第二十九話 直之の告白
告白というものは、いつも秘密を増やす。
人はよく、打ち明ければ胸が軽くなると思いたがる。
たしかに、口にした瞬間だけは軽くなることもある。
だが本当に厄介なのは、そのあとだ。
言葉になったことで、ただの違和や不安だったものが、はっきりとした形を持ちはじめる。
言う前は気のせいで済ませられたものが、言ったあとではもう、気のせいでは済まない。
榊原家から戻った夜、忠相はいつもより遅くまで机に向かっていた。
机上には、柏屋から出た相談覚えの写し、近江屋の帳面から抜いた要点、榊原家の女中筋と乳母筋の聞き取り、お雪の書き置き、そして片桐の名を記した紙が並んでいる。
別々の紙に見えて、その実、どれも似たような匂いを放っていた。
病弱な子。
外へ出せぬ事情のある子。
名を継がせる相談。
古い者たちの沈黙。
消される帳面。
人の人生を“家の都合に収まる形”へ整えようとする理屈。
だが、そこで止まっていては足りない。
榊原家の件が近江屋より厄介なのは、真がまだ家の中で生きているからだ。
佐吉はすでに近江屋の外へ出た。
だが直之はまだ若君として榊原家の中にいる。
そこが違う。
違うからこそ、次の一手を誤れば、家の中そのものがこちらへ噛みついてくる。
「旦那」
源之丞が声をかけた。
「何だ」
「片桐に使いをやりましたが、今夜は病だと」
忠相は目を上げた。
「本当に病か」
「表向きはそう申しております。
ただ、門前の中間の顔からすると、“出したくない”病のように見えました」
「そうだろうな」
忠相は答えた。
昔の帳面を知り、今の秩序を支え、文を悪戯として焼き捨てたがる男である。
そういう者が“病で出られぬ”と言ってくる時は、身体より先に腹が痛んでいる。
「急がせるな」
「よろしいので」
「今はまだよい。
片桐を詰めるより先に、若君自身の口をもう一歩進めねばならぬ」
源之丞は少し考え、それから頷いた。
「直之殿、でございますな」
「うむ」
「違和を感じているだけでなく、それをどう思っているかまで言葉にさせる」
「そうだ。
さもなくば、外からの紙と内からの理屈に挟まれて、また誰かに“若君としてどう動くべきか”を決められる」
源之丞が深く頷いたところへ、下役が障子の外で声をかけた。
「お奉行様、榊原家より若君様の使いにございます」
忠相と源之丞は目を合わせた。
向こうから来たか、と思った。
「通せ」
入ってきたのは、中間ではなく、昨日も見た若い小者だった。
だが昨日よりはまだ顔に色がある。
昨夜のような切迫した騒ぎではない。
代わりに、迷いを抱えている使いの顔だった。
「何事だ」
「若君様より……」
小者は一度息を整えてから言った。
「もしお差し支えなければ、今宵、内々にお話ししたいと」
「屋敷か」
「いえ……」
小者は少し目を伏せた。
「屋敷ではなく、外で」
源之丞がわずかに動く。
「外で、か」
「はい」
なるほど、と忠相は思った。
直之は、家の中では話しきれぬ段へ来ている。
榊原家の若君が、奉行を屋敷の外で、しかも“内々に”会いたいと言う。
それ自体がもう、家の理の外へ半歩出た者の動きだ。
「場所は」
「上野不忍池のほとり、弁天へ渡る手前の茶屋にて」
忠相は少しだけ目を細めた。
人目がありすぎず、全くないわけでもない。
武家屋敷の中でも、奉行所の座敷でもない。
たしかに話をするには悪くない。
「行く」
忠相はそう答えた。
夜の上野は、江戸の町場とは少し空気が違う。
寺社の気配と池の湿りとで、音がわずかに遠くなる。
茶屋にはまだ灯があり、参詣帰りや物見遊山の遅い客もいるが、町の表通りほど賑やかではない。
人目を避けるには向かぬが、“偶然そこにいた”で済ませるにはちょうどいい。
茶屋の奥まった席に、直之はすでにいた。
今日は着流しに近い、やや軽い身なりである。
それでも武家の若君の品は消えない。
だが、その“消えない品”が、いまはかえってこの男の重荷に見えた。
「無理を申しました」
「お前の方から外を望むとは思わなかった」
忠相が言うと、直之はごくわずかに苦笑した。
「私も、少し前まではそう思っておりました」
茶を頼み、女中が下がると、しばらく二人のあいだに静かな時間が落ちた。
池の方から、風に揺れる水の匂いが入ってくる。
遠くで誰かが笑っている。
だがこの席だけは、その笑いから少し切り離されていた。
「何を話したい」
忠相が問うと、直之はすぐには答えなかった。
言うべき言葉を選んでいるのではない。
どこから崩せばよいのか、自分でも見えていない沈黙である。
「……私は」
やがて、直之が口を開いた。
「これまで、自分を“若君”として扱う空気に、ずっとどこか借り物のような感じを持っておりました」
忠相は黙って聞いた。
「でも、それを口にすれば、ただの思い上がりか、あるいは病んだ気まぐれのように聞こえると思っていた。
だから言わなかった。
言わぬままでも、日々の役目は果たせましたし、表の顔は整えられた」
「だが、違和は消えなかった」
「はい」
直之は茶に手をつけず、ただ湯気の向こうを見た。
「お奉行様に会ってから、その違和が急に形を持ちはじめたのです」
「私が形を与えたか」
「おそらく。
近江屋の件を、私は細かくは知りません。
けれど、お奉行様が“人の名を終わらせた帳面”の話をなさった時、ひどく胸の底が冷えた」
忠相は目を細めた。
やはりこの若君は、家の沈黙の上に立っていただけではない。
沈黙の匂いに、ずっと薄く晒されていたのだ。
「私は、幼いころから、自分の古い話を聞くのが少し嫌でした」
直之は続ける。
「皆が、私の話をするふりをして、実は別の誰かの輪郭をなぞっているように思えたからです」
「別の誰か」
「はい。
私が熱を出したとか、刀袋を気に入ったとか、庭の石に躓いたとか、そういう話をされるたび、耳では“私のこと”のはずなのに、身体のどこかが“違う”と申す」
「その“違う”を、お前は長く抱えてきた」
「はい」
直之はそこで初めて茶を一口飲んだ。
だが味はしていないのだろう。
唇を湿らせただけで茶碗を戻す。
「お奉行様」
「何だ」
「もし、私が本当に“途中から若君になった子”であったとして」
「うむ」
「それまで生きてきた私の時間は、誰のものになるのでしょう」
その問いは、近江屋の佐吉が口にした問いと似ていて、しかし少し違っていた。
佐吉は奪われた方から問うた。
直之は与えられた方から問うている。
けれど本質は同じだ。
名が動いた時、その間を生きていた自分は何者なのか。
「お前のものだ」
忠相はすぐに答えた。
直之が少し目を上げる。
「そうでしょうか」
「そうだ」
「たとえ、その名が途中から着せられたものでも」
「そうだ。
人は名前だけでできているわけではない」
忠相は静かに言った。
「お前が歩き、食い、眠り、人と顔を合わせ、何かを嫌い、何かを恐れ、何かを守ろうと思ったその時間は、お前のものだ。
たとえ、その上に着せられた名が誰かの都合であったとしてもな」
直之は、長く息を吐いた。
その息は、少しだけ震えていた。
「……そう言っていただけると、救われるような気もいたします」
「“気も”か」
「はい。
まだ、全部は飲み込めておりませんから」
その正直さは悪くない。
ここで急に悟ったような顔をされる方が、よほど危うい。
「では、なぜ今夜わざわざ外で会った」
忠相が問う。
直之は少しの間、答えずに池の方を見ていた。
夜の水面に灯が細く揺れている。
「……私は、自分が何者かを知りたい」
やがて、直之は言った。
「だが同時に、知ったあとで家がどうなるのかも怖い。
もし、本当に私が“若君にするために置かれた子”であったなら、家中の者は私を守る顔をして、また誰かを黙らせるでしょう。
あるいは、逆に私を押し立てて、古い者たちを切るかもしれない。
どちらも、私には望みではありません」
「ならば」
「だから……」
直之は少しだけ視線を逸らし、それから戻した。
「私が先に、お雪に会うべきでしょうか」
忠相はすぐには答えなかった。
これもまた重い問いだった。
真を知る女と、真に触れかけた若君を今すぐ引き合わせれば、何かは動く。
だがその何かが、若君の足場を支える方へ動くとは限らない。
「まだ早い」
やがて忠相は言った。
直之は小さく目を伏せる。
予想していた返事なのだろう。
「理由を聞いても」
「お前が今の時点でお雪に会えば、二つの危うさがある」
「二つ」
「一つは、お雪が“見てしまった女”としての悔いと怖れを、全部お前へぶつけることだ」
直之は黙って聞いている。
「もう一つは、お前がそれを“若君としてどう振る舞うべきか”へ置き換えてしまうことだ」
その言葉に、直之の指が小さく動いた。
「私は……」
「無意識にだ」
忠相は続けた。
「武家の家で育った者は、何かが起きるとすぐに“どう収めるか”を考える癖がつく。
だが今、お前に要るのは収め方ではない。
まず、自分の違和を、自分の言葉で立たせることだ」
直之はしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「お奉行様は、いつもそこで止められますね」
「何を」
「人が、すぐに役目や理屈に逃げるところを」
忠相は少しだけ口元を動かした。
「見逃すと、そこからまた同じ紙が生まれる」
直之も、ほんの僅かに笑った。
それは若君としてではなく、一人の若い男として出た笑みに近かった。
その時、茶屋の外で足音がした。
ただの通り客ではない。
立ち止まり方に気配がある。
源之丞がすっと動く。
忠相は視線だけで制し、茶屋の障子の隙間へ目を向けた。
そこに一瞬だけ、見覚えのある影がよぎった。
痩せた男。
細長い包み。
顔は見えぬ。
だが、あの歩き方はそうそう忘れない。
「見られている」
忠相が低く言うと、直之は表情を変えた。
「誰に」
「紙を嗅ぐ男だ」
源之丞がすぐに外へ出る。
足音が遠ざかる。
だが追いつけたかどうかは怪しい。
こういう手合いは、尾ける前提で姿を見せることもある。
忠相は直之を見た。
「だから今はまだ、お前を一人で動かせぬ」
直之は静かに頷いた。
「わかりました」
「ただし、待っているだけでもない」
「どうするのです」
「お前の違和がどこで始まったか、もう少し具体に拾う」
直之は目を上げた。
「どうやって」
「お前自身の記憶からだ」
「記憶」
「衣、刀袋、小物、古い呼び方。
“自分のものなのに、自分の身体が知らぬもの”を、もう一度思い出せ」
直之はゆっくりと息を吸った。
「……できるでしょうか」
「できるところまででよい。
そこに、お前が“若君にされた”継ぎ目がある」
茶屋を出る頃には、夜がかなり深くなっていた。
上野の池は黒く、灯だけが遠く浮いている。
源之丞が戻ってきたが、やはり痩せた男は見失ったと告げた。
だが、少しばかり追い方がわざとらしかったとも言う。
つまり向こうは、若君が奉行と会っていることを見せつけに来たのだろう。
「急がせに来たか」
源之丞が言う。
「うむ」
忠相は答えた。
「若君を揺らし、こちらに先手を打たせたいのだ」
「どう出ます」
「片桐だ」
忠相は低く言った。
「家の内側を固める男に、外から紙を嗅ぐ手が動き出したと知れば、必ず何かをする」
「それを見る」
「そうだ」
奉行所へ戻るころには、もう人も少ない。
だが口入れ屋の離れの方から、ひとつ灯が動いていると下役が告げた。
お峰がまだ起きているらしい。
「佐吉か」
忠相が問うと、下役は頷いた。
「自分で帳面のつけ方を習いたいと、女将へ」
忠相は少しだけ目を細めた。
若い男は、本当に紙の近くへ来ようとしている。
逃げもせず、沈みきりもせず、自分を傷つけたものの方へ、今度は自分の手で触れようとしている。
近江屋の佐吉。
榊原家の直之。
どちらも、ようやく「自分の名をどう読むか」という同じ場所へ歩き始めた。
だがその足もとには、まだ火種が残っている。
若君の違和は、もう一段深い告白へ進んだ。
次は、その違和を利用しようとする手と、守ろうとしてまた押さえ込もうとする手がぶつかる番だ。
つづく




