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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第二十三話 消えた嫡子の乳母

 いなくなった者には、二種類ある。


 自分から姿を消す者。

 誰かに消される者。


 そして本当に厄介なのは、そのどちらとも言い切れぬ場合だ。

 人は追われれば逃げるし、逃げればなお追われる。

 だから後から足跡だけを見ても、それが逃亡なのか連れ去りなのか、簡単にはわからない。

 ただ一つ確かなのは、消えたこと自体がすでに誰かの意志を含んでいるということだ。


 橋向こうの長屋へ着いた時、空はもう夕闇へ足を踏み入れていた。


 日が落ちきる前の江戸は、いちばん人の気配が濃い。

 飯の匂いが漂い、桶を打つ音が止み、代わりに戸を閉める音と、子どもを叱る声と、湯屋へ向かう足音が重なる。

 そういう刻限に、人が一人いなくなる。

 それは目立つようでいて、意外と誰もはっきり見ていないものでもある。


 お雪の借りていた部屋は、長屋の端だった。


 戸は半開き。

 中は狭く、荒れてはいない。

 荒れていないことが、かえって不穏だった。

 引き出しをひっくり返された様子もなく、布団も壁際へ畳んである。

 茶碗は伏せてあり、針箱も閉じてある。

 つまり、ただ急に攫われたというより、いったんは落ち着いて身支度をした者の部屋に見える。


 だが、その静けさの中に一つだけ異物があった。


 机の上に残された紙片である。


 弥吉が指先で示した。


「これで」


 忠相は紙を取った。

 紙そのものはそこらの安いもの。

 筆は女の手ではない。

 文は短かった。


 ――乳母の口は重いほどよい

 ――けれど重すぎれば、墓まで持っていく

 ――今夜、川を渡れ


 源之丞が低く言う。


「呼び出しか、脅しか」


「両方だな」


 忠相は答えた。


「文面だけなら、相手を知る者の手に見える」


「なぜで」


「“乳母”と呼んでいる。

 この女が嫡子付きであったことを、知る者の言い方だ」


 長屋の女房たちから聞き込みをかけると、話はすぐに集まった。


 お雪は夕刻少し前、たしかに一度部屋へ戻っている。

 急いではいたが、走ってはいない。

 戸を閉め、わずかな荷をまとめ、それから外へ出た。

 その際、誰かに引き立てられた様子はない。

 ただ、長屋の井戸端にいた女房が一人、「少し先の角に男が立っていた」と言った。


「どんな男だ」


 源之丞が問うと、女房は首をかしげる。


「痩せてたよ。

 でも顔はよう見えなかった。

 立ち方だけが妙でねえ、町人ってより、どこかでずっと待つのに慣れてる感じ」


 弥吉が鼻で息を鳴らした。


「待ち伏せの立ち方ってわけで」


「うむ」


 忠相は頷いた。


 お雪は誰かに脅されて飛び出したのではない。

 少なくとも最初の一歩は、自分で出ている。

 つまり、この文の相手に“会うべき理由”を持っていたのだ。


「旦那」


 弥吉が部屋の隅から声を上げた。


「針箱の下に、もう一枚」


 出てきたのは、文というより、急いで折っただけの紙だった。

 開けば、そこには女の細い字で、


 ――もし戻らなければ、若君にだけは知らせてほしい

 ――私はあの夜の衣のことを見た


 とある。


 源之丞の顔が引き締まる。


「やはり、そこか」


 忠相は黙って頷いた。


 お冴の口から出た話では、嫡子の衣と小物が後で別の子へ移された。

 その現場を“見てしまった”者として、お雪が外された。

 そして今、お雪自身がそのことを“若君にだけは知らせてほしい”と書き残している。


 つまり彼女は、自分がただ呼び出されたのではなく、戻れぬかもしれぬ場所へ行くと感じていた。


「川を渡れ、か」


 忠相が文面を見直す。


「日本橋から見れば、橋向こうは多い」


 源之丞が言う。


「深川、本所、そのさらに先も」


「だが、お雪は橋向こうに住んでいる。

 その女に“今夜、川を渡れ”と書くなら、日本橋側へ呼んでいるのかもしれぬ」


 弥吉が目を上げた。


「近江屋や柏屋の筋へ」


「あるいは榊原家の側から切り離したい者が、わざわざ町場へ呼び出す」


「面倒になってきやしたね」


「最初から面倒だ」


 忠相は静かに言った。


 ここで筋を整理する。


 お雪は、榊原家の奥向きにいた。

 嫡子の衣が、別の子へ移されるのを見た。

 その後、家を下がった。

 近ごろ紙問屋を探り、榊原家の昔の筋を掘り返そうとしていた。

 そして今、“乳母の口”を知る誰かに呼ばれ、自分の足で出ていった。


 向こうからすれば、始末の悪い女だったのだろう。

 ただ恨みを抱えているだけならまだしも、紙まで探り始めた。

 若君に知らせる気配もある。

 ならば、もう一度だけ口を封じに来る手が出てもおかしくない。


「弥吉」


「へい」


「橋を渡る筋を全部洗え。

 夕刻から今までに、女一人、または痩せた男と連れだった形がないか」


「合点で」


「源之丞、お前は榊原家へ」


「若君へ知らせるので」


「いや、知らせる前にお冴の顔を見る。

 お雪が消えたと知れば、あの女の目がどう変わるか」


「承知」


 忠相自身は、紙片の“今夜、川を渡れ”がどうしても引っかかっていた。


 これは会う場所の指定であると同時に、相手の癖でもある。

 紙で人を動かす者。

 会う場所をぼかしながらも、相手が必ず意味を取れるように書く者。

 近江屋の一件でも見た。

 死人の筆を借りたり、帳面を返せと急かしたり、紙一枚で人の心へ先に手をかける手合いだ。


 そしておそらく今度は、榊原家の“衣”を見た女を動かした。


 奉行所へ一度戻ると、忠相は佐吉のいる部屋へ寄った。

 若い男は、先日近江屋を見届けてから、表面上は少し落ち着いていた。

 だが、“落ち着いた”というより、考えることが増えて静かになっただけかもしれない。


「起きていたか」


「……寝たり起きたりです」


「そういう時は無理に眠らずともよい」


 前にも同じことを言った気がした。

 人の心は、一度聞いた助言でそうすぐに整いはしない。


「何かありましたか」


「榊原家の古女中が一人、動いたあと消えた」


 佐吉は少しだけ目を細めた。


「俺みたいな話ですか」


「似ている」


「……そうですか」


 彼は少し黙ってから、ぽつりと言った。


「俺、自分の名前のことで頭がいっぱいだったけど」


「うむ」


「他の家でも同じみたいなことがあるなら、なんていうか……」


「何だ」


「怒る相手が、一人じゃ足りなくなるなって」


 忠相は、その言葉を静かに受けた。


 若いのに、よく見ている。

 誰か一人を悪人にして終われるなら話は楽だ。

 だが、実際はそうではない。

 家を守る理屈、古い者たちの沈黙、帳場や家老筋の算段、母の事情、家中の面目。

 そういうものが重なって、一人の子の名が動く。


「だからこそ、急ぐ」


 忠相は言った。


「お雪という女が、どこで何を知っていたのかが要る」


 佐吉は小さく頷いた。


「見つかるといいですね」


「見つける」


 そう答えて部屋を出ると、ちょうど源之丞が戻ってきた。


「お冴は」


「顔が変わりました」


 やはりそうか、と忠相は思った。


「どう変わった」


「最初は知らぬで押し通す顔でした。

 だが、お雪が消えたと告げると――“遅かった”と」


「遅かった、か」


「はい。

 そして、それ以上は口をつぐみましたが、完全に知らぬ者の顔ではありませぬ」


 忠相はしばし考えた。


 お冴は知っている。

 お雪が危ういところへ足を踏み入れていたことを。

 そしておそらく、その相手が誰かも薄く読んでいる。

 だが若君の前では言えぬ。

 家の奥にいる者の沈黙は、表の男たちよりしぶとい。


「若君は何と」


「直之殿は、言葉少なでした。

 ただ、お雪を探してほしいと」


「理由は」


「“昔のことを知る者が、また一人勝手に消えるのは見たくない”と」


 忠相は少しだけ目を伏せた。


 若君はもう、かなり近くまで来ている。

 自分が誰であるかを知りたいというだけでなく、そのためにまた誰かの口が塞がれるのを嫌がっている。

 そこが、近江屋の時の佐吉と少し違う。

 佐吉は自分の足場を失って立ち止まった。

 直之はまだ家の中に立ちながら、その足もとが薄いと知っている。

 だから、周りの者の消え方に敏い。


 その夕刻、弥吉が戻った時には、かなり夜に近づいていた。


「どうだ」


 忠相が問うと、弥吉は珍しく表情を崩さなかった。


「橋向こうの渡し筋で、見たってのが一人」


「誰を」


「お雪らしい女と、痩せた男。

 ただし並んでじゃねえ。

 女が先で、男は少し遅れて」


「どちらへ」


「日本橋側へ」


「そこから先は」


「見失った。

 けど、渡し守が言うには、女は男の方を一度も振り返らなかったそうで」


「追われていたのではなく、わかっていて渡ったか」


「そう見えます」


 忠相は机を軽く叩いた。


 ならば、お雪は相手の素性にある程度見当をつけて会いに行ったのだ。

 脅されて無理やり、ではない。

 だがその先で何が待つかまでは、たぶん読めていなかった。


「渡った先は」


「紙問屋筋へ行くなら柏屋の方。

 けど、古い貸蔵や空き家も多い」


「柏屋か、榊原家か、あるいはその間だな」


「へい」


 忠相は立ち上がった。


「行くぞ」


 源之丞がすぐに動く。


「どちらへ」


「柏屋から榊原家のあいだを洗う。

 お雪が動く理由は、紙と若君の二つしかない」


「はい」


「そして痩せた男がいるなら、必ず紙か言葉を使っている」


 夜の日本橋は、昼とは別の町に見える。


 店々の戸は閉まり始め、明かりは低くなり、人の声も昼の勢いを失う。

 その代わり、裏へ回る道、蔵と蔵のあいだ、空き地の脇、屋根の影といったものが急に目立ち始める。

 紙で人を動かす者には都合のよい時間だ。


 柏屋の裏手を改めていた時、弥吉が小さく合図した。


「旦那」


「何だ」


「この路地、見覚えのねえ草履跡が二人分」


 忠相とかがみ込む。

 女の浅い草履跡と、細い男の跡。

 新しい。

 しかも歩幅が揃っていない。

 女が先を歩き、男が少し後からついている形に見えた。


「ここを抜けた先は」


 源之丞が答える。


「古い仕出し屋の空き蔵でございます」


「行くぞ」


 息を潜めて近づくと、空き蔵の戸はわずかに開いていた。

 中に灯りはない。

 だが、人のいる気配だけは濃い。


 忠相は戸の隙間から中を見た。


 女が一人、壁際に立っている。

 お雪だ。

 その前に、痩せた男。

 さらに、もう一人――顔を布で隠した年増の女がいた。


 男が言っている。


「紙は見つからなかった。

 なら、お前の口で埋めるしかない」


 お雪の声が、怯えながらも返る。


「若君には関わらせたくない」


「だったら今さら柏屋なんぞへ行くな」


 年増の女が低く言う。


「火の夜を見た者は、黙って消えていればよかったんだよ」


 その声に、忠相は目を細めた。

 この女だ。

 柏屋の店先で紙ではなく人を見ていた目。

 男と違い、狙いは書付だけではない。

 “知っている女たちを消す”ことにも躊躇がない手だ。


 忠相は戸を押した。


「そこまでだ」


 空き蔵の空気が一気に凍る。


 お雪が振り向く。

 痩せた男が舌打ちし、年増の女は動かなかった。

 その動かなさがかえって不気味だった。


「また紙で済ませるつもりだったか」


 忠相が言うと、痩せた男は苦く笑った。


「紙が一番きれいですからね」


「お前は誰だ」


「まだ名が要りますか」


「ここではな」


 源之丞が横から回り、弥吉が出口を押さえる。

 逃げ道はない。


 年増の女がそこで初めて口を開いた。


「奉行様は、昔の家のことをずいぶん熱心に掘る」


「お前はその昔の家にいたのか」


「いたことも、なかったこともございます」


 言葉を弄ぶ手合いだ。

 だが、こういう者は言葉の裏に本音を滲ませる。


「榊原家の者か」


 忠相が問うと、女は少しだけ笑った。


「榊原だけではございません」


 部屋が静かになる。


 やはりだ。

 この女は一つの家の古傷を掘るだけではない。

 近江屋も、榊原家も、別々の“名の入れ替え”を追っている。


「何を集めている」


 忠相は低く言った。


 女は答える。


「消された名でございます」


 その言葉は、まるで夜そのものが口を利いたように冷たかった。


つづく

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