第十九話 名を継いだ若君
名を継ぐ、というのは、ただ呼ばれ方が変わることではない。
家の中で座る場所が変わり、誰が先に頭を下げるかが変わり、膳に乗るもの、袖を通すもの、怒られ方、期待され方、そのすべてが変わる。
だから、人はしばしば勘違いする。
名を継いだ者は、その名にふさわしい人間になったのだ、と。
だが実際には逆のこともある。
人がその名に変えられていくのだ。
近江屋の奥へ入った佐吉が、帳場や蔵前や裏庭を「見るため」に歩いているあいだ、忠相は店の表へ戻らず、少し離れた脇の控え間にいた。
お紺と佐吉をすぐ二人きりにしない。
清之介にも勝手な筋をつけさせない。
今の近江屋には、そのくらいの線引きが要る。
源之丞が襖の外から戻り、低く言った。
「佐吉は、奥へ入りました」
「お紺は」
「まだ座敷に。清之介は帳場の向こうで歯を食いしばっている顔です」
「放っておけ」
「は」
忠相は頷いた。
今この刻に近江屋の中で起きているのは、奉行が口を出しすぎればかえって壊れる種類のことだ。
若い手代が、自分のいた場所を自分の目で見直す。
後家が、死んだ子の名を背負わせた若者の足音を聞く。
そこに第三者の理屈は入れすぎぬ方がよい。
「そのあいだ、榊原家だ」
忠相が言うと、源之丞はすぐに表情を改めた。
「はい」
柏屋の件で浮かんだ榊原家。
病弱な嫡子。
遠縁から迎えたとされる若君。
古い紙問屋の相談覚え。
どれも近江屋の一件を思わせる。
ただし、武家屋敷では商家のように帳場や暖簾の都合だけでは済まぬ。血筋、家格、外聞、縁組、家中の秩序。絡むものが違うぶん、嘘のつき方もまた違うはずだ。
「表向きの様子は」
「穏やかな家にございます」
源之丞が答える。
「当主・榊原信濃守は病を得て半ば隠居同然。今は若君・直之が表のことを多く取り仕切っているとか」
「評判は」
「悪くありませぬ。礼を失わず、物腰柔らかく、家臣の前でも高ぶらぬ。近隣の評判はむしろよいくらいです」
「よすぎるな」
忠相が言うと、源之丞はわずかに頷いた。
「はい。
古くから仕える者ほど、褒める時の言葉が整いすぎております」
「どのように」
「“できた若君”“よくお気の回るお方”“血筋を問うても今さら仕方ないほど立派”――そのような言い回しです」
忠相は少し目を細めた。
最後の一言が重い。
“血筋を問うても今さら仕方ない”。
それはつまり、問いたい者がいたか、あるいは問われる筋が確かにあったということだ。
「乳母筋は」
「いま探っております。昔ついていた乳母は数年前に暇を出され、今は親類先へ下がったという話です」
「典型だな」
「近江屋のお浜と同じく、“火の夜”を知る者から順に遠ざけた形かと」
忠相は黙ってうなずいた。
人は大事な秘密を抱えた時、口の軽い者から追い払うとは限らない。
むしろ、いちばん口の重そうな者から静かに遠ざける。
長く同じ場所にいれば、ふとした拍子に態度や視線へ真が滲むからだ。
「よい。榊原家は、私が表向きに入る」
源之丞が顔を上げる。
「挨拶の形で」
「そうだ。養子筋や古い家督の話を、最初から正面から問えば閉じる。
まずは若君の顔を見る」
「承知」
その時、襖の向こうでわずかに物音がした。
与吉が、緊張した顔で控え間の入口へ現れる。
「お、お奉行様」
「何だ」
「佐吉……いえ、あの者が、少し表の方を見たいと」
源之丞が佐吉を見るように少し眉を動かした。
忠相はすぐに立ち上がる。
「案内しろ」
奥から表への途中は、佐吉にとっていちばん重い場所だろう。
蔵前や裏庭はまだよい。人の少ない場所だからだ。
だが表の格子の内側、帳場の前、客へ頭を下げていた場所は、まさに“佐吉として生きていた場”そのものである。
帳場の前まで来ると、佐吉は立ち止まっていた。
日が傾き、店内の光は柔らかい。
暖簾の外を、夕方の客や荷を引く者たちが行き交っている。
帳場の算盤。
墨壺。
並べられた反物。
それらは何も変わっていないように見える。
だが、見る者が変われば、同じものも別の顔をする。
「見たかったのはここか」
忠相が言うと、佐吉は頷いた。
「……毎日いたのに」
「うむ」
「今見ると、よそみてえです」
清之介が帳場の奥で何か言いかけた。
だが忠相がちらりと見ると、番頭は唇を結んだ。
佐吉は格子の外を見たまま続ける。
「ここで、客に頭下げて、金数えて、伝票運んで……。
その時は自分が誰かなんて考えもしなかった。
でも今、あの時の俺って、近江屋にとって何だったんだろうって」
忠相は答えなかった。
それは奉行が埋めてやるべき問いではない。
ただ、自分で言葉にさせるべき問いだ。
しばらくして、佐吉は小さく言った。
「……帰る場所じゃないな」
その声は穏やかだった。
恨みでも怒りでもなく、ようやく何かを見届けた者の声である。
清之介が顔を上げた。
「佐吉――」
「そう呼ばれるのも、まだ変な感じです」
佐吉は振り向かないまま言った。
「でも今は、だからって別の名前でここに立ちたくもない。
どっちにしても、俺はここの“都合のいい形”には戻れません」
お紺が奥から出てきていた。
いつの間にかそこに立っていたらしい。
顔色は悪いが、逃げなかった。
「……そうでしょうね」
その一言に、店の中の空気が静まった。
お紺もまた、それ以上は言わない。
泣いて詫びることもしない。
抱きしめることもしない。
それが今の二人には、かえって自然だった。
佐吉はようやく振り向いた。
「俺、ここを憎んでるのか、憎みきれないのか、まだわかりません」
お紺は目を伏せた。
「そうでしょう」
「でも、一つだけわかるのは」
「……何」
「ここは、俺の戻る場所じゃない」
お紺は少しの間、呼吸を整えるように黙っていた。
やがて、ほんのわずかに頷いた。
「……わかりました」
その“わかりました”の中には、近江屋の後家としての諦めも、松之助を喪った女としての痛みも、佐吉を十年見てきた者としての手放し難さも、全部が混じっていた。
だが、少なくとも今は、それ以上の言葉を重ねなかった。
それで十分だった。
忠相はそこで佐吉へ目をやる。
「見届けたか」
「はい」
「なら行くぞ」
佐吉は小さく息を吐き、もう一度だけ帳場を見た。
それは未練ではなく、区切りの目だった。
近江屋を出るころには、日もだいぶ落ちていた。
町は夕餉の支度に入り、店々から煮炊きの匂いが流れてくる。
江戸の夕べは、人の事情とは無関係に穏やかだ。
だがその穏やかさの下で、別の家では別の名が揺れている。
奉行所へ戻る途中、佐吉はぽつりと言った。
「俺だけじゃないんですよね」
「何が」
「そういう、家の都合で名前が決まるやつ」
忠相は少しだけ歩を緩めた。
「榊原家という武家筋で、似た話の匂いが出ている」
佐吉は黙って聞く。
「まだ真は掴んでおらぬ。
だが、病弱な嫡子と、あとから立った若君。
紙問屋の古い相談覚え。
近江屋と似た理が見える」
「……武家でも」
「家を残すために名を動かす理屈は、商家だけのものではない」
佐吉は苦く笑った。
「でっけえ江戸って町で、そんなことばっかりなのか」
「ばかり、とは言わぬ」
忠相は答えた。
「だが少なくはないのだろう」
源之丞が横から低く言う。
「だからこそ、今回の紙問屋の一件は早めに押さえる必要があります」
「うむ」
佐吉が少し意外そうな顔をした。
「俺、もう奉行所の外にいていいんですか」
「どこへ勝手に行けとは言わぬ」
忠相は言った。
「だが、お前を閉じ込めておくことが裁きではない」
「……」
「それに、お前が見たこと、感じたことは、今後の話にも役立つ」
佐吉は何も言わなかったが、どこか考え込むような顔になった。
その夜、忠相は源之丞とともに榊原家へ入るための段取りを整えた。
正面から“家督に不審あり”と乗り込めば閉じる。
表向きには、最近の町の紙盗みと、紙問屋柏屋に持ち込まれた古い相談書付の件で、関わりがあるかどうかを確かめる形がよい。
武家には武家の面目がある。
いきなり血筋や若君の名を疑えば、話は真へ近づく前に固まってしまう。
「まず若君の顔を見る」
忠相が言う。
「はい」
源之丞が頷く。
「人柄も、家中の空気も、文だけでは見えませぬ」
「うむ。
それに、評判の良い若君というのが気にかかる」
「よすぎる、と」
「そうだ。
人が“できた若君”と口を揃える時、その裏には“そう言っておくべき理由”があることも多い」
源之丞は少しだけ笑った。
「旦那は、褒め言葉の方を疑うことがおありですな」
「悪口はたいてい感情で出る。
だが褒め言葉は、時に理屈で揃う」
源之丞が深く頷いたところへ、弥吉が戻ってきた。
「旦那」
「何だ」
「柏屋の店先、また痩せた男が現れたって話、手代どもに改めて聞いてきやした」
「どうだった」
「男は確かに一人。けど、そのあと、少し離れたところで年増の女と一度だけ目を合わせてたって」
「女」
「へい。地味な着物で、町人に紛れりゃ見失うような風体。
でも手代の一人が言うに、その女だけは“紙じゃなく人を見てる目”だったとか」
忠相の目が細くなる。
男が紙を追う。
女が人を追う。
近江屋でも似たような二つの手が見えていた。
紙を欲しがる手。
名を探る手。
柏屋の件でも同じ構図なら、これは偶然ではない。
「組んでいるか」
源之丞が問う。
「あるいは、同じ獲物を別の理由で追っているか」
忠相が答えた。
「どちらにせよ、榊原家の件へ入れば向こうも動く」
弥吉が肩をすくめた。
「最近の江戸ぁ、紙一枚で人が走りすぎでさあ」
「紙一枚で家が揺れるなら、人も走る」
忠相は静かに言った。
夜も深くなり、皆が下がったあと、忠相は一人で机に向かっていた。
近江屋の帳面。
柏屋の相談覚え。
榊原家の病弱な嫡子と若君。
痩せた男。
それを見ている年増の女。
江戸の中に、同じ形の影がいくつもある。
それをたどる者がいる。
だが、その者の狙いは一つの家の金ではない。
もっと別のもの――“名が動かされた痕”そのものを集めているように見える。
もしそうなら、それはただの盗みではない。
恨みか。
復讐か。
あるいは、もっと大きな何かの準備か。
忠相は、灯の揺れる中でゆっくり目を閉じた。
近江屋の一件が終わったわけではない。
ただ、佐吉が“戻るためではなく見るために”あの家へ入り、自分で戻らぬと決めたことだけは大きかった。
あれで、少なくとも同じやり方をもう一度繰り返すことはできなくなった。
次は、榊原家だ。
名を継いだ若君。
その顔を見れば、紙の上だけではわからぬものが出る。
人の目、座る位置、家中の息づかい。
そういうものの中にこそ、書付に残らぬ真がある。
つづく




