表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

28/42

第二十九話 直之の告白

 告白というものは、いつも秘密を増やす。


 人はよく、打ち明ければ胸が軽くなると思いたがる。

 たしかに、口にした瞬間だけは軽くなることもある。

 だが本当に厄介なのは、そのあとだ。

 言葉になったことで、ただの違和や不安だったものが、はっきりとした形を持ちはじめる。

 言う前は気のせいで済ませられたものが、言ったあとではもう、気のせいでは済まない。


 榊原家から戻った夜、忠相はいつもより遅くまで机に向かっていた。


 机上には、柏屋から出た相談覚えの写し、近江屋の帳面から抜いた要点、榊原家の女中筋と乳母筋の聞き取り、お雪の書き置き、そして片桐の名を記した紙が並んでいる。

 別々の紙に見えて、その実、どれも似たような匂いを放っていた。

 病弱な子。

 外へ出せぬ事情のある子。

 名を継がせる相談。

 古い者たちの沈黙。

 消される帳面。

 人の人生を“家の都合に収まる形”へ整えようとする理屈。


 だが、そこで止まっていては足りない。

 榊原家の件が近江屋より厄介なのは、真がまだ家の中で生きているからだ。

 佐吉はすでに近江屋の外へ出た。

 だが直之はまだ若君として榊原家の中にいる。

 そこが違う。

 違うからこそ、次の一手を誤れば、家の中そのものがこちらへ噛みついてくる。


「旦那」


 源之丞が声をかけた。


「何だ」


「片桐に使いをやりましたが、今夜は病だと」


 忠相は目を上げた。


「本当に病か」


「表向きはそう申しております。

 ただ、門前の中間の顔からすると、“出したくない”病のように見えました」


「そうだろうな」


 忠相は答えた。


 昔の帳面を知り、今の秩序を支え、文を悪戯として焼き捨てたがる男である。

 そういう者が“病で出られぬ”と言ってくる時は、身体より先に腹が痛んでいる。


「急がせるな」


「よろしいので」


「今はまだよい。

 片桐を詰めるより先に、若君自身の口をもう一歩進めねばならぬ」


 源之丞は少し考え、それから頷いた。


「直之殿、でございますな」


「うむ」


「違和を感じているだけでなく、それをどう思っているかまで言葉にさせる」


「そうだ。

 さもなくば、外からの紙と内からの理屈に挟まれて、また誰かに“若君としてどう動くべきか”を決められる」


 源之丞が深く頷いたところへ、下役が障子の外で声をかけた。


「お奉行様、榊原家より若君様の使いにございます」


 忠相と源之丞は目を合わせた。

 向こうから来たか、と思った。


「通せ」


 入ってきたのは、中間ではなく、昨日も見た若い小者だった。

 だが昨日よりはまだ顔に色がある。

 昨夜のような切迫した騒ぎではない。

 代わりに、迷いを抱えている使いの顔だった。


「何事だ」


「若君様より……」


 小者は一度息を整えてから言った。


「もしお差し支えなければ、今宵、内々にお話ししたいと」


「屋敷か」


「いえ……」


 小者は少し目を伏せた。


「屋敷ではなく、外で」


 源之丞がわずかに動く。


「外で、か」


「はい」


 なるほど、と忠相は思った。

 直之は、家の中では話しきれぬ段へ来ている。

 榊原家の若君が、奉行を屋敷の外で、しかも“内々に”会いたいと言う。

 それ自体がもう、家の理の外へ半歩出た者の動きだ。


「場所は」


「上野不忍池のほとり、弁天へ渡る手前の茶屋にて」


 忠相は少しだけ目を細めた。


 人目がありすぎず、全くないわけでもない。

 武家屋敷の中でも、奉行所の座敷でもない。

 たしかに話をするには悪くない。


「行く」


 忠相はそう答えた。


 夜の上野は、江戸の町場とは少し空気が違う。


 寺社の気配と池の湿りとで、音がわずかに遠くなる。

 茶屋にはまだ灯があり、参詣帰りや物見遊山の遅い客もいるが、町の表通りほど賑やかではない。

 人目を避けるには向かぬが、“偶然そこにいた”で済ませるにはちょうどいい。


 茶屋の奥まった席に、直之はすでにいた。


 今日は着流しに近い、やや軽い身なりである。

 それでも武家の若君の品は消えない。

 だが、その“消えない品”が、いまはかえってこの男の重荷に見えた。


「無理を申しました」


「お前の方から外を望むとは思わなかった」


 忠相が言うと、直之はごくわずかに苦笑した。


「私も、少し前まではそう思っておりました」


 茶を頼み、女中が下がると、しばらく二人のあいだに静かな時間が落ちた。

 池の方から、風に揺れる水の匂いが入ってくる。

 遠くで誰かが笑っている。

 だがこの席だけは、その笑いから少し切り離されていた。


「何を話したい」


 忠相が問うと、直之はすぐには答えなかった。


 言うべき言葉を選んでいるのではない。

 どこから崩せばよいのか、自分でも見えていない沈黙である。


「……私は」


 やがて、直之が口を開いた。


「これまで、自分を“若君”として扱う空気に、ずっとどこか借り物のような感じを持っておりました」


 忠相は黙って聞いた。


「でも、それを口にすれば、ただの思い上がりか、あるいは病んだ気まぐれのように聞こえると思っていた。

 だから言わなかった。

 言わぬままでも、日々の役目は果たせましたし、表の顔は整えられた」


「だが、違和は消えなかった」


「はい」


 直之は茶に手をつけず、ただ湯気の向こうを見た。


「お奉行様に会ってから、その違和が急に形を持ちはじめたのです」


「私が形を与えたか」


「おそらく。

 近江屋の件を、私は細かくは知りません。

 けれど、お奉行様が“人の名を終わらせた帳面”の話をなさった時、ひどく胸の底が冷えた」


 忠相は目を細めた。


 やはりこの若君は、家の沈黙の上に立っていただけではない。

 沈黙の匂いに、ずっと薄く晒されていたのだ。


「私は、幼いころから、自分の古い話を聞くのが少し嫌でした」


 直之は続ける。


「皆が、私の話をするふりをして、実は別の誰かの輪郭をなぞっているように思えたからです」


「別の誰か」


「はい。

 私が熱を出したとか、刀袋を気に入ったとか、庭の石に躓いたとか、そういう話をされるたび、耳では“私のこと”のはずなのに、身体のどこかが“違う”と申す」


「その“違う”を、お前は長く抱えてきた」


「はい」


 直之はそこで初めて茶を一口飲んだ。

 だが味はしていないのだろう。

 唇を湿らせただけで茶碗を戻す。


「お奉行様」


「何だ」


「もし、私が本当に“途中から若君になった子”であったとして」


「うむ」


「それまで生きてきた私の時間は、誰のものになるのでしょう」


 その問いは、近江屋の佐吉が口にした問いと似ていて、しかし少し違っていた。

 佐吉は奪われた方から問うた。

 直之は与えられた方から問うている。

 けれど本質は同じだ。

 名が動いた時、その間を生きていた自分は何者なのか。


「お前のものだ」


 忠相はすぐに答えた。


 直之が少し目を上げる。


「そうでしょうか」


「そうだ」


「たとえ、その名が途中から着せられたものでも」


「そうだ。

 人は名前だけでできているわけではない」


 忠相は静かに言った。


「お前が歩き、食い、眠り、人と顔を合わせ、何かを嫌い、何かを恐れ、何かを守ろうと思ったその時間は、お前のものだ。

 たとえ、その上に着せられた名が誰かの都合であったとしてもな」


 直之は、長く息を吐いた。

 その息は、少しだけ震えていた。


「……そう言っていただけると、救われるような気もいたします」


「“気も”か」


「はい。

 まだ、全部は飲み込めておりませんから」


 その正直さは悪くない。

 ここで急に悟ったような顔をされる方が、よほど危うい。


「では、なぜ今夜わざわざ外で会った」


 忠相が問う。


 直之は少しの間、答えずに池の方を見ていた。

 夜の水面に灯が細く揺れている。


「……私は、自分が何者かを知りたい」


 やがて、直之は言った。


「だが同時に、知ったあとで家がどうなるのかも怖い。

 もし、本当に私が“若君にするために置かれた子”であったなら、家中の者は私を守る顔をして、また誰かを黙らせるでしょう。

 あるいは、逆に私を押し立てて、古い者たちを切るかもしれない。

 どちらも、私には望みではありません」


「ならば」


「だから……」


 直之は少しだけ視線を逸らし、それから戻した。


「私が先に、お雪に会うべきでしょうか」


 忠相はすぐには答えなかった。


 これもまた重い問いだった。

 真を知る女と、真に触れかけた若君を今すぐ引き合わせれば、何かは動く。

 だがその何かが、若君の足場を支える方へ動くとは限らない。


「まだ早い」


 やがて忠相は言った。


 直之は小さく目を伏せる。

 予想していた返事なのだろう。


「理由を聞いても」


「お前が今の時点でお雪に会えば、二つの危うさがある」


「二つ」


「一つは、お雪が“見てしまった女”としての悔いと怖れを、全部お前へぶつけることだ」


 直之は黙って聞いている。


「もう一つは、お前がそれを“若君としてどう振る舞うべきか”へ置き換えてしまうことだ」


 その言葉に、直之の指が小さく動いた。


「私は……」


「無意識にだ」


 忠相は続けた。


「武家の家で育った者は、何かが起きるとすぐに“どう収めるか”を考える癖がつく。

 だが今、お前に要るのは収め方ではない。

 まず、自分の違和を、自分の言葉で立たせることだ」


 直之はしばらく黙っていた。

 やがて、小さく頷く。


「お奉行様は、いつもそこで止められますね」


「何を」


「人が、すぐに役目や理屈に逃げるところを」


 忠相は少しだけ口元を動かした。


「見逃すと、そこからまた同じ紙が生まれる」


 直之も、ほんの僅かに笑った。

 それは若君としてではなく、一人の若い男として出た笑みに近かった。


 その時、茶屋の外で足音がした。

 ただの通り客ではない。

 立ち止まり方に気配がある。


 源之丞がすっと動く。

 忠相は視線だけで制し、茶屋の障子の隙間へ目を向けた。


 そこに一瞬だけ、見覚えのある影がよぎった。

 痩せた男。

 細長い包み。

 顔は見えぬ。

 だが、あの歩き方はそうそう忘れない。


「見られている」


 忠相が低く言うと、直之は表情を変えた。


「誰に」


「紙を嗅ぐ男だ」


 源之丞がすぐに外へ出る。

 足音が遠ざかる。

 だが追いつけたかどうかは怪しい。

 こういう手合いは、尾ける前提で姿を見せることもある。


 忠相は直之を見た。


「だから今はまだ、お前を一人で動かせぬ」


 直之は静かに頷いた。


「わかりました」


「ただし、待っているだけでもない」


「どうするのです」


「お前の違和がどこで始まったか、もう少し具体に拾う」


 直之は目を上げた。


「どうやって」


「お前自身の記憶からだ」


「記憶」


「衣、刀袋、小物、古い呼び方。

 “自分のものなのに、自分の身体が知らぬもの”を、もう一度思い出せ」


 直之はゆっくりと息を吸った。


「……できるでしょうか」


「できるところまででよい。

 そこに、お前が“若君にされた”継ぎ目がある」


 茶屋を出る頃には、夜がかなり深くなっていた。


 上野の池は黒く、灯だけが遠く浮いている。

 源之丞が戻ってきたが、やはり痩せた男は見失ったと告げた。

 だが、少しばかり追い方がわざとらしかったとも言う。

 つまり向こうは、若君が奉行と会っていることを見せつけに来たのだろう。


「急がせに来たか」


 源之丞が言う。


「うむ」


 忠相は答えた。


「若君を揺らし、こちらに先手を打たせたいのだ」


「どう出ます」


「片桐だ」


 忠相は低く言った。


「家の内側を固める男に、外から紙を嗅ぐ手が動き出したと知れば、必ず何かをする」


「それを見る」


「そうだ」


 奉行所へ戻るころには、もう人も少ない。

 だが口入れ屋の離れの方から、ひとつ灯が動いていると下役が告げた。

 お峰がまだ起きているらしい。


「佐吉か」


 忠相が問うと、下役は頷いた。


「自分で帳面のつけ方を習いたいと、女将へ」


 忠相は少しだけ目を細めた。


 若い男は、本当に紙の近くへ来ようとしている。

 逃げもせず、沈みきりもせず、自分を傷つけたものの方へ、今度は自分の手で触れようとしている。


 近江屋の佐吉。

 榊原家の直之。

 どちらも、ようやく「自分の名をどう読むか」という同じ場所へ歩き始めた。


 だがその足もとには、まだ火種が残っている。

 若君の違和は、もう一段深い告白へ進んだ。

 次は、その違和を利用しようとする手と、守ろうとしてまた押さえ込もうとする手がぶつかる番だ。


つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ