイドルグループ『シャイニング☆ベリーズ』の在庫の山が鎮座していた。段ボール箱三つ分。中身はすべて、売れ残った美咲の生写真とアクリルキーホルダー、そしてサインの入っていないランダムチェキだ。
「これ、メルカリに出しても送料で赤字なんだよね……」
ため息の代わりに、乾いた呟きが零れ落ちる。 美咲は畳の上に転がっていた銀行の通帳を開いた。 最後に印字された残高の数字は、【4,210円】。 今月末の家賃は四万二千円。あと十日で四万円近くをどこからか捻出しなければ、美咲はこのボロアパートすら追い出されることになる。
「二十歳、職歴なし。最終学歴、高卒。資格欄……英検四級」
美咲は両手で顔を覆った。 十八歳で地方の高校を卒業し、「絶対に武道館に立ってやる」と夢だけをトランクに詰め込んで上京した。それからの二年間、青春のすべてを地下アイドルの活動に捧げてきた。 チケットを手売りし、週に五日は薄暗いライブハウスの舞台に立ち、週末は六時間ぶっ通しでチェキを撮り続けた。真夏の炎天下でビラを配り、真冬の寒空の下で凍える手でペンを握った。 だが、現実は残酷だった。 事務所の社長はある日突然、集客の悪さと資金難を理由にグループの解散を告げ、給料の未払い分を抱えたまま夜逃げした。手元に残ったのは、擦り切れたスニーカーと、使い古した衣装と、空っぽの銀行口座だけ。
「若い頃はさ、『努力は必ず報われる』なんて信じてたのになあ」
笑えない自嘲が漏れる。高校生の頃は、どんな理不尽も「いつかのサクセスストーリーの伏線」だと思えた。だが二十歳になった今、世間の目は冷たい。一般的な大手アイドルオーディションは十代前半の原石ばかりを求め、二十歳はすでに「出遅れた元地下アイドル」として色眼鏡で見られる数字だった。同世代の友人たちが大学のキャンパスライフを謳歌したり就職活動を始める中、美咲は取り残されていた。 コンビニの夜勤バイトで食いつなぎながら、履歴書の「自己PR」の欄を前にしてペンが止まる。 「笑顔で元気を与えること」――そんなものは一円の価値にも換算されない。
その時、スマートフォンの画面が再び光った。 通知バーに表示されたのは、深夜の自暴自棄なテンションで応募した、とある芸能事務所からのメッセージだった。
『一次書類選考通過のお知らせ:株式会社Life-Long Entertainment』
美咲は体を起こし、目を擦りながら文面を凝視した。 募集要項には確か、こう書かれていたはずだ。 【新規アイドルプロジェクト立ち上げメンバー募集。年齢不問。固定給三十万円支給。都内宿舎完備。ただし、強い覚悟のある方に限る】
「……怪しすぎる」
どう考えても詐欺か、あるいは裏社会の怪しい仕事の勧誘にしか見えない。まともな芸能事務所が、実績もない二十歳に「固定給三十万」など出すはずがないのだ。 だが、美咲の通帳残高は四千二百十円。 生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた人間にとって、毒リンゴであろうと目の前に差し出された果実に手を伸ばさない選択肢はなかった。
「取られるような金もないし、失う名誉もない。……行ってやろうじゃないの」
美咲は立ち上がり、唯一持っている一番小綺麗に見えるブラウスにアイロンをかけ始めた。
2
指定された面談場所は、新宿にある高級シティホテルの最上階ラウンジだった。 ガラス張りの巨大な窓からは東京の摩天楼が一望でき、かすかに流れるピアノの生演奏と、高級なアールグレイの香りが漂っている。一杯千八百円のコーヒーのメニュー表を見て、美咲は喉がカラカラに渇くのを感じていた。
「橘美咲さんですね。お待たせして申し訳ありません」
かけられた声に振り向くと、そこには一人の男性が立っていた。 年齢は三十代半ばほど。体に自然と馴染んだ仕立ての良いネイビーのスーツを着ているが、ネクタイは締めず、襟元をほどよく開けている。整った顔立ちには知的な落ち着きがあり、億単位のビジネスを動かしているエリート特有の、静かで揺るぎないオーラを纏っていた。
「あ、はい! 橘美咲です! 本日はよろしくお願いします!」
染み付いた地下アイドル特有の元気すぎる挨拶をしてしまい、美咲は内心で舌を出した。周りのセレブたちがチラリとこちらを見ている。 だが、男は嫌な顔一つせず、穏やかに微笑んで向かいの革張りソファに腰を下ろした。
「ライフ・ロング・エンターテインメント代表の、桐生創です。楽にしてください。ここは面接というより、お互いの意思確認の場ですから」
桐生はウエイターに軽く合図し、美咲の分のアフタヌーンティーセットを手際よく注文した。運ばれてきた三段の銀のスタンドには、宝石のようなスコーンやサンドイッチが並んでいる。腹が鳴りそうになるのを美咲は必死に堪えた。
「早速ですが、橘さん。あなたの過去のライブ映像、すべて拝見しましたよ」
桐生が取り出した薄型のタブレットには、美咲が過去に出演した地下ライブの動画が表示されていた。薄暗い照明、スマートフォンで撮影された粗い画質。最前列でわずか数人のファンが叫んでいる中、美咲は汗だくになりながら必死に笑顔を作っていた。
「……恥ずかしいです。歌もダンスも、メジャーのアイドルに比べたら全然下手くそですし」
美咲が俯くと、桐生は画面を見つめたまま、静かに首を横に振った。
「技術なら、これから一流のプロをつけていくらでも磨けます。私が惹かれたのはそこではありません。あなたの目です」
「目……ですか?」
「ええ。あなたは、客席に五人しかいなくても、まるで東京ドームの真ん中に立っているかのように歌っていた。ただ可愛く見られたいんじゃない。『ここで生き抜いてやる』という、泥臭いまでの気迫と執念が宿っている。今の綺麗なだけのアイドルには絶対に真似できない、本物の熱量です」
その言葉は、美咲の胸の奥深くにストンと落ちた。 過去二年間、誰も美咲の「泥臭さ」など褒めてはくれなかった。「もっと愛嬌を振りまけ」「若さが足りない」「もっとファンに媚びろ」――そう言われ続けてきたのだ。 鼻の奥がツンと熱くなるのを、美咲はコーヒーカップを口に運ぶふりをして誤魔化した。
「だからこそ、橘さん。あなたを私たちのプロジェクトの初期メンバーとしてお迎えしたい」
「……えっ?」
「合格です。私たちはあなたを求めています」
3
あまりのトントン拍子に、美咲の頭の中で警報が鳴り響いた。 冷静になれ、橘美咲。世の中にそんなうまい話があるはずがない。ここからが本番だ。高額なレッスン費用を請求されるか、怪しい投資の勧誘をされるか、どちらかに決まっている。
「あの……桐生さん。募集要項に書いてあった条件って、本当なんですか? 月給三十万円とか、宿舎とか……」
「もちろん、すべて事実です」
桐生は革の鞄から一束の書類を取り出し、テーブルの上に置いた。
「これが雇用契約書です。月額固定給三十万円、各種社会保険完備。都内・世田谷にある自社保有の宿舎(個室)を無償貸与。光熱費・レッスン費・衣装代・遠征費はすべて事務所が全額負担します」
提示された書類には、確かに法的に非の打ち所のない契約条件がびっしりと印字されていた。
「この三十万円の固定給は、原則としてアイドル活動――ライブのチケットや公式グッズ、配信やメディア出演などの売上から支払われる基本給です。もちろん、結成したばかりの当面は売上が給料に届きませんから、完全に私の私財からの持ち出し、先行投資になりますがね。この固定給は、プロスポーツ選手のように『前年の活動実績と売上』に応じて毎年増減改定されます。グループの人気が出て売上が伸びれば、実績に応じて五十万、百万とどんどん引き上げていきます」
桐生は契約書の別の項目を指差した。
「また、我が事務所は労働基準法を厳格に遵守します。レッスンやライブ、公式の業務時間はすべて労働時間として管理し、上限を定めています。地下アイドルのような無制限の深夜拘束や過労は、うちでは絶対に認めません」
月給三十万。家賃ゼロ。社会保険完備。業績連動改定。そして、芸能界ではあり得ないはずの「労基法遵守」。 それは、美咲がずっと夢見て、一度たりとも手に入らなかった「人間らしい文化的な生活」そのものだった。
「……なぜ、ここまでしてくれるんですか?」
美咲は桐生の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「失礼ですけど、私は高校を出て地下アイドルを二年間やって挫折した、ただの二十歳です。大学にも行ってないし、資格も特技もない。若い子を安く使い捨てたほうが、芸能事務所としては絶対に儲かるはずです。何か裏があるんじゃないですか?」
美咲の問いかけに、桐生は満足そうに口元を緩めた。
「素晴らしい警戒心です。その現実的な視点を持っていることこそ、私があなたを選んだ最大の理由ですよ」
桐生は背筋を正し、鞄からもう一つの「ある物体」を取り出した。 契約書の隣に、ドスンと重たい音を立てて置かれたそれを見て、美咲は目を白黒させた。
それは、ピンクと黄色で派手に装飾された、分厚い資格試験の参考書だった。
『スッキリわかる! FP3級 テキスト&問題集』
「……は?」
思わず、間抜けな声が口から飛び出した。 高級ホテルのラウンジ、目の前には超好待遇の芸能契約書、そして――なぜかFP技能士の参考書。意味がまったく繋がらない。
「桐生さん、これ……なんですか?」
「見ての通り、お金の勉強をするための教科書です」
桐生は何食わぬ顔で言った。
「我が事務所に所属するにあたり、あなたには二つの絶対的な条件を守っていただきます」
桐生は人差し指を一本立てた。
「一つ目。『原則として、引退および脱退は認めないこと』」
「……はい?」
「一般的なアイドルグループは、数年で『卒業』という美名のもとにメンバーを入れ替えます。ですが、うちは違います。一度所属した以上、三十歳になっても、四十歳になっても、おばあちゃんになっても、あなたにはこの事務所のアイドルとして籍を置き続けてもらいます」
「引退……禁止? 一生、アイドルをやれってことですか!?」
「ええ。ステージの上で歌い踊ることだけがアイドルの仕事ではありませんからね。そして、二つ目」
桐生は立てた指を二本にした。そして、テーブルの上のFPの参考書をコンコンと指先で叩いた。
「二つ目。『アイドル活動と並行して、お金と実業のスキルを身につけること』」
「……お金と、実業?」
「日中はプロのアイドルとして、徹底的にボイストレーニングやダンスレッスン、体づくりや表現力を磨いていただきます。そして、夕方の終業後――プライベートの時間や休日を使って、自分自身の『生きる武器』を見つけ、育ててもらいます。まずは全員共通の教養として、半年以内にこのFP3級の基礎を身につけていただきたいと考えていますが――」
桐生は穏やかな眼差しで、美咲を見つめた。
「FP3級およびその先の実業スキルを含め、事務所が一方的に押し付けるつもりはありません。簿記、Webデザイン、プログラミング、マーケティング、調理師、語学、あるいは何かのビジネス……いろいろなものに挑戦して、失敗しながら、あなた自身の手で見つけてください」
「自分で……見つける?」
「ええ。本人の興味や情熱が伴わないスキルなど、身につきませんからね。それに、武器は一つに絞る必要もありません。二つでも三つでもいい、得意なものを掛け合わせればいいんです。そして『私はこれを極めたい』というものが見つかった時は、どんな分野であれ、スクール費用も教材費も資格の受験料も、事務所が全額投資して全力でバックアップします」
桐生は人差し指を立て、悪戯っぽく微笑んだ。
「そして、ここからが一番重要です。あなたがアイドル活動以外の個人事業――たとえばプログラミングの受託、Webデザイン、手料理や特産品の販売、ライティングなどで得た収入は、一円たりとも事務所は中抜きしません。すべて全額、あなた自身の個人の収入として計上して結構です」
「……は、はい!? 事務所がピンハネしないんですか!?」
「当たり前でしょう。あなたが自分の頭と腕で稼ぎ出した大切なお金です。事務所がいただくのは、あくまでアイドル活動で生み出された正規のマネジメント料のみ。自分の事業で稼いだお金は、すべて自分の口座に貯め込み、資産運用に回してください」
桐生は身を乗り出し、美咲の瞳を覗き込んだ。
「もちろん、アイドル活動としての拘束時間は労働基準法で厳格に上限を定めていますから、事業のスキルアップや作業はあなたの『プライベートの時間』を使って進めていただくことになります。スタジオの無償利用や機材の貸出、費用のバックアップは事務所が全面支援しますが、決して強制はしません。そして――これこそが、我が事務所の最大の戦略です」
「……戦略?」
「将来、あなたが結婚や出産を選び、アイドル活動の稼働をセーブすれば、前年実績に応じて事務所からの固定給は当然減額されます。ですが、アイドルとして全力で走っている今のうちから『個人ビジネスの種』を仕込んでおけばどうなると思いますか?」
美咲はハッと息を呑んだ。
「固定給が減っても……自分の事業の稼ぎが伸びていれば、トータルの収入は減らない……?」
「その通りです。減らないどころか、何倍にも増えるかもしれない。アイドルという看板があるうちにファンと信頼を築き、自分の商品や技術を磨いておく。そうすれば、ステージを一時的に離れても、お金に困ることは未来永劫ありません。だからこそ、今から勉強して種を蒔くんです」
美咲の思考回路が完全にショートした。 引退が禁止で、固定給が出て、労基法で労働時間が守られ、自分の事業をプライベートで育てさせてくれて、将来の出産や減給への対策まで最初から計算されている? ホワイト企業とかいうレベルではない。この男は、アイドル・橘美咲の「人生そのもの」をプロデュースしようとしているのだ。 目の前にいるこの男は、一体何を考えているのだろうか。
4
「冗談……ですよね?」
「私はビジネスにおいて、一度も冗談を言ったことはありません」
桐生の目はどこまでも真剣だった。ふざけている気配は微塵もない。
「橘さん、あなたはなぜ、前のグループを解散することになったと思いますか?」
「それは……事務所の資金繰りが悪化して、社長が夜逃げしたからです」
「では、なぜ事務所の資金繰りが悪化したと思いますか? 答えは簡単です。『目先のグッズとチェキの売上』だけに依存した、搾取型のビジネスモデルだったからです」
桐生は冷めた紅茶を一筋口に含み、静かに語り始めた。その声には、冷徹な分析と、奥底に秘められた激しい怒りが滲んでいた。
「現在のアイドル業界は狂っています。十代の少女たちの純粋な夢と若さを吸い尽くし、二十代半ばを過ぎれば『卒業』という体裁で社会に放り出す。しかし、彼女たちの履歴書に残るのは、空白の年月と『職歴なし』の四文字だけだ。基礎的な金融知識もなければ、社会人としてのスキルもない。結果として、貧困に喘ぎ、悪質な夜職や詐欺まがいのビジネスに巻き込まれて消息を絶つ元アイドルが、この国にどれほどいるか知っていますか?」
美咲の胸がズキリと痛んだ。 かつて同じステージに立っていた仲間たちの顔が脳裏をよぎる。グループを辞めた後、夜の街に消えていった子、怪しい男に騙されて借金を背負った子。美咲自身、一歩間違えればそのルートを辿るところだったのだ。
「私はね、そんな使い捨てのシステムを根底からぶち壊したいんです」
桐生は身を乗り出し、美咲の瞳を射抜くように見つめた。
「アイドルを、消費されて終わる『消耗品』にしてはならない。自分の力で稼ぎ、自分のお金を守り、自分の人生を自立して歩める強い女性を育てたい。彼女たちが死ぬまでお金に困らず、胸を張って生きていける環境を作ること。それこそが、プロデューサーとしての私の責務です」
「桐生さん……」
圧倒的な熱量だった。 金持ちの道楽でも、怪しい詐欺でもない。この男は本気で、この残酷な業界の構造そのものと戦おうとしているのだ。 美咲の胸の奥底で、冷え切っていた何かが熱く疼き始めた。この人についていけば、本当に何かが変わるかもしれない。自分のような崖っぷちの人間でも、もう一度、胸を張ってステージに立てるかもしれない――。
「だからこそ、橘さん。あなたの第二の人生まで、老後まで、私がすべて責任を持ってプロデュースします」
「……はい! 私、やります! 歌もダンスも、そのFPってやつも、死ぬ気で勉強します!」
美咲が立ち上がりかけながら力強く頷くと、桐生は「素晴らしい」と満足そうに微笑んだ。 そして、何気ない口調でこう付け加えた。
「ああ、それともう一つだけ、大事なルールがありました」
「はい! なんでも言ってください!」
「我が事務所は、プロフェッショナルとしての自覚を保つため、三十歳までは完全恋愛禁止です」
「あ、はい、それは全然大丈夫です! 地下アイドル時代もずっとそうでしたし、そもそも男なんて作ってる暇ないですから!」
美咲が胸を叩くと、桐生は手帳を開きながら、極めて事務的なトーンで続けた。
「よろしい。二十歳のあなたが三十歳を迎えるまでの十年間――この十年間は、アイドルとしての鍛錬と、事業のためのスキルアップにすべての時間を注ぎ込んでいただきます。平日も休日もありません。平日のレッスンや業務はもちろん、休日も基本的に自分自身の事業を立ち上げ、育てるための活動にすべての時間を費やしてもらいます」
「十年間……!? 休日も事業活動!?」
「ええ。それだけの覚悟と時間を投じなければ、本物の武器など育ちませんからね。……その代わり、あなたが三十歳を迎えるまでに、将来『結婚や出産を希望するかどうか』を自分自身で決めておいていただきます」
「……は? 結婚……出産?」
「ええ。もしあなたが結婚や出産を望むのであれば、三十歳を超えた瞬間から、事務所が総力を挙げて婚活をあっせんし、全力で応援・バックアップします」
「…………はい?」
今度こそ、美咲の時が完全に止まった。 耳を疑うとはまさにこのことだ。
「えっ……いま、なんて? 事務所が婚活をあっせん?」
「ええ。もちろん、強制ではありません。結婚を選ばず、生涯独身で現役アイドルを貫くのもあなたの自由です。ですが――」
桐生は手帳を閉じ、真剣な眼差しで美咲を見つめた。
「女性の身体とライフプランを考えた時、特に出産にはどうしてもタイムリミットが存在します。現実から目を背けてがむしゃらに走り続け、気づいた時には手遅れで後悔した……そんな悲劇を、私は絶対に起こさせない。だからこそ、二十歳から三十歳までの十年間、すべての時間を捧げて自分を磨き上げ、三十歳になった時に自分の人生をどうしたいのか、しっかり決めておいてほしいんです。あなたが家庭を持つことを望むなら、提携する一流の結婚相談所やマッチング、身元確かなパートナー探しまで、事務所が全面的にお膳立てします。三十歳からじっくり婚活を進めれば、三十代半ばで幸せな家庭を築くことも十分に可能ですからね」
「ちょ、ちょっと待ってください!!」
美咲は思わずテーブルに両手を叩きつけた。カップの紅茶がチャポンと揺れる。
「二十歳から十年間すべての時間を捧げて、そのあと事務所のあっせんで婚活って、どういう人生設計ですか!?」
「何もおかしなことはありません。十年かけてアイドルとしての名声と、一生食いっぱぐれない事業と資産を手に入れた自立した女性。これほど魅力的な結婚相手が他にどこにいますか? 安心してください、もし結婚や出産をすることになってもグループを辞める必要はありませんし、結納金や結婚式の費用も事務所の福利厚生から一部補助が出ますから」
「福利厚生で結婚式!? おかしいでしょ、全部おかしい!!」
「何もおかしくありません。それに、我が事務所では、結婚や出産を『隠すべきスキャンダル』や『アイドルの終わり』とは捉えません」
「……えっ? 隠さないんですか?」
「ええ。コソコソ隠して週刊誌に暴かれるから、ファンは裏切られたと感じて傷つくんです。我が事務所では、結婚や出産という人生の一大イベントすらも、『アイドル活動の一環』として正面からファンに報告し、共に喜び、応援してもらうという方針を貫きます」
桐生は温かな眼差しで、美咲の目を真っ直ぐに見据えた。
「十年間、ファンを騙さず、全力で歌い、自立したプロとして生き抜いてきたあなたの人生です。その十年の絆の先にある結婚や出産を、共に歩んできたファンが祝福しないはずがありません。『人生そのものを推す』とは、そういうことです。もちろん、結婚や妊娠、育児の期間中は、日常のハードなライブ活動やメディア出演は思いきりセーブして構いません。家庭と子どもを最優先にしていただきます」
「……え、それじゃあ、結婚したら事実上の活動休止ってことですか?」
「いいえ。そこで完全に止めてしまったら意味がありません」
桐生は背筋を伸ばし、今日一番の厳格な眼差しを美咲に向けた。
「我が事務所の所属タレントは、家庭に入ろうと、子どもを産もうと、『原則として年に一回は、必ずファンのためにライブやメディア出演などの活動を行うこと』。これだけは、契約における絶対の鉄則です」
「年に……一回?」
「ええ。名前だけ籍を置いて一生ステージに戻ってこないなら、それは看板だけの幽霊部員……形を変えただけの事実上の引退と何ら変わりません。『一生涯アイドル』とファンに宣言したからには、どれだけライフステージが変わろうと、私たちは活動を絶対に止めない。一年に一度、愛してくれたファンの元へ必ず歌いに帰ってくる。それこそが、彼女たちの人生を応援してくれたファンに対する、プロとしての生涯の誠意です」
桐生の言葉に、美咲は息を呑んだ。 ふざけているどころか――誰よりもアイドルの尊厳と、ファンの想いの重さを分かっている。 結婚も出産も、隠さずにファンと分かち合い、年に一度必ずステージに帰ってくる。それはアイドルにとっても、ファンにとっても、どれほどの救いと誇りになるだろうか。
桐生は手元の契約書をトントンと揃え、高級な万年筆を机の端に置いた。 机の上に広げられた契約書の第十四条には、確かにこう印字されていた。
【第十四条(ライフプラン支援および生涯活動義務): 1.甲(事務所)は、乙(所属タレント)が満三十歳に達した際、本人の希望に基づき、健全かつ円滑な婚姻に向けた活動(以下「婚活」という)を無償で支援するものとする。 2.甲および乙は、婚姻、出産等のライフイベントを隠蔽せず、タレント活動の一環として誠実にファンへ報告し、相互の信頼に基づく生涯の応援関係を構築するものとする。 3.乙が婚姻、出産、育児等により日常業務を制限する場合であっても、原則として年1回以上、ファンに向けた公演またはメディア出演等のアイドル活動を行うものとする】
そして桐生は、どこまでも穏やかな笑みを浮かべて言った。
「もちろん、あなたのこれからの人生すべてに関わる重大な契約です。今すぐ決断しろとは言いません。契約書を持ち帰って、信頼できる人に相談し、一週間じっくり考えていただいて構いませんよ」
桐生の気遣いは、どこまでも紳士的だった。 急かすことも、サインを迫ることも一切しない。
――持ち帰って、考える?
美咲は膝の上で、ぎゅっとスカートを握りしめた。 持ち帰ったところで、自分に何があるというのだろう。 四畳半のボロアパートに積まれた、売れ残りのチェキの山。 通帳の残高、四千二百十円。 あと十日で迫る家賃の支払い。 世間からは二十歳ですでに「出遅れた元地下アイドル」と見限られ、自分の未来に一円の価値も見出せなくなっていた自分に――「お前の十年後も、老後まで面倒を見てやる」と言ってくれた人間が、これまでに一人でもいただろうか?
たとえそのやり方が、常軌を逸したお節介で、狂気じみた合理主義だったとしても。 ここでこの手を放してしまえば、自分に残されているのはコンビニの夜勤と、じわじわと沈んでいく転落人生だけだ。
「……持ち帰る必要なんて、ありません」
美咲は顔を上げ、机の上の万年筆に迷わず手を伸ばした。
「え?」
今日初めて、桐生の冷静な表情に微かな驚きが浮かんだ。 美咲は万年筆をしっかりと握りしめ、契約書の署名欄にペン先を突きつけた。
「……もう、どうにでもなれ!」
「橘さん?」
「わかりましたよ! やってやりますよ! 三十歳まで死ぬ気で歌って踊って稼ぎまくって、最高の男見つけて、三十代半ばで結婚してやりますよ!!」
「……!」
背水の陣の覚悟を込めて、契約書の署名欄に、勢いよく『橘美咲』の名前が刻まれた。 その瞬間、桐生は今日一番の深い笑みを浮かべ、美咲に向かって右手を差し出した。
「ようこそ、ライフ・ロング・エンターテインメントへ。明日から早速、宿舎に入居していただきます。まずは第一章、ライフプランニングと資金計画から始めましょう」
二十歳、崖っぷち元地下アイドル。 彼女の「一生涯アイドル」としての、破天荒すぎる第二の人生が、いま幕を開けた。




