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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第二十二話 榊原家の奥向き

 家の奥というものは、表より静かであるぶん、嘘が長持ちする。


 門や玄関や座敷先のように、人の目が集まる場所では、誰もがそれなりに整った顔をする。

 だが奥向きは違う。

 毎日同じ者が同じ時刻に顔を合わせ、誰がどの匙を使い、どの障子を静かに開けるかまで決まっている場所では、少しの違和でも何年も積もれば色になる。

 呼び方。

 目線。

 座る順。

 何でもないように見えるそれが、家の中の真をいちばんよく語る。


 榊原家を辞した日の夕刻、忠相は奉行所へ戻るなり源之丞と向かい合った。


 机の上には、柏屋から出た相談覚えの写し、榊原家の表向きの系譜、古い女中筋から拾った断片の聞き書きが並んでいる。

 どれもまだ細い。

 だが細いもの同士が似た方向へ伸びている時は、たいていその先で何か一つに繋がる。


「若君は、やはり知っている」


 源之丞が先に言った。


「全部ではない。

 だが、自分がすべてを知らされていないことだけは、骨まで染みている顔でした」


 忠相は頷いた。


「うむ。

 “そう教えられてきた”という言い方がそれだ」


「本来そこにいる者の言い方ではありませぬな」


「そうだ。

 生まれながらの居場所は、“教えられた”とは感じぬ。

 感じるのは、途中からその形へ合わせられた者だ」


 源之丞は腕を組んだ。


「となると、榊原家もまた――」


「近江屋とまったく同じではない」


 忠相は遮るように言った。


「そこを急げば目が曇る。

 ただ、病弱な嫡子と、あとから立った若君、その間に紙問屋へ持ち込まれた相談覚え、さらに古い女中筋の沈黙。

 匂いは濃い」


「奥向きを見ますか」


「見ねばならぬ」


 武家屋敷の表は、理で固められている。

 当主、若君、家臣。

 そこに出る言葉は、役目と面目の言葉だ。

 だが奥向きは違う。

 病に伏した子の記憶、乳母の手、女中たちの囁き、夜半に運ばれた薬、衣服の直し、不要になった玩具。

 そういうものの方に、名が動いた痕は残りやすい。


「乳母筋、お雪、および古い女中の動きは」


 忠相が問うと、源之丞はすぐに答えた。


「お雪については、弥吉が張りついております。

 今日のところ柏屋以外には動きませなんだが、夕刻、榊原家の裏通りを一度だけ見に来たと」


「やはり家と紙の両方を見ているか」


「はい。

 また、榊原家の女中筋でいまも奥に残っている者の中に、一人だけ二十年近く勤め続けている年配の女がいるそうです」


「名は」


「お冴と申します。

 いまは奥向きの取りまとめ役に近く、若君の身の回りへも口を出せる立場とか」


 忠相は目を細めた。


 長く残る者。

 しかも若君の近くにいる。

 こういう者は危うい。

 すべてを知っているとは限らぬが、何が言ってはならぬことかだけは、誰よりもよく知っている。


「お冴から入る」


「どうやって」


「正面からは無理だ。

 榊原家に改めて、古い帳面と乳母筋の確認をしたいと告げる」


「向こうが女中を出してくるかどうか」


「出さぬなら、出さぬこと自体が答えになる」


 源之丞は頷いた。


 この日の夜、弥吉が戻ったのは少し遅かった。

 だが戻った顔には、いつもの軽さの下に、きちんと拾ってきた者の色があった。


「旦那」


「お雪か」


「へい。橋向こうの長屋を張ってたんですがね、日が暮れてから一人、そいつんとこへ客が来やした」


「痩せた男か」


「違う」


 弥吉が首を振る。


「女でさあ。

 若くはねえが、町人女にしちゃあ身のこなしが妙に静かで、指先が荒れてねえ。

 奉公上がりか、屋敷勤め筋って感じでした」


「顔は」


「しっかりは見えねえ。けど、お雪の方がその女を迎える時、明らかに下手へ出てた」


 源之丞が言う。


「女中仲間以上か」


「かもしれやせん。

 それで話の端を拾ったんですが、“若君は何も知らないままか”って」


 忠相の指が机を軽く叩いた。


「ほう」


「お雪が“あのお方は感づいておいでだよ”って返してました」


 部屋が静かになった。


 直之はやはり、薄く感づいている。

 自分の周りにある沈黙が、ただの“昔のこと”ではないことを。

 そしてお雪たちは、そのことを知っている。


「その女の名は」


「そこまでは。

 ただ、お雪が最後に“お冴様”って呼んだ気がする、って近所のガキが」


 源之丞がすぐに顔を上げる。


「お冴」


「へい。

 榊原家の奥向きに残ってる古女中筋と、橋向こうのお雪が繋がってるってわけで」


 忠相はゆっくり頷いた。


 これで筋が一本立つ。

 榊原家の奥にいるお冴。

 家を下がったお雪。

 二人は今も繋がり、若君について言葉を交わしている。

 つまり、昔の一件を知る女たちの線がまだ生きているのだ。


「弥吉」


「へい」


「お雪は追いすぎるな。

 向こうにこちらの匂いを嗅がせるな」


「合点で」


「ただし、お冴の動きは朝まで拾え」


「へい」


 翌朝、忠相は榊原家へ改めて使いをやった。


 表向きの筋は単純だ。

 柏屋から失せた相談覚えに、榊原家らしき家の内談がある。

 これについて、古い乳母や女中筋からの確認が要る。

 役所としては筋の通った話である。

 だが榊原家の側からすれば、できれば避けたい申し入れでもある。


 返事は昼前に来た。


 当主は病中にて直接は難しい。

 若君立ち会いのもと、奥向きの古女中お冴からなら話を聞いてよい――というものであった。


「出してきましたな」


 源之丞が言う。


「若君の判断だろう」


 忠相は答えた。


「隠しすぎても怪しまれる。

 だが全部は出さず、まずお冴で様子を見るつもりだ」


「それでも出すのは、若君自身も知りたいからでは」


 その可能性は高かった。

 直之の顔には、昨日、たしかに“自分が何を知らされていないかを知りたい者”の影があった。

 だがその知りたさを、武家の若君らしい礼と静けさの下へ押し込めていた。


 榊原家の奥へ通されたのは、昨日よりさらに内側の座敷である。


 表の応接とは違い、障子の紙はやや柔らかく、床の間の花も派手ではない。香は薄く、薬の残り香がごく微かに混ざっていた。長く病人を抱えていた家の奥には、独特の匂いが残るものだ。


 やがて、直之が現れた。

 昨日と変わらぬ落ち着いた身なり。

 だが今日の顔には、少しだけ覚悟の色がある。

 昨日は様子見。

 今日は、自分の家の奥向きへ役所を通す決断をした者の顔だ。


「お待たせいたしました」


「無理を頼んだな」


「古いことほど、外から問われた方が、かえって口が開くこともございましょう」


 その言い方に、忠相はわずかに目を細めた。


 やはりこの若君は、ただ家の面目を守るだけではない。

 奥に何かあると知りつつ、それを自分の手だけでは開けられぬとわかっている。


「お冴を」


 忠相が言うと、直之は頷いた。


 ほどなく入ってきたお冴は、五十半ばほど。

 背筋は伸び、身なりも崩れない。

 奥向きに長く仕えた女そのものだ。

 顔には疲れも皺もあるが、目だけは妙に静かで、その静けさがかえって頑固さを見せていた。


「お冴にございます」


 頭は下げる。

 だが気圧されてはいない。

 役所の者と向かい合っても、自分がどこまで言うべきか、すでに腹の内で決めている者の顔である。


「古い話を聞く」


 忠相が言う。


「柏屋の相談覚えに、家督と養子に関わる筋が出た」


「ようございます」


「榊原家では、病弱な嫡子ののち、いまの若君が家督筋に立ったな」


「はい」


「その過程に、不自然はなかったか」


 お冴は少しも慌てず答えた。


「不自然、とはどのような」


「病の子があり、遠縁の若君が立つ。

 その間に古い乳母や女中筋が暇を出される。

 相談覚えが紙問屋に残る。

 それらをまとめて見た時の不自然だ」


 お冴のまぶたが、ほんのわずかに動いた。


「昔のことにございます。

 病や縁組や人の出入りは、どの家にも多少は」


「多少、で済まぬから聞いている」


 直之は黙っている。

 だが視線はお冴へ向いていた。

 若君はこの問いの行く先を、自分のこととして聞いている。


「乳母は、なぜ下がった」


 源之丞が問うと、お冴は答えた。


「病身の嫡子様に付いていた乳母は、あの子を喪ってから気を病みました」


「気を病んだから暇を出した」


「はい」


「ほかに」


「ほかに、とは」


「もう一人、幼い子が家の中にいたことは」


 そこで初めて、お冴の顔に明確な揺れが走った。


 ほんの一瞬だ。

 だが、長年鍛えられた女の顔からその一瞬を引き出すには、それだけで十分である。


「……何のことでございましょう」


「お冴」


 忠相は静かに言った。


「知らぬふりを通すには、いまの目は動きすぎた」


 お冴は口を閉ざした。


「近江屋の一件で、私はすでに一度、同じ理を見ている」


「……」


「だから、ここで同じやり方を見せられても、気づかぬと思うな」


 お冴はなお黙る。

 だが、それは拒みきった黙りではなくなっていた。

 自分がどこから崩れるかを恐れている黙りだ。


「若君」


 忠相は、そこで直之へ向いた。


「お前は、昔のことをどこまで知っている」


 直之は少し目を伏せた。


「ほとんど」


「ほとんど、か」


「何も、と申したいところですが、何も知らぬ者ほど、家中の空気に鈍くはなれませぬ」


 忠相は頷いた。


「何を感じていた」


 直之は静かに答えた。


「古い者の一部が、私を“若君”と呼ぶ時と、“お方様”と呼ぶ時とで、声の置き方が違うこと。

 幼いころの玩具や衣服が、私の歳には合わぬものだったこと。

 病で亡くなったはずの方の話をすると、乳母筋より先に帳場筋が固くなること」


 部屋が静かになる。


 近江屋の佐吉と同じだ。

 真を教えられたのではない。

 だが、身の回りの空気が少しずつ“何かを隠している”と教えてくる。


「お冴」


 忠相は再び女中へ戻った。


「若君も、そこまで感じている」


 お冴の顔が苦しげに歪む。

 それは役所への恐れより、直之本人の前で黙ることの辛さに近かった。


「……若君様に、わざわざお耳へ入れるようなことでは」


「もう耳の外にはない」


 忠相は言った。


「外から紙を探る手が動いている。

 柏屋から書付が消えた。

 お雪もまた動いている。

 ここでまだ家の中だけで抱え込めると思うな」


 お冴はそこで、初めて直之を見た。


 若君はまっすぐにその目を受ける。

 逃げない。

 その目だけは、昨日より少し強かった。


「お冴」


 直之が静かに言った。


「私は、昔のことを全部知りたいと言っているのではありません」


 お冴の睫毛が揺れる。


「ですが、今の私が何の上に立っているのかを、何も知らぬままにはいたくない」


 その言葉は、うまく整っている。

 武家の若君らしい、柔らかくも芯のある言い方だ。

 だが忠相には、その整いの下にあるひどく個人的な切実さが見えた。


 お冴は、長いあいだ目を伏せていた。

 やがて、絞るように言う。


「……病で伏しておられた嫡子様のほかに、しばらくの間、奥の隅に置かれた子がおりました」


 源之丞の指がわずかに動く。


「やはりな」


「その子は、遠縁と聞かされました。

 表へは出さず、あくまで家内の世話で預かるだけと」


「名は」


 お冴は答えた。


「……直次郎」


 直之の顔が、ほんの少しだけ動いた。

 “直”の字。

 今の名と遠くない。


「若君とは別の名か」


 忠相が問う。


「はい」


「その子は、嫡子の死後どうなった」


 お冴はそこで黙る。

 今度の黙りは重い。

 近江屋で言えば、火の夜の瞬間に相当する。


「申せ」


「……呼び方が変わりました」


 やはりそうだ。

 榊原家でもまた、呼び方が変わった。


「嫡子は」


「身罷られました」


「直次郎は」


「その後、若君様として立てられました」


 直之は少しも動かなかった。

 だが、その無動作が逆に痛ましかった。

 予想していたかもしれない。

 それでも、こうして口にされるのは別だ。


「なぜ」


 忠相が問う。


 お冴は答える。


「家を残すためにございます」


 近江屋でも聞いた言葉だ。

 だが、同じ言葉でも武家屋敷の中では重みが違う。

 家督、知行、家臣たちの身の振り。

 武家の“家を残す”は、商家の暖簾とはまた別の血を持つ。


「誰が決めた」


「旦那様と、家中の古い方々にございます」


「帳場ではなく」


「武家に帳場はございません。

 けれど、勘定と名代と縁組を見ていた者たちはおりました」


 忠相は頷いた。


 商家なら帳場。

 武家なら家老格や用人筋。

 名を守る理屈の置き場が違うだけで、働きは似ている。


「お雪は何を見た」


 源之丞が問う。


 お冴は深く息を吐いた。


「嫡子様のお衣と小物を、直次郎様の方へ移すのを」


 直之の指が、膝の上で初めてわずかに強く握られた。


「……」


「だから暇を出したのか」


「全部を知ったわけではありません。けれど、見てしまった者を長く置けば、いずれ口が滑る。

 そう判断したのでしょう」


 部屋の空気が静まり返る。


 近江屋と似ている。

 だが違いもある。

 近江屋は火と病の夜に混乱の中で入れ替えた。

 榊原家は、おそらくより整った手つきで、直次郎という子を家の中へ馴染ませていった。


 つまりこちらの方が、咄嗟の苦し紛れではなく、もっと計画的かもしれない。


「若君」


 忠相が言う。


「聞いたな」


 直之はしばらくしてから頷いた。


「はい」


「どう思う」


 直之は目を上げた。

 その目には、昨日までの柔らかな整いとは違うものが差している。

 まだ怒りとも言い切れぬ。

 だが、長く胸の底に沈めていた疑いが、ようやく形を持ち始めた者の目である。


「……やはり、と思いました」


 その声はひどく静かだった。


「けれど、そうであってほしくもなかった」


 お冴が目を閉じる。

 彼女にとっても、それは同じだったのだろう。

 知っていた。

 だが知りたくなかった。

 そして若君にも、知られぬままでいてほしかった。


「お冴」


 忠相は最後に問う。


「直次郎の実の筋は」


 お冴は、ほんの少しだけためらった。


「そこまでは、私も存じませぬ」


「本当にか」


「……ただ」


「ただ、何だ」


「旦那様のご親類筋でも、かなり近いところだと」


 源之丞が低く言う。


「遠縁ではないな」


「はい」


 そうだろう。

 近江屋でも、預かり子が偶然そこにあったわけではない。

 榊原家でもまた、“いざという時に家へ馴染ませやすい筋”から子を置いた可能性が高い。


 表の理屈は遠縁。

 だが実際には、もっと近く、だからこそ家の中で処理しやすい筋。


 忠相は立ち上がった。


「今日はここまでだ」


 お冴が深く頭を下げる。

 直之もまた礼をした。

 だがその礼は、もう昨日までと同じではなかった。


 自分の足場が何でできているかを少し知った者の礼である。


 屋敷を出ると、空はすでに夕方へ傾いていた。

 武家屋敷の塀は長い影を引き、道は静かだ。

 だが静かなほど、いま聞いた話の冷たさが染みた。


「旦那」


 源之丞が歩きながら言う。


「榊原家の方が、近江屋より整っておりますな」


「うむ」


「火や混乱ではなく、最初から“直次郎”という子を置き、衣も呼び名も少しずつ移していった」


「その可能性が高い」


「ならば、紙問屋の相談覚えを欲しがる理由も深い」


「近江屋以上にな」


 忠相は答えた。


 近江屋は十年前の火を掘り返せば揺らぐ。

 だが榊原家は、それよりもっと根に近い。

 “最初から備えとして置かれた子”という筋が出れば、家督の正統性そのものが揺れる。


「お雪を押さえるか」


 源之丞が問う。


「まだ早い」


「では」


「若君自身がどこまで知り、何を選ぶかを見る」


「……危うい橋では」


「うむ。だが武家の家督の話は、本人を飛ばして周りだけで決めれば、また同じことを繰り返す」


 源之丞は黙って頷いた。


 その時、道の向こうから弥吉が走ってきた。

 いつもの軽さはなく、顔も強張っている。


「旦那!」


「何だ」


「お雪がいなくなりやした!」


 忠相の目が細くなる。


「いつから」


「さっき長屋へ戻ったはずが、気づいた時に戸が空で。

 しかも部屋の中、紙片が一つだけ残ってやして」


「どこだ」


「橋向こうの長屋で」


「行くぞ」


 江戸の夕べは短い。

 女が一人姿を消すには十分だ。

 しかも、その女は“見なくていいものを見た”側にいる。


 榊原家の奥向きが開き始めたその日、お雪が消えた。

 偶然と見るには早すぎる。

 誰かが動いたのだ。

 紙を探る男か。

 それとも、家の内側でまだ隠したい者か。


 第二章の歪みは、いよいよ榊原家の中心へ食い込み始めていた。


つづく

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