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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第二十五話 女が探す紙

 女が何かを探す時、男とは少し違う。


 男は目当ての品へまっすぐ手を伸ばすことが多い。

 だが女は、まずその品の周りにあるものを見る。

 誰がそれを守っているか。

 どこへしまわれるか。

 どんな顔で名を呼ぶか。

 そういう“品そのものではないもの”を見てから、ようやく本当に欲しいものへ手を伸ばす。


 だから厄介なのだ。

 紙を盗みに来る男より、紙のまわりの人間を見ている女の方が、ずっと深いところへ潜っていることがある。


 翌朝、忠相は榊原家へ入る前に、お雪の残した布切れをもう一度見ていた。


 淡い色の上等な布。

 子どもの衣の袖か襟を詰めた時の端切れに見える。

 町人の子の着るものではない。

 武家の、それも家の中で大事にされる側の衣だ。


 源之丞が脇から言った。


「お冴に見せますか」


「見せる」


 忠相は答えた。


「ただし、いきなり『これは誰の衣だ』とは聞かぬ」


「まず何を」


「直した者の手つきが思い浮かぶかを問う」


「物からではなく、人から入るわけですな」


「うむ。

 物は言い逃れができる。

 だが、長く同じ衣を扱った者は、布の取り方や仕立て直しの癖に、自分でも気づかぬ記憶を乗せている」


 源之丞は深く頷いた。


 榊原家の奥向きへ通されると、昨日より空気が張っていた。


 あからさまに騒ぎがあるわけではない。

 だが、人が一人消え、古女中の名が役所の口にのぼり、しかもそれが若君の昔へ触れ始めているとなれば、家の中が落ち着いているはずもない。

 廊下を行き交う女中の足が少し速い。

 襖の開け閉めが妙に静かだ。

 そういう小さな変化が、奥向きの不安をよく語る。


 今日は直之も、最初から座敷にいた。


 昨日と同じく礼は整っている。

 だが目の下にはうっすら影があった。

 眠れていないのだろう。

 それでも身なりを崩さぬところが、この若君の育てられ方をよく見せていた。


「お雪が消えたと聞きました」


 直之が、先にそう言った。


「もう耳に入ったか」


「お冴から」


 忠相は頷いた。


「なら話は早い。

 お雪は“衣のことを見た”と言い残している」


 その一言で、直之の指先がわずかに動いた。


 気づくか気づかぬかの動きだ。

 だが忠相は見逃さない。


「衣、でございますか」


「そうだ。

 そしてこれは、お雪の部屋から出た布切れだ」


 油紙に包んだ布を開いて見せると、直之はすぐには手を伸ばさなかった。

 かわりに視線だけが吸い寄せられる。

 その視線の寄せ方が不自然だった。

 見覚えがある者の目だ。

 だが、どこで見たかまでは言葉になっていない。


「お冴を」


 忠相が言うと、直之は少しだけ目を伏せ、それから頷いた。


 ほどなく、お冴が入ってくる。

 昨日よりさらに顔色が悪い。

 だが背筋は崩さない。

 この女は最後まで“家の中の形”を守るだろう。

 問題は、その守りがどこで破れるかだ。


「布を見せる」


 忠相が言うと、お冴は黙って目を落とした。


 布切れを見た瞬間、その睫毛がぴくりと震える。

 やはりそうだ。

 ただの上等な布ではない。

 この家の中の、具体の記憶へ繋がっている。


「見覚えは」


 お冴はすぐには答えなかった。

 忠相は待った。

 こういう時の沈黙を急かすと、逃げ道を与えるだけだ。


「……ございます」


 やがてお冴は言った。


「どの衣だ」


「若君様が幼いころ、お召しになっていた小袖の端と似ております」


 直之の目が上がる。


「“似ている”か」


 忠相が問うと、お冴は苦しげに頷く。


「まったく同じとまでは申せませぬ。

 けれど、色の取り方、裏の布の合わせ方、襟を詰めた形……見覚えがございます」


「襟を詰めた」


「はい」


「なぜ詰める」


 お冴はそこで口を閉ざした。


 源之丞が低く言う。


「子どもの衣を別の子に着せる時だな」


 お冴の顔が引きつる。


「……」


「違うか」


「違う、と言い切れませぬ」


 そこまで出れば十分だ。

 近江屋では死んだ子の衣と小物が移された。

 榊原家でもまた、同じことがあった。

 しかもそれをお雪が“見た”だけでなく、おそらく直しにも関わった。


「お雪はその時、何をした」


 忠相が問う。


「若君様に着せるため、裾と襟を……」


 お冴はそれ以上言えず、目を伏せた。


 直之はじっと聞いていた。

 目立って動揺はしない。

 だがその静けさは、昨日までの整えとは違っていた。

 何かが一つずつ、もう逃げられぬ形になっていくのを受け止めている静けさである。


「若君」


 忠相は言った。


「この布に見覚えは」


 直之は少し考えた。


「……幼いころ、私の衣の中に、妙に肌へ合わぬものがございました」


「合わぬ」


「見た目ではなく、着た感じです。

 最初から私のために誂えたものではないような。

 子どもにそんな理屈はわかりません。

 けれど、何度か、そう思った記憶があります」


「誰かに言ったか」


「申しませんでした」


「なぜ」


 直之は、小さく苦笑した。


「そういうことを言うと、まわりの空気が一度止まる家でした」


 その言い方は、あまりに正確だった。

 何か一つ、家の沈黙へ触れるようなことを言うと、皆がそれを“なかったこと”にしようとする。

 そういう家に育った者の言葉だ。


「お冴」


 忠相は再び女中へ向いた。


「お雪は、ただ見ただけではないな。

 その直しに手を入れた」


「……はい」


「なぜ今、そのことを外で探り始めた」


 お冴はしばらく黙ってから、絞るように言った。


「若君様が、ご自分で昔のことを薄く感じておいでだと、お雪も知っていたからです」


「知っていた」


「はい。

 時おり、表へは出ない古い話を、若君様が妙なところで拾ってこられることがありました。

 “どうして昔の乳母は皆いなくなったのか”とか、

 “なぜ自分の古い衣はほとんど残っていないのか”とか」


「それでお雪は」


「このままでは、誰かが別の形で先に口を入れると思ったのでしょう」


 源之丞が言った。


「先に真を拾わせる前に、自分で探り始めたか」


「……はい」


 忠相はそこで、ようやく一つの図をはっきり見た。


 お雪は、昔を見てしまった側の女だ。

 長く口を閉ざしてきた。

 だが若君が薄く感づき始めたことで、今さらながら“本当に何があったのか”を自分の手で確かめようとした。

 そのために柏屋へも行き、紙の筋を探った。

 だがそれは、別の誰かに先に嗅ぎつけられていた。


「お冴」


 忠相は低く問う。


「お雪を呼び出した手に心当たりは」


 お冴は、もう否定しなかった。


「……ございます」


「誰だ」


 お冴は直之を一度見た。

 若君はまっすぐに頷いた。


「申せ」


 その一言に、お冴の顔が決まる。


「家中の古い用人筋に、片桐という者がございます」


 源之丞がすぐに反応する。


「用人」


「はい。

 表の勘定や出入り、古い記録の扱いに長く口を出しておりました」


 忠相は頷いた。


 帳場ではない。

 武家屋敷での“帳場に似た者”。

 家の体面、勘定、書付、縁組の細々を実際に動かす者。

 近江屋でいえば弥兵衛にあたる役だろう。


「片桐は今もいるか」


「おります」


「若君の立つ前から」


「はい」


「では、榊原家の“整えられた名”の筋を誰より知っている」


 お冴は苦しげに頷いた。


「そうでございましょう」


 直之は、そこで初めてはっきりと顔色を変えた。

 昨日までの静かな違和ではない。

 自分の足もとにあった薄い板の下から、ようやく具体の人間が出てきた時の顔だ。


「片桐……」


 その名をどう口にしてよいかわからぬ響きだった。

 長く近くにいて、だからこそ疑う筋ではなかったのだろう。


「若君」


 忠相が言う。


「お前はその男をどう見ていた」


 直之はしばらく答えなかった。


「……厳しいが、家のことをよく知る人だと」


「今もか」


「わかりません」


 その“わかりません”は正直だった。

 人は、自分の育った家の中にいる者を、急には悪と断じられない。

 たとえその者が、自分の名が整えられる過程に深く関わっていたとしても。


「お雪を探る」


 忠相が言った。


「そして片桐も」


 源之丞が頷く。


「今すぐに」


「うむ。

 だが若君の家の中を荒立てるな。

 まずは表向きの用で呼び出す」


「柏屋の古い相談覚えの件で」


「そうだ」


 直之がそこで口を開いた。


「お奉行様」


「何だ」


「お雪がもし……」


「まだ死んだとは言わぬ」


「……はい。

 でも、もし私のせいで、昔のことを知る人がまた一人消えるのなら」


 そこまで言って、直之は一度唇を結んだ。


「私も、ただ知らぬ顔でこの家に座っているわけにはいきません」


 忠相はその顔を見た。

 近江屋の佐吉とは違う形だが、この若君もまた、いよいよ“自分の足もとを自分で問う側”へ寄り始めている。


「焦るな」


 忠相は言った。


「今、お前が勝手に立てば、家中はそれを押さえに動く」


「ですが」


「だからこちらが先に線を引く」


 直之は静かに頷いた。

 まだ若君のままの所作だった。

 だが、その中に昨日まではなかった刺が少しだけある。

 それでよかった。


 榊原家を辞したあと、源之丞が言った。


「片桐、でございますか」


「うむ」


「近江屋の弥兵衛にあたる男ですな」


「そう見るのが自然だ」


「そして今も家中に残り、若君のまわりを固めている」


「だから厄介だ。

 昔のことを知り、今の秩序を守る理屈も持っている」


 弥吉が後ろから走って合流した。


「旦那!」


「何だ」


「お雪の居場所、少し見えやした!」


「どこだ」


「川沿いの古い仕立屋跡で」


 源之丞が言う。


「また空き家か」


「へい。

 ただし今度は一人じゃなく、例の年増の女と一緒です」


 忠相の目が細くなる。


「痩せた男は」


「見えねえ。

 けど女はいた。

 お雪と二人で何か紙を見てるって」


 女が探す紙。

 その正体が、いよいよ見えてきた。


 男が古い相談覚えや帳面の所在を探る。

 女は、そこに記された“消された名”の側へ立つ者を集め、あるいは言葉を交わしている。

 ただの共犯ではない。

 目的が少し違うのだ。


「行くぞ」


 忠相が言うと、三人はすぐに路地を折れた。


 夕闇はもうかなり濃い。

 川の匂いが増し、湿った木の臭いが鼻へ残る。

 仕立屋跡は細い路地の奥にあり、戸は閉まっているが、障子の向こうに灯が一つだけ動いていた。


 弥吉が小さく囁く。


「中で話してやす」


 忠相は戸に耳を寄せた。


 お雪の声がする。

 怯えと、怒りと、迷いが混じった声だ。


「若君に知らせれば、あの方が壊れる」


 それに答える年増の女の声は、低く、妙に静かだった。


「壊れるのは、知らぬまま座らされてきたからだよ」


「でも、全部をぶつけたら……」


「全部をぶつける必要はない。

 名がどう消されたか、その最初の紙さえあればいい」


 忠相の目が細くなる。


 紙を探す理由は、若君へ真を見せるためか。

 いや、それだけではないだろう。

 だが少なくとも、この女は“消された名”をただ集めて回るだけではなく、それを当人へ返すことも考えているらしい。


 そこが、痩せた男とも違う。


 忠相は戸を開いた。


「その紙は、何のために要る」


 中の二人が一斉にこちらを向く。


 お雪は蒼白になる。

 年増の女は、驚きもせず、ただ静かに忠相を見返した。


 その目には敵意もある。

 だが、もっと別のもの――長く積もった倦みのようなものも見えた。


「奉行様は、紙を取り上げて終わりになさるのかい」


 女が言う。


「終わらせるために来たのではない」


 忠相は答えた。


「なら、消された名をどうするつもりで」


 その問いに、忠相はすぐには答えなかった。

 答えられる段ではない。

 だが、逃げることもまた違う。


「少なくとも、お前たちの好きなように、若君や佐吉の人生を次の紙で決めさせるつもりはない」


 女は少しだけ口元を動かした。

 笑ったとも、呆れたともつかぬ表情だった。


「……やっぱり奉行様は、切るより線を引く方の人だね」


 その言い方に、忠相は目を細める。


 この女は、ただ家々の古傷を知るだけではない。

 こちらの裁き方まで、どこかで見ているかのような口ぶりだ。


「名は」


 忠相が問うと、女は少しだけ間を置いて答えた。


「お芳と呼ばれてるよ」


 本名ではあるまい。

 だが、今はそこまででよい。


「お雪をどうするつもりだった」


「どうもしないさ。

 この人はようやく、自分が見たものに言葉をつけようとしてるだけ」


「紙は」


「榊原家が最初に直次郎を“若君として整える”相談をした筋を知りたい。

 そうすれば、若君がどこから“若君”になったか、紙の上で見えるからね」


 やはりだ。

 女が探す紙は、金の筋ではない。

 名がどこで書き換えられたか、その最初の紙である。


 お雪が小さく言った。


「私は、若君に全部をぶつけたいわけじゃない……」


「だが、このまま何も知らない顔をさせたくもない」


 お芳が言葉を継いだ。


「だから紙が要る。

 人の口は逃げる。

 でも最初の紙だけは、誰がどこでその子を“別の名にするつもりだったか”を残してる」


 忠相は二人を見た。


 片や、見てしまった女。

 片や、消された名を追う女。

 どちらも家の秩序の外にいる。

 だが、やろうとしていることは危うい。

 紙を返すことが、そのまま人を救うとは限らないからだ。


「お雪」


 忠相が言う。


「お前は、若君に知らせたいのか」


 お雪は震えながら頷いた。


「はい」


「何を」


「……あの方が、ご自分で感じていた違和が、ただの気のせいじゃなかったことを」


 その答えは、まっすぐだった。

 復讐でも、銭でもない。

 ただ、自分が見たことに、せめて名をつけたい。

 そういう女の答えである。


「ならば、勝手に動くな」


 忠相は言った。


「今ここで紙を集め、若君へ突きつければ、向こうの家はまた同じように人を消す」


 お芳が静かに笑う。


「だから奉行様の線引きを待てと」


「そうだ」


「待ってる間に、また紙が燃えるかもしれないよ」


 その言葉は痛かった。

 だが、痛いからといって急げばよい話でもない。


「燃やさせぬ」


 忠相は短く言った。


 お芳はしばらくその顔を見ていた。

 やがて、お雪を見、それから小さく肩をすくめる。


「……しょうがないね」


 とりあえずこの夜は、それで収まった。

 だが、これで終わるわけではない。


 お芳という女。

 消された名を追い、最初の紙を探し、家々の昔に食い込んでいる。

 しかも榊原家だけではなく、近江屋や柏屋の筋にも匂いがある。

 彼女がただの一件の共犯でないことは、もうはっきりしていた。


 そして何より――

 佐吉と直之。

 名を動かされた若者たちが、それぞれ違う形で“自分の足もとの違和”へ手を伸ばし始めている。


 第二章は、もう後戻りできぬところまで来ていた。


つづく

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