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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第三十話 家を守るという罪

罪という言葉は、たいてい刀のように扱われる。


 誰か一人の胸へ突きつけ、白黒をつけ、斬って終わるためのものとして。

 だが本当に厄介なのは、誰もが少しずつ正しく、少しずつ間違っている時だ。

 家を守った。

 名を残した。

 食わせた。

 生かした。

 そのどれもが嘘ではない。

 けれど、その守り方の下で、誰か一人の人生が静かに削られていたなら――それはもう、ただの美談では済まない。


 翌朝、忠相はいつもより早く奉行所の記録部屋へ入った。


 夜のうちに直之の告白を聞き、片桐の名がさらに重くなった今、榊原家の件はもう感触だけで追う段ではない。

 家の中の女たちが見たこと。

 紙問屋の古い相談覚え。

 若君自身の違和。

 そして家の内外で動いている者たち。

 それらを一本へ束ねるには、榊原家における“家を守る理屈”が、どこで、誰の言葉として形になったのかを押さえねばならぬ。


 棚の奥から出されたのは、榊原家に関わる年ごとの届出控え、病気見舞い筋の覚え、古い縁組の届き、そして家中の家督相談に絡む細かな役所筋の記録である。

 武家の家の表は整っている。

 だが、整っているからこそ、少しだけ外れた書き方や、妙に短い文言が逆に浮く。


 源之丞が脇で灯を寄せた。


「ありましたか」


「まだ骨だけだ」


 忠相はそう答えながら、一枚の控えで指を止めた。


 そこには数年前の簡単な届出として、

 ――榊原家、若君ご養生のため一時別邸へ移る

 とある。


 だが、その翌月の控えには、

 ――若君ご本邸へ戻る

 とあるだけで、名が書かれていない。


「名が抜けておりますな」


 源之丞が言う。


「うむ」


「ふつうなら、若君直之様なり、嫡子様なり、どちらかが出るところで」


「そうだ。

 “若君”だけで済ませている」


 忠相はさらに別の紙を開いた。


 そこには、家中の出入りについての簡単な添え書きがあり、そこにもまた不自然な言い回しがあった。


 ――旧来の乳母筋一人、病身につき暇

 ――衣類小物の整理につき、奥向き口止め徹底


 源之丞が低く言う。


「衣類小物、やはり」


「近江屋でも同じだ」


 忠相は答えた。


「家が人の名を動かす時、先に触るのは衣と小物だ。

 人は、呼び名より先に、目に映る形で納得させられる」


 その時、弥吉が足音も軽く入ってきた。


「旦那」


「片桐か」


「へい。やっと動きやした」


「どこへ」


「柏屋じゃなく、古い代書屋の筋へ」


 忠相の目が細くなる。


「何をしに」


「“昔の養子相談の控えが、まだどこかに残ってねえか”って」


 源之丞が顔をしかめる。


「片桐自身が紙を漁っている」


「しかも慌ててやがる」


 弥吉は肩をすくめた。


「若君の前に文が投げ込まれ、お雪も消えかけた。

 あの爺さん、もう“屋敷の中だけで収まる話じゃねえ”と見たんでしょう」


 忠相は記録を閉じた。


「よい。今日は片桐を呼びつける」


「屋敷から出しますか」


「出さねば、向こうはさらに紙を消す」


 榊原家へ出した呼び出しは、表向きには柏屋の相談覚えと家中記録の照合のためである。

 それで片桐が来なければ、それだけでよい材料になる。

 来れば来たで、その顔と声と沈黙を見ることができる。


 昼を少し過ぎたころ、片桐は奉行所へ現れた。


 六十に手がかかるかという年頃。

 痩せても太ってもいない。

 声も無駄に大きくない。

 武家屋敷の古い用人らしく、身なりも地味で、しかし崩れがない。

 いかにも“家の中の細々を何十年も整えてきた男”の顔である。


「片桐にございます」


 深く頭を下げる。

 礼に不足はない。

 だが、礼に不足がないことと、心に恐れがないことは別だ。

 この男は、恐れはしている。

 ただ、それを表へ出さぬ訓練が長いだけだ。


「柏屋から失せた相談覚えの件で聞く」


 忠相が言うと、片桐は静かに頷いた。


「若君様より、あらましは承っております」


「よろしい。ならば話は早い」


 忠相は机上へ、柏屋から出た写しと、榊原家の役所控えの一部を並べた。


「お前は、榊原家の昔の縁組、乳母筋、衣類小物の出し入れに長く関わったな」


「はい」


「病弱な嫡子がいたことも知っている」


「はい」


「そののち、直次郎という子が若君として立ったことも」


 片桐は、ここでほんの一瞬だけ間を置いた。

 だが否定はしない。


「はい」


「なぜ立てた」


 その問いは、単純だが一番重い。


 片桐はすぐには答えなかった。

 この男にとって、ここで不用意に言葉を選べば、これまで自分が“家のため”として支えてきたものの全体が崩れるのだろう。


「家を守るためにございます」


 やがて、片桐は言った。


 近江屋の弥兵衛も似たようなことを言った。

 ただし片桐の言い方は、もっと乾いている。

 涙も悔いも、前へは出さぬ声だ。


「何から守る」


 忠相が重ねる。


「家名、知行、家中、縁組、先祖代々の筋、すべてにございます」


「子は」


「……」


「直次郎は、何から守った」


 片桐は目を伏せた。


「食い扶持と、行く末を」


「本当にか」


 忠相の声は静かだったが、その静けさがむしろ重く落ちた。


「そう言い切れるか」


 片桐は答えなかった。


「お前は家を守った。

 それはそうだろう。

 だが、その守り方で、別の子の名と時間を削った」


「お奉行様」


 片桐が初めて少しだけ声を強めた。


「武家というものは、町の理とは違います。

 家一つ揺らげば、抱える家臣、その家族、出入りの者、知行地の百姓にまで波が及ぶ」


「だから、一人の子の名を削ってもよいと」


「そのような言い方をすれば、いかようにも」


「事実を言っているだけだ」


 片桐は黙った。


 この男は、弥兵衛よりさらに理屈が固い。

 情で揺れた痕が薄い。

 だからこそ、もっと扱いにくい。


「お雪を呼び出したのはお前か」


 忠相が問うと、片桐はそこで初めて明らかに顔を変えた。

 大きな変化ではない。

 だが、用人として何十年も顔を作ってきた男の、その程度の揺れは十分だった。


「……知りませぬ」


「では、なぜ若君へ文が投げ込まれた直後に、柏屋や代書屋筋を探り始めた」


「家のために、火の粉を払おうと」


「火の粉か」


 忠相は紙を指で軽く叩いた。


「“本当の若君はどちらだ”

 これは火の粉ではない。

 家の真ん中に落ちた問いだ」


 片桐は答えぬ。


「お前は、その問いを悪戯として焼き捨てようとした」


「若君の耳へ余計なことを入れぬためです」


「余計かどうかは誰が決める」


「家にございます」


「違う」


 忠相はきっぱりと言った。


「それを決めてきたのは、家の名を背負った大人たちだ。

 当人ではない」


 その一言で、片桐の視線がわずかに揺れた。


 つまりこの男にも、そこが痛いのだ。

 家を守る理屈は完璧ではないと、薄くは知っている。

 ただ、その理屈なしでは自分の人生そのものが立たぬから、引き返せない。


「お前は、直之をどう見ている」


 忠相が問う。


「若君にございます」


「名目ではなく」


「……榊原家を背負う方にございます」


「それだけか」


 片桐は苦いものを呑み込むように答えた。


「賢く、気が回り、情も深い。

 嫡子様とは違う良さをお持ちです」


「つまり、“若君として育てるに値する子”だと見た」


 片桐は目を閉じた。


「……はい」


 それは本音だったのだろう。

 この男は単に使える子だったから直次郎を若君へ立てたのではない。

 “この子なら家を背負える”と見た。

 その見立て自体は、たぶん正しかったのだ。

 だからなお厄介だ。


「片桐」


 忠相は静かに言った。


「それは、家を守る理屈としては見事だ。

 だが人を守る理屈にはなっていない」


 片桐は、そこで初めて言葉を返せなかった。


 しばらくの沈黙ののち、忠相は次を問う。


「では聞こう。

 お前は、直之が本当に何も感じていないと思っていたか」


 片桐の指が、膝の上でわずかに動く。


「……」


「答えよ」


「いずれ、感づかれるかもしれぬとは」


「いつから」


「ここ数年」


「なぜ」


「衣、小物、古い者たちの呼び方、昔の乳母筋の消え方――」


 片桐は、そこまで言って、自分で口を閉ざした。

 だがもう遅い。

 この男もまた、若君の違和を知っていた。

 知っていながら、それでも“若君として座っていればよい”と思っていたのだ。


「若君は気づいていた。

 お前もそれを知っていた。

 それでもなお、知らぬ顔で座らせ続けた」


「家のためにございます」


 片桐は繰り返した。

 だが、その声はさっきまでよりわずかにかすれている。


 忠相は小さく息を吐いた。


 ここだ。

 この作品で何度も出てくる、最も厄介な言葉。

 家のため。

 それは真であり、同時に罪でもある。

 家のために人を生かすこともある。

 だが、家のために人の名を奪い、足場を削り、沈黙を強いることもある。


「片桐」


 忠相は言った。


「お前は罪人かと問われれば、たしかに咎めるべきところがある」


 片桐は静かに顔を上げた。


「だが本当に厄介なのは、お前一人を縛って終わらぬことだ。

 お前がやったことは、お前だけの悪知恵ではない。

 この町、この国の“家を守る理”そのものが、お前の背を押している」


 片桐の目が、初めてほんの少しだけ揺らいだ。

 怒りでも、恐れでもなく、もっと別の――長く自分を支えてきた理屈が、そのまま責めの言葉として返ってきた時の揺れだった。


「お奉行様は」


 片桐が低く言う。


「では、その理を壊されるので」


「壊せるものなら、もうとっくに誰かが壊している」


 忠相は答えた。


「私は神でも改革者でもない。

 ただ、これ以上同じ理屈で、同じ傷を増やさせぬ線を引く」


 部屋が静まった。


 源之丞も、弥吉も、何も言わない。

 この場では、それが一番よかった。


「若君へ文を投げ込んだ手について、知っていることを申せ」


 忠相が最後に問うと、片桐はしばらく黙った。


 やがて、絞るように言った。


「……柏屋を探っていた痩せた男が、家の外から嗅ぎつけたのは間違いありますまい」


「それだけか」


「ただし、屋敷の中の空気を知る者が、どこかで口を滑らせたのでしょう」


「誰だ」


「……お雪、あるいは、もう一人」


「もう一人とは」


 片桐は答えなかった。

 だが、その答えぬことが十分に答えだった。

 榊原家の中にはまだ、古いことを知り、外へ繋がる口がある。


 片桐を下がらせたあと、源之丞が低く言った。


「家を守るという罪、でございますな」


「うむ」


「弥兵衛も片桐も、言っていることの形は違えど、根は似ております」


「そうだ」


 忠相は机上の紙を見た。


「家を守るために、子を備えとして置く。

 名を動かす。

 衣を移す。

 古い者を下げる。

 帳面を整える。

 そのすべてを“仕方がない”と呼ぶ」


 弥吉が肩をすくめる。


「仕方がないって言葉ぁ、便利ですからね」


「便利な言葉ほど、人を鈍くする」


 忠相は言った。


 その時、障子の外で下役が声をかけた。


「お奉行様。口入れ屋の佐吉殿が」


「入れ」


 入ってきた佐吉は、前より少しだけ顔つきが違っていた。

 まだ若い。

 まだ傷んでいる。

 だが、“置かれているだけの顔”ではなくなりつつある。


「何だ」


「働き口のことです」


「うむ」


「お峰さんが、一軒、紙と帳面を扱う小さな店を知ってるって」


 源之丞が目を上げる。


「早いな」


「早い方がいいと思って」


 佐吉は言った。

 その目には、近江屋のときとも、奉行所で保たれていたときとも違う、危ういが前を向いた色がある。


「紙を読む側へ行きたいのか」


 忠相が問うと、佐吉は少しだけ考えた。


「読む、っていうと、まだ大げさです」


「では」


「せめて、紙がどう人を動かすのか、もうちょっと自分の手元で見てみたいんです」


 それは、よい言葉だった。

 大きすぎず、小さすぎない。

 自分の傷をそのまま職に変えるのではなく、まず近くで見る。

 今の佐吉には、そのくらいがちょうどよい。


「よい」


 忠相は答えた。


「ただし、無理はするな」


「はい」


「そしてもう一つ。

 お前は、いずれ直之という若君に会うことになるかもしれぬ」


 佐吉の目が少しだけ動く。


「……似たようなやつ、ですか」


「似ている。

 だが、まるで同じではない」


「そりゃそうでしょうね」


「その時、お前が相手に何を感じるかは勝手だ。

 だが、簡単に“こっちの方がまし”“あっちの方が楽だ”と決めるな」


 佐吉は少し口元を曲げた。


「俺、そんなに子どもじゃないつもりです」


「子どもだ」


 忠相はきっぱり言った。


 佐吉は一瞬ぽかんとしたあと、少しだけ笑った。

 その笑いが前より自然だったので、忠相はそれでよしとした。


「だが、子どものままでも考えはできる。

 だから言っている」


「……わかりました」


 そのやり取りを見ながら、忠相は思った。


 近江屋の佐吉。

 榊原家の直之。

 二人はまだ交わっていない。

 だが、家を守る理の別々の端で、すでに同じ問いの方へ歩いている。


 名は誰のものか。

 生きてきた時間は誰のものか。

 そして家を守るという言葉は、どこから罪になるのか。


 この第二章の火種は、もう一つの家だけでは収まらないところまで来ていた。


つづく

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