第二十四話 佐吉の選び
選ぶということは、いつも勇ましいものとは限らない。
人はよく、自分で道を選ぶというと、何か大きな決意や、胸を張った一歩を思い浮かべる。
だが実際には、選びというものはもっと頼りない。
戻りたくない。
けれど、どこへ行けばよいかもわからない。
そのわからなさの中で、それでも「前と同じ形には戻らぬ」とだけ決める。
その程度の細い意志でも、人が誰かに決められた道から外れるには十分なことがある。
空き蔵で痩せた男と年増の女、お雪を押さえた夜は、奉行所へ戻るころにはかなり更けていた。
お雪は衰弱していたが、気丈に口を結んでいた。
痩せた男は、いくらか芝居がかったところのある手合いで、紙や筆や人の昔にやたら詳しい。
年増の女はそれより厄介だった。
言葉を濁しながらも、相手の胸にいちばん痛いところを選んで差し込んでくる。
しかも「消された名を集めている」と口にしたその声音には、ただの金儲けや脅しではない色があった。
だが、その詮議は夜のうちに急ぎすぎるべきではない。
とくにお雪は、今ようやく踏みとどまっている。
下手に詰めれば、榊原家の昔を知る貴重な口が、また怖れの方へ閉じてしまう。
だから忠相は、二人を別室へ分けて置き、お雪には湯と食を与えたあとで無理に問いを重ねさせなかった。
その代わり、もう一つの細い糸――佐吉のことを先に動かすことにした。
佐吉は、近江屋を見届けてから、奉行所に置かれていても落ち着かぬ様子が増していた。
静かではある。
逃げ出しそうな騒ぎ方はしない。
だが、静かだからこそわかる種類の居心地の悪さがある。
奉行所は匿うにはよい。
だが、暮らすところではない。
保たれることと、生きることは違う。
そして佐吉もまた、もうそこへ気づき始めていた。
翌朝、忠相は縁側の先に薄い日差しが差し始めたころ、源之丞を呼んだ。
「口入れ屋の離れはどうだ」
「使えます」
源之丞が答える。
「町外れで、余計な目も少なく、奉行所からもそう遠くない。
主人は口が堅く、以前にも身を隠したい者を置いたことが」
「よい。そこへ佐吉を移す」
「もう、にございますか」
「うむ。
ここに長く置けば、“保たれること”に慣れる。
あやつには、少しでも自分で立つ側へ寄せねばならぬ」
源之丞は黙って頷いた。
武骨な男だが、こういう時の忠相の考え方には慣れている。
「ただし、一人で放るのではない」
「お縫、でございますか」
忠相は少しだけ口元を動かした。
「お前もだいぶ目が早いな」
「近ごろ、あの娘の顔を見ればわかります」
「わかるか」
「生きている顔を見たい者の顔と、見たあとで放っておけぬ者の顔は、似ているようで違います」
忠相はそれ以上は言わなかった。
お縫を呼ぶと、娘はすぐに来た。
昨夜からろくに眠っていないのだろう。
目の下に影はあるが、それでも顔を上げている。
若い者のこういうところは強い。
「佐吉を、しばらく口入れ屋の離れへ移す」
忠相が言うと、お縫は一瞬だけ驚いたが、すぐに頷いた。
「奉行所より、そっちの方が」
「人が息をしやすい」
「……はい」
「会うか」
お縫は唇を引き結び、それから小さく答えた。
「会いたいです」
「なぜ」
前にも似たことを聞いた。
だが理由は、時が少し進めば変わる。
「前は、生きてる顔を見たかった」
お縫は言った。
「今は」
「今は……あの人が、自分でどこに立つか決める時に、ひとりでいてほしくないです」
忠相は頷いた。
よい答えだった。
依存でも、哀れみでもない。
“決める時に一人でいてほしくない”。
それは相手の足を奪わずに寄り添う言い方だ。
「ただし、お前が決めるな」
「はい」
「戻れとも、母のところへ行けとも、近江屋を恨めとも言うな」
「……わかってます」
「本当にか」
「少なくとも、言いたくても言わないくらいは」
その答えに、源之丞が小さく鼻で息を鳴らした。
少しばかり笑ったのだろう。
お縫はそれにむっとした顔をしたが、言い返さなかった。
佐吉に話をすると、若い男は少しだけ意外そうな顔をした。
「奉行所から出ていいんですか」
「閉じ込めておく方が不自然だ」
忠相は答えた。
「ただし、好き勝手にどこへでも行けという話ではない」
「わかってます」
「口入れ屋の離れへ移る。
そこでしばらく頭を冷やし、自分で考えろ」
佐吉は少し考えてから、ぽつりと言った。
「考えろって、一番難しいですね」
「そうだろうな」
「誰かに決められてた方が、楽だったのかもって思う時があります」
「あるだろう」
「でも、もう前みたいに決められるのは嫌です」
忠相は静かに頷いた。
それで十分だった。
人が本当に選び始める前には、たいていこういう矛盾した言葉しか出ない。
楽だったかもしれない。
でも嫌だ。
その二つが一緒にあること自体が、ようやく自分の意志に触れ始めた証でもある。
離れへ向かう道すがら、江戸の朝はよく晴れていた。
町外れへ近づくにつれ、店の声は減り、代わりに裏庭で菜を刻む音や、洗濯板の水音がはっきり聞こえるようになる。口入れ屋の離れは、表の町から一本入った小さな路地の先にあった。古いが手入れはされている。狭い庭に草木が少しあり、障子は新しく張り替えられている。
人を匿う場所にしては、妙に日当たりがよかった。
「ここなら、夜も静かです」
お峰の口入れ屋の女将が言った。
以前も少し出たことのある、あの細身の女である。
目は相変わらずよく利く。
だが今日は、佐吉を見る目に商売だけではないものが混じっていた。
「ややこしい身の上は珍しくないけれど、ここまで自分の足場をひっくり返された若いのは、そうそういませんよ」
佐吉は苦笑した。
「慰めになってるのか、それ」
「ならなくてもいいんです。
ただ、あんたが特別におかしいわけじゃないと知っときな」
その言い方はぶっきらぼうだが、悪くない。
お峰なりの気遣いなのだろう。
部屋へ入ると、佐吉はしばらく中を見回していた。
六畳ほど。
文机が一つ、布団が一組、小さな棚が一つ。
近江屋の奉公人部屋より広いわけではない。
だが、“誰かの都合の中へ置かれた部屋”ではなく、“とりあえず自分がいるための部屋”として見ると、空気が違う。
「どうだ」
忠相が問うと、佐吉は少し迷ってから答えた。
「……変な感じです」
「何が」
「狭いのに、広く見える」
忠相はわずかに口元を動かした。
「自分でどう使ってよいかわからぬからだろう」
「そうかもしれません」
お縫は黙ってそこにいた。
すぐに話しかけもしない。
その距離感は、思ったより悪くないと忠相は見た。
「では、私は戻る」
忠相が言うと、佐吉は少し慌てたように顔を上げた。
「え」
「ずっとここにいるわけにはいかぬ」
「……ですよね」
「ただし、何かあれば源之丞を通せ。
勝手に姿をくらますな」
「また消えたら怒りますか」
「怒る」
きっぱり言うと、佐吉は少しだけ笑った。
ほんの小さな笑いだったが、近江屋の帳場で見せていた苦い顔よりはいくらか若い。
忠相と源之丞が離れを出てしばらくすると、お縫も外へ出てきた。
「残らぬのか」
忠相が問うと、お縫は首を振った。
「最初からずっといたら、息が詰まりそうだったので」
「誰が」
「……たぶん、私もあの人も」
それは賢い判断だった。
若い娘にしては、よく抑えがきいている。
「また来ます」
お縫はそう言った。
「その方がよい」
忠相は答えた。
「ずっと見張るように寄り添えば、相手は選ぶ前に甘える」
「わかってます」
「本当にか」
「奉行様、最近それ好きですね」
少しだけ棘のある返しだった。
だがその棘の軽さに、忠相はお縫も少し緊張が抜けてきたと見た。
奉行所へ戻ると、弥吉が待ち構えていた。
「旦那」
「お雪か」
「まだ見つかりやせん。
けど、例の年増の女について、もう少し」
「申せ」
「柏屋で紙を見てた女、榊原家筋だけじゃなく、別の家の古女中とも繋がってるって噂が」
源之丞が眉をひそめる。
「別の家」
「へい。
寺社の檀家筋だったり、旗本の内証だったり、家の“見せたくねえ紙”に匂いが出ると、その女がどこかしらで嗅ぎつけるって」
忠相は静かに机へ手を置いた。
やはり、一件ではない。
近江屋。
榊原家。
そしてまだ見えていないほかの家々。
消された名、動かされた養子筋、書き換えられた血の筋を、この女は追っている。
「目的は」
源之丞が問う。
「まだ絞れませぬ」
弥吉が肩をすくめる。
「銭だけなら、こんな面倒なことはしねえ。
恨みだけでも、家を一つ狙やあいい。
けどこの女は、あちこちの“消された名”を集めてる」
「集めて、どうする」
忠相は低く言った。
それが一番の問いだった。
ただ暴きたいだけか。
家々を壊したいのか。
それとも、自分自身がその“消された名”の側の人間で、同じ理屈の下に踏みにじられた者たちを集めているのか。
「旦那」
弥吉が続ける。
「お雪の部屋から、もう一つ細けえもんが出やした」
「何だ」
「布切れで。
若君の衣を直した時の端切れみてえなんで」
源之丞が顔を上げる。
「衣」
「へい。
お雪は“衣のことを見た”って残してやしたろ。
たぶん、ただ見ただけじゃなく、直しにも手を入れてる」
忠相はその布切れを受け取った。
淡い色の上等な布で、たしかに町人の着るものではない。
しかも古びてはいるが、ただの古着ではなく、子どもの衣の袖口か襟元を詰めた時の端に見える。
「これは要る」
忠相が言う。
「お冴に見せれば、何を直したものか出るかもしれぬ」
「若君本人にも、で」
源之丞が問う。
「まだだ」
忠相は首を横に振った。
「若君は薄く感づいている。
だからこそ、物証をいきなり見せれば、向こうの沈黙が先に壊れる」
「では先にお冴」
「うむ」
その時、ふと忠相は思った。
近江屋の佐吉。
榊原家の直之。
どちらも、自分の名と足場が“誰かに整えられた”者たちだ。
だが一方は商家の奉公人として育ち、一方は武家の若君として育った。
同じ“消された名”でも、その上に着せられた暮らしの形はまるで違う。
だから読者なら――いや、人なら当然、片方を不幸で片方を幸運と見たがるだろう。
だが本当は、そんなに単純ではない。
あまりに整った名の中で生きることもまた、一種の監獄になりうる。
その夕刻、忠相は一度だけ口入れ屋の離れへ様子を見に行かせた。
戻った下役の報せによれば、佐吉は部屋の中でほとんど動かず、ただ文机の前に座っていたという。
お縫は一度だけ行き、湯を置いてすぐ帰ったらしい。
それでよい。
最初は、そのくらいでよい。
「旦那」
源之丞が言った。
「佐吉のこと、お気にかかりますか」
「かかる」
「近江屋の一件だけで済まぬと」
「うむ」
忠相は答えた。
「榊原家を見れば、あやつもまた自分のことを別の目で見直すだろう。
“自分だけではない”という慰めもある。
だが同時に、“こういう理が江戸にはいくつもある”と知れば、怒りの向け先はもっと広がる」
「それが悪い方へ転ぶと」
「嘉兵衛のような手に、拾われやすくなる」
源之丞は黙って頷いた。
だから佐吉には、いま、自分で立つ場所が要る。
近江屋でもない。
母のもとでもない。
奉行所でもない。
その途中の、まだ名の決まらぬ場所だ。
夜、忠相は一人で布切れと柏屋の書付を見比べていた。
消された名。
移された衣。
紙を探る男。
人を見張る女。
若君の違和。
お雪の消失。
第二章の筋は、もう近江屋の後始末だけではない。
江戸の中に、同じ理屈で守られてきた家々の影が見え始めている。
そしてそれを一つずつ掘り起こそうとする手が動いている。
その手は、真を明かしたいのか。
それとも、真を使って家々を切り崩したいのか。
まだそこまでは見えぬ。
だが少なくとも、次に動くべきところはわかっている。
お雪が見た衣。
それを直した女の手。
その手が何を縫い合わせ、何を切り離したのか。
そこを見れば、榊原家の“名の継ぎ方”はさらに深く見えるはずだった。
つづく




