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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第二十六話 若君の違和

 違和というものは、最初から大きな音を立てて胸へ落ちてくるわけではない。


 むしろ厄介なのは、小さすぎて、長いあいだ“気のせい”として扱えてしまう違和だ。

 呼ばれ方が一拍だけ遅い。

 古い者が自分を見る時だけ、目が先に伏せられる。

 幼いころの話になると、皆が妙に同じところで言葉を切る。

 そういう細い引っかかりは、その場では見過ごせる。

 だが何年も積もれば、人の足もとの板を少しずつ浮かせていく。


 お芳とお雪をその夜は奉行所へ留め置いた。


 罪を定めるにはまだ早い。

 だが放しておけば、どちらかがまた勝手に紙を追い、もう片方が別の家の古傷へ手をかけるのは目に見えていた。

 お芳は不満そうではあったが、思ったほど暴れなかった。

 自分の追っているものが、奉行所の手に一度入るとどこまで広がるかを見たいのかもしれない。

 お雪の方は、ようやく誰かに止められて逆に力が抜けたようで、湯を飲ませると静かに眠った。


 翌朝、忠相は少し早く起きた。


 空は薄く晴れている。

 庭の砂利は明るく、井戸の水音は澄んでいた。

 だが胸の内は、近ごろ毎朝そうであるように、晴れきらぬものを抱えている。


 近江屋の一件だけでもまだ尾を引いている。

 そのうえ榊原家。

 お雪。

 お芳。

 そして“最初の紙”。


 物事が一つずつ順にほどけることなど、役所勤めをしていれば期待もできぬ。

 たいていは、一つの糸を引いた途端、別の結び目が見つかる。


 縁側へ出ると、源之丞がすでに待っていた。


「お早うございます」


「お前も早いな」


「眠れぬ夜が続くと、いっそ起きた方が早うございます」


 忠相は少しだけ口元を動かした。


「お芳は」


「起きております。

 勝手に庭を眺めていたので、下の者が慌てて部屋へ戻しました」


「お雪は」


「まだ眠っております」


「よい。

 先に若君だ」


 源之丞は頷いた。


「昨夜のことを、榊原直之にどこまで聞かせます」


「全部はまだだ」


 忠相は言った。


「お雪が何を見たか。

 衣を直したこと。

 片桐という用人筋の名。

 そこまではよい。

 だが“最初の紙”を誰が追っているかまでは急がぬ」


「なぜ」


「若君はまだ、自分の違和が本当に違和であったと知ったばかりだ。

 そこへ一度に外の手まで流し込めば、家の中を見る前に外へ引っ張られる」


 源之丞は深く頷いた。


「たしかに」


「まずは、あの若君自身の口から、何がどこで引っかかっていたかを出させる」


 それが今日の肝だった。


 お雪とお芳の件で外から揺らすことはできる。

 だが、直之がただの“受け手”のままでは、近江屋の佐吉と同じ轍を踏む。

 つまり、誰かの決めた筋に、自分の違和ごと押し流される。

 そうさせぬためには、まず若君自身が、自分の内にあった違和へ言葉を与えねばならない。


 榊原家へ入ると、今日は表の空気からして少し違っていた。


 門番の返答が昨日より硬い。

 廊下で行き交う中間の目線が低い。

 家の中に“何かが起きつつある”時の空気だ。

 まだ破綻はしていない。

 だが、破綻の前に必ず立つ静けさがある。


 案内された座敷には、直之が一人でいた。


 昨日までのように、まず礼で場を整える顔をしていない。

 いや、礼は崩れていないのだが、その礼の前にすでに考え込んだ夜を越えた顔があった。

 目の下の影は昨日より濃い。

 だが視線は逃げない。


「お雪の件、どうなりました」


 挨拶のあと、直之は先にそう問うた。


「生きている」


 忠相が答えると、直之はわずかに息を吐いた。

 その吐き方に、思った以上の安堵が混じっていた。


「それはよかった」


「お前は、お雪をどう思っていた」


 忠相がすぐに問うと、直之は少し驚いたように目を上げた。


「どう、とは」


「ただの下がった女中か。

 それとも、昔のことを知る者として気にしていたか」


 直之はしばし黙った。

 やがて静かに答える。


「幼いころ、あの人はよく私の襟を触りました」


「襟」


「はい。

 べつに不自然なほどではない。

 けれど、着崩れを直すというより、確かめるような手つきで」


 忠相は黙って聞く。


「最初は覚えておりませんでした。

 でも、だんだん大きくなるにつれて、“なぜあの人だけ、衣に触れる時の手つきが違ったのだろう”と」


「そこで違和が残ったか」


「はい」


「ほかには」


 直之は少し考えた。


「家中の古い者が、昔の話をする時、私の幼いころの病や癇癪や怪我の話を、妙に具体に語れぬことです」


「どういう意味だ」


「幼い子というのは、何かしら覚えられているものです。

 転んだだの、熱を出しただの、誰に懐いていたのだの。

 ですが私の“もっとも幼いころ”の話だけ、皆が上手くぼかす」


 源之丞が低く言う。


「まるで、そこに本来お前がいなかったようにな」


 直之は、源之丞を見て、静かに頷いた。


「はい」


 その頷きは痛かった。

 他人に代わって言われるまで、言葉にならなかった感覚がある。

 そして言葉になった瞬間に、もう後戻りできなくなる。


「お雪は、衣を直していた」


 忠相が言うと、直之の視線がわずかに揺れた。


「その布切れは、お前の幼いころの小袖に近い」


「……そうですか」


「驚かぬな」


「驚きたくないだけかもしれません」


 よい返しだった。

 無理に平静を装っているわけではない。

 平静でいたいが、そうもいかぬと自分でわかっている者の返しだ。


「では聞こう」


 忠相は声を少し落とした。


「お前は、いつから“自分が自分としてここにいるのではないかもしれぬ”と思い始めた」


 直之は、今度は長く黙った。


 沈黙の長さは、それが胸の深いところにある証だ。

 浅い嘘ならもっと早く出る。

 だが深い違和は、掘るのに時間がかかる。


「十になるかならぬかのころ」


 やがて、直之は言った。


「その頃、家中で古い箪笥を改めることがありました」


「うむ」


「私のものとして出された小物の中に、子どもの刀袋が一つあった」


「それが」


「私には妙に手に馴染まなかった」


 源之丞が眉を動かす。


「手に」


「そうです。

 幼いころから使っていたものなら、もっと自然にわかるはずなのに、どう持っていたかの記憶が薄い。

 なのに古い中間の一人が、“若様はそれを大そう気に入っておいでだった”と言った」


「違ったか」


「わかりません。

 でも、その時初めて、“自分の幼いころの話が、自分の身体の記憶と少しずれている”と思ったのです」


 忠相は目を細めた。


 衣、襟、小物、古い話、具体を欠く記憶。

 近江屋の佐吉とは違い、直之は若君として整えられた暮らしの中で、その細部に少しずつ違和を感じてきたのだ。


「その違和を誰かに言ったか」


「申しません」


「なぜ」


 直之は少しだけ笑った。

 笑ったといっても、乾いた顔の筋が動いただけだ。


「武家の家で、若君が『自分の幼いころの記憶がずれている』などと言って、誰が素直に耳を貸しますか」


「貸さぬだろうな」


「ええ。

 だから、気のせいだと思うことにしました」


「思えたか」


「その時々は」


「今は」


 直之は真っ直ぐ忠相を見た。


「もう、思えませぬ」


 その言い方には、ようやく定まった固さがあった。

 若君としての整えた礼の下に、人としての棘が生まれ始めている。

 それは危うくもあるが、必要な棘だと忠相は思った。


「お前は、真を知りたいのか」


 忠相が問う。


 直之は少しだけ目を伏せた。


「知れば、いま立っているものが揺らぐのはわかります」


「うむ」


「けれど、知らぬまま座らされている方が、今はもう怖い」


 その答えに、忠相は心の内で小さく頷いた。


 近江屋の佐吉は、“自分が誰か”を知りたがった。

 直之は、“知らぬまま座っていること”を怖れている。

 似ているようで、違う。

 そしてその違いが、そのまま二人の育てられ方の違いでもあった。


「ならば、お前に一つ見せる」


 忠相は懐から、お雪の部屋に残された書き置きの写しを出した。


 ――もし戻らなければ、若君にだけは知らせてほしい

 ――私はあの夜の衣のことを見た


 直之の目が、その二行に止まる。

 読み終わってもすぐには顔を上げなかった。


「……私にだけ、か」


「そう書いている」


「なぜでしょう」


「お前が感じていた違和を、ただの気のせいではないと知っていたからだろう」


 直之はゆっくりと顔を上げた。


「お雪は、どこまで話しましたか」


「まだ多くは」


「では、会わせていただけますか」


 源之丞がすぐに口を開きかけたが、忠相は手で制した。


「今すぐには無理だ」


「なぜ」


「お雪を探っていた手がまだ動いている」


 直之の目が細くなる。


「誰が」


「家の外とも、内とも、まだ言い切れぬ」


「片桐ですか」


 名が先に出た。

 やはり若君の中で、その男はもう疑いの場へ乗っている。


「どうしてそう思う」


 忠相が問うと、直之は少しの間考えてから答えた。


「昔の帳面、縁組の古い控え、家中の細かな出入り。

 そういうものを“見ていてよい立場”にいるのは、片桐だけだからです」


「信じていたのではないのか」


「信じておりました」


 直之は静かに言った。


「けれど、信じている者の中にこそ、家を守るためなら私に何を知らせぬかもわからぬと、昨夜から思うようになりました」


 その言い方は冷たいようでいて、実はようやく正面から物を見始めた者の言葉だった。


 忠相はそこで話題を変えた。


「お前は、もし真が出た時、自分の名が揺らぐことをどう見る」


 直之は一度、深く息を吸った。


「まだ、そこまではわかりません」


「そうだろうな」


「ただ……」


「ただ?」


「いまの名が全部嘘だとしても、ここまで私が生きてきた時間まで全部が嘘になるとは、思いたくない」


 その一言に、忠相は少しだけ目を伏せた。


 近江屋の佐吉もまた、同じところで痛んだ。

 自分の名が動かされたとしても、自分が生きた時間まで消えるわけではない。

 だが人は、そこを簡単には切り分けられぬ。

 だから苦しい。


「それでよい」


 忠相は言った。


「真が出ても、時間まで消えるわけではない」


 直之はすぐには返事をしなかったが、その言葉をきちんと胸へ入れた顔をした。


 そのあと、お冴が別室へ呼ばれた。


 今度は若君を外し、忠相と源之丞だけで向き合う。


「お冴」


「はい」


「お雪は“あの夜の衣”と書いた」


「……」


「“あの夜”とは何だ」


 お冴は目を伏せたまま、しばらく黙っていた。

 昨日までは、この女の沈黙は家の形を守るためのものだった。

 だが今日は、若君の違和がもう若君本人の口から出たあとだ。

 守るべき形が少しずつ崩れている。


「病の峠の夜にございます」


 やがて、お冴は言った。


「嫡子様のお容体が急に悪くなり、乳母も医者も、奥方様も皆そちらへ」


「その時、直次郎は」


「離れへ」


「なぜ」


「同じ屋敷内におれば、いざという時に手が届くようにと」


 やはりだ。

 近江屋も榊原家も、理屈の置き方は違えど、やっていることの根は近い。


「その夜に衣が移されたのか」


 お冴は、今度はすぐに頷かなかった。


「……その夜のうちに、とは申せませぬ」


「では」


「翌朝までに」


 源之丞が低く問う。


「嫡子は」


「身罷られました」


「直次郎は」


「……その後、若君様となりました」


「片桐はどこまで関わった」


 お冴のまぶたが動く。


「家中の細かな取り決め、古い控え、着物と小物の出し入れ、人を下げる順……そのすべてに」


「つまり深く、か」


「はい」


 忠相は頷いた。


 もう十分だ。

 若君の違和。

 衣の移し。

 片桐の関与。

 お雪の動き。

 これで、榊原家の“整えられた若君”の骨はかなり見えてきた。


 座敷を辞する前、直之が静かに言った。


「お奉行様」


「何だ」


「私は、今すぐ片桐を問いただすべきでしょうか」


 忠相は首を横に振った。


「まだだ」


「なぜ」


「お前が家の中で動けば、向こうは“若君を守るため”の顔でまた別の紙を消す」


 直之は、唇を引き結んだ。


「では、待てと」


「待つのではない。見るのだ」


「何を」


「誰が、お前に何を言わせたがるかを」


 直之はゆっくりと頷いた。


 その表情は、昨日よりさらに変わっていた。

 “整えられた若君”の顔の奥に、自分で違和を抱え始めた者の目がある。

 それは危うい。

 だがもう、その危うさを避けて通れぬ段に来ている。


 屋敷を出ると、弥吉が道の陰から出てきた。


「旦那、片桐の筋を少し」


「申せ」


「家と奉行所の間を出入りする表の顔はきっちりしてやす。

 けど古い紙問屋や代書筋にまで顔が利くらしい」


「柏屋の相談覚えにも繋がるな」


「へい。

 しかも、最近は“昔の家の筋を書いた紙を持ってる奴ぁいねえか”って、それとなく聞いて回ってるとか」


 源之丞が眉をひそめる。


「片桐自身も紙を探っている」


「そういうこって」


 忠相は歩を止めた。


 つまり、榊原家の内側で昔の筋を知る片桐。

 外で消された名を追うお芳。

 紙の所在を探る痩せた男。

 お雪やお冴のように“見た者”。

 それらが今、一つの若君の違和のまわりへ集まり始めている。


 ここで誰かが急げば、また一人消える。

 だが遅れても同じだ。


「片桐を呼ぶ」


 忠相が言う。


「表向きは柏屋の相談覚えの件で」


「はい」


「そして若君の前ではなく、まず別で聞く」


「向こうが来ますか」


「来る」


 忠相は静かに言った。


「来ねば、もっと怪しい」


 そのとき、ふと忠相は思った。

 近江屋の佐吉が“自分で戻らないと決めた”ように、榊原家の直之もまた、次の数日でどこへ立つかを選ばねばならぬだろう。

 だが、その前に周りの大人たちがまた紙と理屈で先回りしようとしている。


 それを止めるのが、今の自分の役目だ。


つづく

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