第二十一話 紙問屋の客
客というものは、金を落とす者ばかりではない。
店へ入って品を買い、礼を言って帰る者なら、商いの側もまだ気が楽だ。
だが、本当に厄介な客は、何も買わず、何も借りず、ただ一つだけ知りたいことを持って入ってくる。
しかも、その知りたいことが、店の品そのものではなく、棚の奥に眠っている古い紙の名残であったならなおさらだ。
日本橋通旅籠町の柏屋は、朝から薄く緊張していた。
紙問屋は、反物商や呉服商ほど派手ではない。暖簾の色も地味で、店先に並ぶ品も、華やかな布ではなく巻紙や奉書や帳面用の紙束ばかりだ。だが、だからこそ出入りする客の顔ぶれは広い。商家の帳場から寺社、武家屋敷の使い、代書、絵師、俳諧師、読経の控えを求める僧まで、紙を使う者は誰もがここへ来る。
そういう店では、何を買うかより、何を見ていくかの方が大事なこともある。
忠相が源之丞とともに柏屋へ入った時、庄兵衛はすぐに飛ぶように出てきた。
「お奉行様」
「昨日のあと、変わったことは」
忠相が問うと、庄兵衛は深く頷いた。
「今朝、また一人……」
「痩せた男か」
「いえ、女にございます」
忠相の目が細くなる。
「どのような」
「三十半ばから四十手前ほど。地味な鼠の着物に、浅い色の帯。町人女と申せばそうも見えますが、物の見方が違いました」
「どう違う」
「紙を見ているようでいて、人の顔色を見ているのです」
源之丞が低く言った。
「手代は怯えたか」
「はい。女は品を選ぶふりをして、こちらへ尋ねました。『昔、養子や跡目の相談で使うような堅い紙はどれだ』と」
忠相はしばらく黙っていた。
やはり、男だけではない。
痩せた男が古い書付の在り処を探る。
女は、それがどのような紙に残されていたかを探る。
同じ獲物を狙っているようで、見ているものが少し違う。
「何と答えた」
「奉書でも檀紙でも、相談書付ならいかようにもと、当たり障りなく」
「女は納得したか」
「いえ……。むしろ、それを聞いたあとで、父の代の古紙を整理していると知ると、急に目つきが変わりまして」
「何か買ったか」
「何も」
「それで帰った」
「はい。ただ、店を出る前に一度だけ、蔵の方を見ました」
忠相は源之丞と視線を交わした。
紙を買う気はない。
相談書付の“形式”だけを確かめ、蔵の位置を見た。
つまり、盗みに来る者のために下見をしたか、あるいは自分で探る前に確かめたか、そのどちらかだ。
「庄兵衛」
忠相は言った。
「その女、前に来た痩せた男と面識があるように見えたか」
庄兵衛は少し考えた。
「直接会ったわけではございません。けれど、手代の一人が申すには、少し離れた通り角で、その女が誰かを待つように立っていたと」
「そのあと」
「しばらくして、例の痩せた男らしき者が紙屋の並びを横切ったとか」
源之丞が言う。
「やはり組んでおりますな」
「あるいは、互いに相手の動きだけは知っておる」
忠相は静かに答えた。
「完全に一つの手とも限らぬ」
柏屋の店先に立つと、午前の町はもう動き出していた。紙問屋の前を、帳場の小僧が束ねた紙を抱えて走り、代書らしき男が袖へ筆を差し、武家屋敷の中間がきちんと折った書付を懐にして急ぐ。江戸では、一日にいくつもの名が紙に乗る。
人の名。
家の名。
亡き者の名。
新しく継がせる名。
それらを一番近くで見ているのが、こうした紙問屋や代書の筋だ。
「店のまわりを改める」
忠相が言うと、源之丞はすぐに頷いた。
「どこを見る」
「客の足だけではない。見ている場所を見る」
庄兵衛が少し戸惑った顔をしたが、忠相は説明しなかった。
物を盗みに来る者は、品を見る。
だが古い書付を狙う者は、店そのものの癖を見ている。
どこに古紙を積むか。
蔵の鍵は誰が持つか。
表から死角になる場所はどこか。
それらが目つきに出る。
忠相はまず、店先から蔵までの導線を見た。
表の間、帳場、裏への引き戸、蔵口。
庄兵衛の父が古い相談覚えをしまっていた箱は、表の喧騒からはやや遠い位置にある。だが柏屋ほどの店なら、蔵の位置は一度でも出入りした者には覚えられる。
店の板間には、砂の薄い足跡が残っていた。
朝から客が多い場所では跡はすぐ混じる。
だが、蔵へ向かう廊下の手前だけ、不自然に壁際へ寄った泥の跡が一つ残っていた。
源之丞がかがみ込む。
「小さいな」
「女の足だろう」
忠相は言った。
「草履の幅が浅い」
「朝の女ですかな」
「その可能性は高い」
庄兵衛が青ざめる。
「まさか、蔵の近くまで」
「近くまで来た。
だが入ってはおらぬ」
忠相は壁際のわずかな擦れを見た。
人は、普段通らぬ場所を歩く時、無意識に壁や柱へ手を触れる。
そこに紙屋の粉とは別の薄い汚れがついていた。
「迷いがある」
「迷い」
源之丞が繰り返す。
「慣れた盗人なら、もっとまっすぐ行く。
この女は見ているが、まだ躊躇している」
「では、紙を欲しいが、盗みに入る腹まではまだ決まっておらぬ」
「あるいは、男任せだ」
忠相は立ち上がった。
「庄兵衛。蔵の見張りを今夜だけ増やす」
「は、はい」
「ただし、露骨にではない。
向こうに“気づかれた”と思わせると、別の手を使う」
「承知いたしました」
店を出たところで、弥吉が裏手からひょいと顔を出した。
「旦那」
「何だ」
「女の筋、ちいと当たりがつきやした」
忠相と源之丞は、そのまま人気の少ない横道へ入った。
弥吉は声を落とす。
「柏屋の前に出た女、たぶん榊原家に昔奉公してた女中筋です」
「名は」
「お雪って名が出やした。今は橋向こうで、仕立物の内職しながら食ってるとか」
「榊原家の奥向きか」
「へい。しかも、若君が立つ前に暇を出された筋で」
源之丞が低く問う。
「自分から下がったのか」
「そこが妙で。表向きは“病身の母を看るため”ってことですが、古い女中仲間に聞くと、“見なくていいものを見た”って顔で消えたそうで」
忠相はわずかに目を細めた。
見なくていいものを見た。
お浜と同じ類の匂いだ。
火の夜を見た者。
入れ替えを見た者。
そういう者は、家の中に長く置かれぬ。
「お雪は今どこに」
「まだ橋向こうに。けど、紙問屋へ出入りしてるってことは、向こうも動き始めてる」
「うむ」
弥吉は続けた。
「ただし女一人じゃない。今朝のあと、痩せた男が紙屋の並びを一度見て、すぐ裏へ引いたって」
「嘉兵衛に似た男か」
「酒焼け声、細長い包み、癖のある歩き方。だいたいは」
「だが嘉兵衛は奉行所にいる」
源之丞が言う。
「似せた別人、か」
「そう見る方が自然だろう」
忠相は答えた。
嘉兵衛は紙で刺す者ではあったが、今は押さえてある。
ならば柏屋を探る痩せた男は別人だ。
しかも“嘉兵衛らしい”風体に寄せているなら、こちらの目を一度近江屋筋へ向けたい意図もある。
「弥吉」
「へい」
「そのお雪を探れ。
ただし、いきなり詰めるな。
向こうから紙問屋へ出たなら、まだ探したいものがある」
「張りつけばいいんで」
「うむ」
弥吉が去ったあと、源之丞が言った。
「榊原家へ入る前に、周りからだいぶ見えてきましたな」
「まだ周りだ」
忠相は言う。
「だが、周りの歪み方を見れば中の形も読める」
「若君本人の顔を見るのはいつに」
「今日だ」
源之丞は頷いた。
「表向きの筋は」
「柏屋から消えた古い相談覚えに、榊原家らしき家の内談がある。
その確認に来た、とする」
「向こうは嫌がりましょうな」
「嫌がるほどよい」
忠相は静かに言った。
「嫌がる理由がどこに出るかで、家の中のどこが痛いかわかる」
榊原家は、日本橋の賑わいから少し離れた、武家屋敷が並ぶ一角にあった。
中級旗本格らしく、門も塀も過不足なく整っている。大名屋敷ほどの威圧はないが、町人が気軽に声をかけられる家でもない。表札の出し方、門番の立ち方、庭木の手入れ、そのどれもが“きちんとした家”を見せていた。
こういう家は、崩れるときも静かに崩れる。
門番へ名を告げると、中へ通るまで少し間があった。
その間の長さが、家中での相談の刻をよく表していた。
何用か。
なぜ今か。
柏屋の名を出した時、誰が顔を変えたか。
それを思うと、門前で待つ間さえ無駄ではない。
やがて通された応接の間で、当主ではなく若君が出てきた。
榊原直之。
年は二十代の半ばほど。
顔立ちは整っているが、派手ではない。
武家の男子らしく背筋は伸び、礼も正しい。
だが第一印象は、源之丞の聞いていた通り“できすぎている”に近かった。
「お初にお目にかかります。榊原直之にございます」
声も落ち着いている。
無駄に低くも高くもない。
相手へちょうどよく届くよう整えられた声だ。
「南町奉行、大岡忠相だ」
「ご高名はかねて」
その挨拶も過不足ない。
だが忠相はそこで、ほんの些細な違和を覚えた。
座る位置。
膝の折り方。
刀への手の寄せ方。
武家として不自然というほどではない。
だが、“幼いころからその座にいる者”の自然さとも少し違う。
教え込まれてきた者のきちんとしさが、わずかに勝っている。
「本日は、近ごろ日本橋の紙問屋より失せた古い相談覚えのことで伺った」
忠相が言うと、直之の目がほんのわずかだけ細くなった。
「相談覚え、でございますか」
「そうだ。家督や養子筋に関わる古い内談らしきものだ」
「……そのような話が、我が家にあるかどうか」
「あると決めてはおらぬ。
だが名が似ている筋が出たのでな」
直之は一度目を伏せ、それから穏やかに顔を上げた。
「もし昔のそのような相談があったとしても、私はまだ若輩にて、すべてを承知しているわけではございません」
言い方はきれいだった。
だが“若輩だから知らぬ”ではなく、“承知しているわけではない”という言い回しが引っかかった。
知らぬと言い切らない。
それがこの若君の慎重さなのか、あるいは昔から周囲の空気に“知らされていない何か”を感じてきた者の癖なのか。
「幼いころより、家督の道にあったか」
忠相が問う。
直之は一瞬だけ間を置いた。
「そう教えられてまいりました」
源之丞がわずかに顔を上げる。
教えられてきた。
本来そこにある者なら、“そのように育ってまいりました”とでも言うところだ。
わざわざ“教えられて”と言うのは、教える側と教わる側の距離を、どこかで意識している証でもある。
「なるほど」
忠相はそれ以上は踏み込まなかった。
「では、古い乳母や女中筋で、今は家を下がった者に話を聞くことはできるか」
ここで、初めて直之の目に小さな揺れが走った。
「……何ゆえ、乳母に」
「古い家の内談は、帳面より人の記憶に残ることがある」
直之はしばし沈黙した。
この沈黙は近江屋のお紺とも、佐吉とも違う。
何を言えば家の面目が保てるかを考える沈黙と、同時に、自分も知らぬところへ話が触れようとする気配を感じて身を固くする沈黙だった。
「もし必要なら、家中へ申しつけます」
やがて、直之はそう言った。
「だが、古い者どもは口が鈍く」
「鈍い口ほど、よく物を覚えている」
忠相がそう言うと、直之はごくわずかに口元を動かした。
笑いかけて、やめたような顔である。
「お奉行様は、人の黙り方までお役目のうちに見ておられるようだ」
「そう見えるか」
「……はい」
その“はい”には、どこか含みがあった。
まるで、自分自身もまた、昔から家の黙り方ばかり見て育ってきたとでも言いたげな声だった。
応接を辞するとき、忠相はふと立ち止まった。
「若君」
「はい」
「お前は、この家で昔のことをすべて聞かされて育ったわけではないな」
直之の顔が、初めてはっきり止まった。
否定すればよい。
だが彼はそれをしなかった。
「……昔のことを、すべて聞かされて育つ者などおりますまい」
きれいな返しである。
だが、そのきれいさの下に、確かな違和があった。
忠相は頷き、それ以上は追わなかった。
外へ出ると、源之丞が低く言った。
「感じましたか」
「うむ」
「若君は、何か知っている」
「知っているというより、“知らされていないことがある”と知っている」
源之丞は深く頷いた。
「近江屋の佐吉と似ておりますな」
「そうだ」
忠相は言った。
「まだ真に触れてはおらぬ。
だが、自分の足もとの板が一枚、どこか浮いている感覚だけは持っている」
武家屋敷の若君。
できすぎた礼。
教えられてきた立ち居振る舞い。
そして、自分がすべてを知らされていないことを、ひどく上品に知っている顔。
あの顔は忘れがたいと、忠相は思った。
つづく




