17
今回はちょっと甘めです
風邪を引いた。
「37度7分……。今日は学校は駄目ですね。長谷川先生をお呼びいたしましょう」
私が産まれた頃からこの屋敷に使えているメイドさんが、体温計を見ながらため息をついた。
「だ、大丈夫……」
「大丈夫ではありません。5年生の時にも咳が酷かったのにそう言って、急性気管支炎で高熱が続きましたでしょう?」
「あれはただの風邪だと……」
「お嬢様の場合、ただの風邪でも危険なのです」
どうやら私の意見は参考にはされないらしい。諦めてフカフカの毛布を口元まで引っ張った。今日は学校でみんなと劇のストーリー考える予定だったのに……。
「お嬢様、何か欲しいものはありますでしょうか?」
「…… 蜂蜜を溶かしたお湯が飲みたい」
私が風邪を引いた時の定番の飲み物だ。メイドは『かしこまりました』とお辞儀をして、部屋を退出した。
「はぁ……」
最近は調子良かったのになぁと口をすぼめる。熱のせいで体はダルいし、頭はぼうっとする。これでまたお父様を心配させてしまうし、隼人にも気を使わせてしまう。そう思うと気が重い。
ベッドから起き上がって窓の外を見る。黒い車が一台、門から出ていった。きっと隼人だ。
「お嬢様!横になっていて下さい!」
大きな声にビクッと体を震わせる。振り返れば、もう蜂蜜入りのお湯を用意したメイドが帰ってきていた。
「……隼人様の事が、気になって」
「隼人様は先程学校にご登校なされました。放課後、お見舞に来てくださるそうですよ。ささ、ベッドに入って下さいませ」
メイドに促されて、渋々ベッドに潜り込む。差し出されたコップを手に取り、中身を飲む。
「……はぁ」
体が内側からじわっと暖かくなる。蜂蜜の甘味が口の中に広がった。
この飲み物は、前世の時私のお祖母ちゃんがよく作ってくれたものだ。蜂蜜は殺菌効果があるからって、風邪を引いた時はよく作ってくれたっけ。
「さぁ、長谷川先生が来られるまで、横になっていて下さいませ」
メイドさんに促されるまま、私はベッドに潜り込む。さっき起きたばかりだというのに、すぐに夢の中へと旅立ってしまった。
「……さま、……じょうさま、お嬢様」
「んぅ……」
もう、誰だよ。せっかく寝ていたのに。鬱陶しく思いながら、少しだけ目を開ける。私を覗き込んでいるのは、少し白髪が目立つ、中年の男性だった。
「……長谷川先生」
「起こしてしまい申し訳ありませんお嬢様。しかし、診察をしたいのでどうか起きてもらえないでしょうか」
優しく笑うこの中年の男性は、長谷川先生という小児科の先生だ。
どうやら有名な先生で、医者の中では結構名の知れた有名人らしい。
そんな長谷川先生は、私の健康を産まれた時から見てくれている。私にとってはとても信頼出来る先生なのだ。
「すみません、先生」
「いえいえ。ご心配には及びません。では、診察しますね」
長谷川先生は心音を聞いたり、血圧を図ったり、喉の奥を見たり、首元を触診していく。
「少し、いつもより血圧が低い程度ですね。何か違和感を感じることは?例えば、咳が多いとか、痰が出るとか」
「無いですわ。いつもと同じです」
「では、いつも通りの薬を出しますね。お辛いのに時間をかけてしまい申し訳ございません」
長谷川先生は私のおでこを触り、少しだけ顔をしかめた。
「……診察しているうちに、少し熱が上がってしまいましたかな」
「気にすることはありませんわ」
「また明日診察をしにきます。もうお昼を過ぎましたが、何か食べれそうですか?」
え、もうそんな時間?
時計を確認してみると、午後一時を回っていた。そんなに寝ていたのかと少し驚いた。
「どうしましょう……。お粥か何かを食べましょうか」
「そうですね。メイドの方々にお伝えしておきます」
「いつもありがとうございます、先生」
ベッドの上でペコリとお辞儀すると、長谷川先生は慌てて首を振った。
「お気になさらないでくださいお嬢様」
「でも、こんな風邪なだけでいつも呼び出されて、げんなりしてますでしょう?すぐに良くなるってみんなに言うのに、ちっとも聞いてくれないんですっ!」
わざとむくれてみせると、『しょうがないのでは?』と言って、私の頭を撫でてくれる。少し堅いふしくれた大きな長谷川先生の手は、私は結構好きだ。
「それだけ、お嬢様が大切だということです。お嬢様は体が弱いのですから、ご自愛なさってください」
それに、と長谷川先生は茶目っ気たっぷりに私ににっこり微笑んだ。
「私はここが好きですがね。ここなら、うるさく文句を言ってくる看護師もいませんしね」
「まぁ、先生ったら」
「さぁ、これ以上熱が上がってもいけない。ここいらで帰るといたします」
横になった私の頭を、長谷川先生はまた撫でた。
「ゆっくり療養してください、お嬢様」
それから私は少しだけお粥を食べて、薬を飲んだあと、泥のように眠り込んでしまった。
誰かが、優しく頭を撫でてくれてる。
「ん……」
微睡みながらうっすらと目を開ける。まだ体は風邪のせいでダルい。まだ寝ていたい。でも、誰が頭を撫でてくれているのだろう?お父様?長谷川先生?それとも……。
見覚えのある艶やかな黒髪に、思わず声が洩れる。
「はや、と……?」
黒髪のその人は、驚いたように動きを止め、笑った。
「どうした?芽衣香」
心地よい声色は、聞き慣れた隼人の声だった。
…………ん?
「え、隼人様!?」
慌てて飛び起きる。部屋の中を照らす日の光は真っ赤な夕暮れの色だ。きっと学校が終わってお見舞に来てくれたのだろう。
だからって、起こしてくれればいいのにっ!よだれとか大丈夫だよね!?
ワタワタと隼人と距離を取ると、隼人はさっきの蕩けそうな笑みを崩してムッとした。
「いらねぇ」
「え?」
「“様”はいらねぇ。隼人でいい」
「……で、でもですね……」
さっき隼人と呼んでしまったのは寝惚けていただけであって。『紫龍芽衣香』のイメージに合わないだろうから、出来ればやりたくないんだけど……。
「俺だって芽衣香って呼んでるんだから、隼人でいいだろ」
「その、でも私は隼人様と呼ぶことに慣れてしまっているので……」
「嫌だ」
問答無用だと私に詰め寄る隼人。思わず上半身を若干仰け反らせてしまった。
なんだか夕暮れといい、言い詰められていることといい、前のお仕置きを思い出してしまう。
「別にいいだろう?誰も咎めやしない」
「わ、私の気持ちの問題ですわ」
「そんなもんすぐ変わる」
「ひどっ!」
「……それに、隼人“様”だと、なんか、壁を感じるから、嫌だ」
恨めしげにこっちを上目使いで見てくる隼人に、うっ、となる。
なんだろう、ちょっと、なんか、背中がムズムズするというか、ソワソワするというか。
「……分かりましたわ、隼人」
「!!」
私も大人だ、妥協しようと折れてあげる。ぱっと顔を顔を上げる隼人の顔は、驚きと、嬉しさに溢れていた。
「芽衣香」
「はい」
「もう一回」
「隼人」
「もう一回」
「隼人」
「…………」
「……なんですかその顔は」
笑うのを堪えているように口をへにゃへにゃに歪ませて頬を上気させている隼人は、なんというか、隼人らしくない。ちょっと変顔に見え……、いや、これ以上は止めておこう。
「ま、まぁそれは置いといて、お前、体調はどうだ?」
こほんと咳払いをして話題を切り替えさせられる。むしろそっちが本題だよね普通。
「はい。長谷川先生にも看てもらいましたから、大丈夫ですわ」
「そうか……。お前のクラスのやつらも心配してたぞ。あとあの先輩も」
「そうですか……。では、早く治して、学校に行かなければなりませんね」
「そうしてくれ。じゃないと俺の気も休まらない」
ふぅ、とため息をつく隼人は、私の肩をベッドへと押し付けた。
「顔見れたから安心した。もう帰るから、お前はさっさと寝ろ」
「はい……。お見舞に来てくださって、ありがとうございます。このような格好でお見送りをしてしまい、申し訳ありません」
ベッドに潜り込み謝罪をすると、『んなこと気にすんなよ』との御言葉と軽いデコピンが飛んできた。
「じゃあな、芽衣香」
「はい。隼人」
挨拶をすませた隼人が、部屋から居なくなる。私はふぅと息を吐いて、毛布を頭から被った。
……やっぱり、呼び捨てはなんだかこそばゆくって慣れないな。