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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第二十八話 榊原家の火種

火種というものは、最初から燃え上がっているわけではない。


 紙の端に残る墨の濃さ。

 誰かが言いよどんだ一拍。

 古い女中が名を呼ぶ時だけ、わずかに声が低くなること。

 そういう小さな熱が、長く消えずに残る。

 そして家というものは、外から見れば静かで立派であるほど、内側にそうした火種を溜め込みやすい。


 佐吉が「働き口を自分で探す」と言ったその日の夕刻、忠相はすぐには口入れ屋の離れへ向かわなかった。


 若い者が自分の口で何かを決めた直後に、年長の理屈をかぶせるのはよくない。

 近江屋でも、榊原家でも、それでどれだけ人の名がねじれたかを、ついこの数日で嫌というほど見てきた。

 だから、いま必要なのは急かすことではない。

 ただし、放っておくことでもない。

 その細いあわいに立つのが、今の忠相の役目だった。


 縁側の先には、夕方の光がもう浅く差している。

 奉行所の庭は昼より広く見える。

 光が斜めになると、砂利や飛び石の間の小さな凹みまで目に入るからだ。

 人の心も、それに似ている。

 まっすぐ照らされた昼より、少し傾いた刻の方が、見えなかった綻びが浮きやすい。


「旦那」


 源之丞が障子の外から声をかけた。


「何だ」


「榊原家より急ぎの使いにございます」


 忠相はすぐに振り返った。


「通せ」


 入ってきたのは、中間ではなく、榊原家の若い小者だった。

 衣服はきちんとしているが、顔色は悪い。

 武家屋敷の使いは、本来もっと感情を隠す。

 だがこの男は隠しきれていない。

 つまり、かなり急で、しかも家の内側に近い騒ぎなのだ。


「何事だ」


 忠相が問うと、小者は額がつくほど頭を下げた。


「若君様より、急ぎお目通り願いたいと……!」


「理由は」


「お、それが……」


 小者は喉を鳴らした。


「奥に、文が投げ込まれまして」


 源之丞の目が鋭くなる。


「どのような文だ」


「わ、私めは中身までは……。ただ、奥向きが騒ぎになり、若君様のお顔色も変わり……」


 忠相は立ち上がった。


「行くぞ、源之丞」


「は」


 源之丞がすぐに後へつく。

 弥吉にも声をかけようかと一瞬考えたが、いや、まだ早いと思い直した。

 榊原家の中が本格に揺れ始めるなら、まず見るべきは家の空気だ。

 弥吉の目はよく利くが、最初の一手には、あまりに町場の匂いを持ち込みすぎることもある。


 榊原家へ着くころには、空はかなり赤みを落としていた。


 門番の顔からして、もう昨日までとは違う。

 奉行所の一行を認めると、取り次ぎも待たず、ほとんど転がるように中へ通した。

 武家屋敷というものは、表で騒ぎを見せぬのが第一だ。

 それを忘れるほど慌てているということは、火種がすでに畳の上へ落ちている。


 奥の座敷へ入ると、直之が一人で待っていた。


 昨日までの整えた若君の顔ではない。

 まだ崩れてはいない。

 だが、崩れまいとする力が表へ出てしまっている顔だった。

 脇には、折りたたまれた紙が一枚置かれている。


「お呼び立ていたしました」


 直之は礼をした。

 礼は正しい。

 だが声が乾いている。


「文か」


 忠相が問うと、直之は頷いた。


「はい」


「見せよ」


 紙は上等ではない。

 柏屋の書付のような堅い奉書でもなく、町の安い走り書き用の紙に近い。

 だが筆は乱れておらず、むしろ妙にきれいだった。

 感情を抑え、意図して短く切った文である。


 そこに書かれていたのは、たった一行。


 ――本当の若君は、どちらだ


 源之丞が低く息を吐いた。


「……」


 忠相は黙って紙を見つめた。


 短い。

 だが短いからこそ、逃げ場がない。

 余計な理屈をつけず、ただ家の中心を指している。

 “若君の出自がおかしいのではないか”ではない。

 “昔、何かあったらしい”でもない。

 本当の若君はどちらだ。


 それは、榊原家という家そのものへ突きつけられた問いだった。


「どこに」


 忠相が問う。


「奥の廊下に」


 直之が答える。


「夕刻、女中が灯を入れ替えようとした時、柱の隙間へ差し込まれているのを」


「誰が最初に読んだ」


「お冴です」


「ほかに」


「奥向きの者が二、三」


「当主は」


 直之は少しだけ目を伏せた。


「まだ、知らせておりません」


 それは正しい判断だった。

 病中の当主へこの一行をいきなり入れれば、屋敷全体が別の意味で騒ぐ。

 ただし、知らせぬままにもできぬ。

 時間の問題だ。


「片桐は」


 忠相が問うと、直之の目が一瞬動いた。


「もう知っております」


「どうして」


「騒ぎが起きた時、いちばん早く顔を出しました」


「文を見たか」


「はい」


「何と言った」


 直之の声が少し硬くなる。


「“ただの悪戯にございます、すぐに焼き捨てれば済むこと”と」


 忠相は頷いた。


 予想どおりだ。

 家の理を守る側の者は、こういう文を“意味のある問い”として扱うことを何より嫌う。

 まず悪戯に落とす。

 次に焼く。

 最後に、皆が見なかったことにする。

 その手順があまりに正確すぎて、かえって片桐の関わりが濃く見える。


「焼かなかったな」


「ええ」


 直之は忠相を見た。


「お奉行様に先に見せるべきだと思いました」


 その判断もまた、昨日までとは違う。

 若君はもう、家の中だけで理屈を閉じられるものではないと知り始めている。


「奥向きの空気は」


「冷えております」


「誰がどう、ではなくか」


「皆が皆、別の仕方で」


 直之は少し考えてから言った。


「お冴は、とうとう来たという顔でした。

 若い女中たちは、意味を知り切らぬまま怯えております。

 古い者ほど無口に、若い者ほどざわついている」


 源之丞が低く言った。


「火種が落ちた家の顔ですな」


「そうだ」


 忠相は答えた。


 若い者は何が起きているかを知らぬぶん、ざわつく。

 古い者は知っているからこそ黙る。

 その両方が同時にある時、家は一番危うい。


「文は一枚だけか」


 忠相が問う。


「今のところは」


「“どちらだ”とあるな」


 紙を見ながら忠相は言った。


「これは漠然と家を揺らしたい者の書き方ではない。

 少なくとも、二人の“候補”が屋敷の中にあったことを知る者の言い方だ」


 直之の目が細くなる。


「……直次郎と、亡くなった嫡子ですか」


「その可能性が高い」


「では、家の内側を知る者」


「あるいは、その話を外で聞いた者だ」


 直之は沈黙した。

 その沈黙は、もう昨日までの受け身の沈黙ではない。

 自分の周りで何が起きているかを、自分の問題として考える沈黙である。


「お冴を呼べ」


 忠相が言うと、直之はすぐに下へ声をかけた。


 ほどなくお冴が入ってくる。

 今日は明らかに憔悴していた。

 だが、その憔悴の中にも覚悟がある。

 この女は、崩れる時もただは崩れまい。


「文を最初に見たな」


 忠相が問う。


「はい」


「どこに差してあった」


「奥の渡り廊下、柱の割れ目に」


「誰でも入れる場所か」


「外からは難しい」


「家の中の者か」


「……そう思います」


 お冴はそう答えたが、その声には迷いがあった。

 忠相はそこを見逃さない。


「思う、ではなく、どう見た」


 お冴は唇を引き結ぶ。


「家の中の者が直接差したのでなくても、置ける者と通じている手ならば」


「つまり、内通か」


「……」


「お雪か」


 お冴の目が動いた。

 だが、否定もしない。


「お雪は文を書ける女か」


「読み書きはできます」


「この字か」


 お冴は紙へ目を落とした。

 しばらく見つめてから首を横に振る。


「違います」


「なぜそう言える」


「お雪は、もう少し……」


「もう少し何だ」


「感情が筆に出る女です」


 忠相は少しだけ頷いた。


 それはよくわかる。

 この文は感情を削いである。

 怒りや恨みはあるのだろうが、それを見せぬために短く整えている。

 お雪のように“見たこと”に重みを抱えた女の筆ではない。

 もっと、相手を揺らすための文だ。


「片桐は何と言ったか、改めて申せ」


 忠相が問うと、お冴は目を伏せた。


「“若君の耳へ余計なことを入れるな”と」


「それだけか」


「いえ……」


「申せ」


 お冴は少しだけ苦しげな顔になった。


「“昔のことを掘り返せば、また家の外から手が入る”と」


 源之丞が言う。


「また、か」


「はい」


 忠相はその“また”に印をつけた。


 榊原家では、すでに一度か二度、外から同じような手が入りかけたのだろう。

 柏屋の相談覚えを探る手。

 お雪。

 お芳。

 そしてこの文。

 片桐はそれを全部、“また”とひとくくりにしている。

 つまり、昔からこの家は、外へ漏れることを恐れ続けてきた。


「お冴」


 忠相は低く言った。


「若君の前で問う。

 嫡子と直次郎の二人の子が、同じ時期にこの家の中にいたことを、お前は知っていたな」


 お冴は目を閉じた。

 長い沈黙ののち、頷く。


「はい」


「その時、家の中ではすでに“どちらかが若君になる”可能性が話に上っていたか」


 お冴はすぐには答えなかった。

 だが、答えぬままでは済まぬと知っている顔だった。


「……言葉では」


「言葉では、何だ」


「はっきりとは、申されませなんだ」


「だが」


「だが、そういうつもりで周りが動いているのは、見ていればわかりました」


 直之が、そこで初めてはっきり口を開いた。


「私が、最初から“もしもの備え”だったのですか」


 その問いはまっすぐだった。

 若君としての体裁を保ちながらも、もはや自分の傷口を迂回しない。


 お冴は、痛ましげに直之を見た。


「最初は、そこまでではございません」


「最初は」


「預かりのような、縁者筋の子として置かれただけでございます。

 ですが、嫡子様のお加減が悪くなるにつれ、家中の目が……」


「変わった」


「はい」


「では、やはり」


 直之の顔に、奇妙な静けさが広がった。

 怒りでも取り乱しでもない。

 長く薄くあった違和が、ようやく“気のせいではなかった”と確定した時の静けさだ。


「お奉行様」


 直之が言う。


「私は、家の外へ出るべきでしょうか」


 源之丞がわずかに動く。

 お冴も顔を上げる。

 その問いは重い。

 武家の若君が、自分から“家の外へ出るべきか”と問う。

 それはほとんど、家そのものの正統を問うているのと同じだ。


 忠相はすぐには答えなかった。


 今ここで「そうだ」と言えば、この家はその場で割れる。

 「いや」と言えば、また誰かの理屈で直之を押し込める。

 どちらも違う。


「今はまだ、その問いを外へ出すな」


 やがて忠相は言った。


「なぜ」


「お前がその問いを表へ出した瞬間、家中の者は“若君を守るため”か“家を守るため”のどちらかの顔で、一斉に動く」


 直之は黙って聞いている。


「その時、お前自身の考えは置き去りになる。

 近江屋で佐吉がそうなりかけたようにな」


「……」


「まずは、お前が自分でどこまで知り、どこまで耐えられ、何を守りたいのかを定めろ」


 直之は深く息を吸った。

 それから、小さく頷いた。


「わかりました」


 その返事は、ただ従ったのではない。

 いま外へ出れば、また自分以外の理屈で名を決められると、理解した返事だった。


「片桐を呼ぶ」


 忠相が言う。


「いま、この家の火種はあの男の周りにある」


 お冴の顔がさらに強張る。

 直之もまた、目を伏せた。

 二人とも、その名が出ることを待っていたのだろう。


 屋敷を出たあと、源之丞が言った。


「若君が“外へ出るべきか”と聞いた時、少しひやりといたしました」


「私もだ」


 忠相は答えた。


「だが、あれは正直な問いだ」


「はい」


「正直であるぶん、いちばん危うい」


 源之丞は頷いた。


 真を知った者が最初に陥るのは、すべてをひっくり返せば足場が戻るという錯覚だ。

 だが実際には、ひっくり返った先に待つのは空白であることも多い。


「佐吉と同じですな」


「似ている」


 忠相は言った。


「一方は名を奪われた。

 一方は名を与えられた。

 だが、どちらも“自分の足もとを誰かに決められてきた”という点では同じだ」


「二人がもし会えば」


「互いに相手を羨むかもしれぬ」


「あるいは憎むか」


「そうかもしれぬな」


 だが、それでもいつか会わせねばならぬだろうと、忠相は心のどこかで思っていた。

 同じ主題を別の側から生きてきた者同士が、いつか同じ場へ立つ。

 長い物語が深くなる時には、そういう瞬間が必要だ。


 奉行所へ戻ると、佐吉が自分から出てきた。


 まだ口入れ屋の離れへ移して日も浅い。

 だが今日は用があって来たのだろう。

 顔つきが少し違う。


「何だ」


 忠相が問うと、佐吉は少しためらってから言った。


「……紙問屋のこと、教えてもらえますか」


 源之丞がわずかに顔を上げる。


「なぜだ」


「働き口、探すって言ったでしょう」


「うむ」


「だったら、紙とか帳面とか、ああいうもんの近くで生きるなら、何がどう人を傷つけるか、知っといた方がいいと思って」


 忠相はその若い顔を見た。


 被害を受けたから遠ざかるのではない。

 逆に、そこへ手を伸ばそうとしている。

 まだ危うい。

 だが、それは立ち直り方の一つでもある。


「よい」


 忠相は答えた。


「ただし、お前はまだ当事者のまま深く入りすぎるな」


「わかってます」


「本当にか」


「……たぶん半分くらい」


 その答えに、源之丞が小さく鼻で息を鳴らした。

 佐吉も少しだけ口元を動かす。

 こういう軽い揺れが戻ってくるのは悪くない。


「榊原家の若君は」


 佐吉がぽつりと言う。


「やっぱり、俺と似てるんですか」


「似ている」


 忠相は言った。


「だが、同じではない」


「何が違う」


「お前は“戻れぬ”側から見ている。

 あの若君は“今の座が本当に自分のものかわからぬ”側から見ている」


 佐吉は少し考えた。


「……そっちの方が、きついのかもしれませんね」


「そうかもしれぬし、違うかもしれぬ」


「曖昧ですね」


「人の痛みは、簡単に比べてよいものではない」


 佐吉は黙って頷いた。


 その夜、忠相は机に向かい、榊原家の筋を改めて並べ直した。


 嫡子。

 直次郎。

 衣。

 お雪。

 お冴。

 片桐。

 柏屋の相談覚え。

 お芳。

 そして、投げ込まれた一行文。


 ――本当の若君は、どちらだ。


 あの文は、ただ家を揺らすためだけのものではない。

 あれを読んだ若君が、必ず自分の違和へ戻ると知っている者の文だ。

 つまり、単に家の秘密を知るだけでなく、若君本人の心のありかも読んでいる。


 帳面を読む者。

 そして、人を読む者。


 それらが今、榊原家の火種を少しずつ煽っている。


つづく

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