第十八話 近江屋の使い
人は、自分で決めたつもりのことでも、いざその場が近づくと足が止まる。
それが昔いた家であればなおさらだ。
嫌な思い出のある場所ほど、人の身体は先に覚えている。頭では「行く」と決めても、門や格子や石畳の色を見た途端、胸の奥が勝手に縮む。
逃げたかった場所。
それでも一度はそこにいた場所。
そしてもう、自分の帰るところではないと知ってしまった場所。
南町奉行所の朝は、前の日の重たさを引きずりながらも、何事もなかったような顔で始まっていた。
庭先は掃き清められ、砂利の上には朝の湿りが薄く残っている。井戸端では下役が水を汲み、炊き出しの煙が低く流れ、表には訴えに来た者たちの足音が絶えない。役所というものは奇妙だ。中でどれほど重い話が動いていても、外から見ればただ一日が始まるだけに見える。
忠相は、表の間に通された使いの顔を見た。
近江屋の手代だった。まだ二十にも届かぬ若い者で、忠相にも見覚えがある。帳場の奥で客へ茶を運び、清之介の顔色を窺いながら小走りに働いていた男だ。今日はその顔から血の気が引き、額の汗ばかりが妙に目立っている。
「名は」
「与吉にございます」
「近江屋の使いであるな」
「は、はい」
「何の用だ」
与吉は深く頭を下げ、絞るように言った。
「後家様より、お言伝にございます」
源之丞が脇でじっと様子を見ている。
与吉はその目に耐えかねたように一瞬だけ肩を縮めたが、それでも続けた。
「佐吉……いえ、その、あの者に……一度、店の中を自分の目で見て決めてほしい、と」
部屋の空気が静かに止まった。
忠相は何も言わず、まず使いの顔を見ていた。
それから、少し間を置いて問う。
「何を決める」
与吉は喉を鳴らした。
「これから、どうするかを……と」
「戻る戻らぬかも含めてか」
「は、はい」
「清之介の差配ではないな」
その問いに与吉は明らかに困った顔をした。
だが困るということ自体が答えになっている。
「後家様の、お気持ちにございます」
「お気持ち、か」
忠相は低く繰り返した。
気持ちだけなら、もっと早く言えたはずだ。
だが近江屋の今の状態では、気持ちひとつで済まぬところまで来ている。
お紺が一度だけでも佐吉に店を見せたいと思うのは本心だろう。
同時に、勘定の整理、奉公人たちへの見せ方、家の奥の空気、そのすべてを考えれば、近江屋側にも“どうするかをはっきりさせたい”という都合が混じっているのは間違いない。
「与吉」
忠相は言った。
「その言伝、お前はどこまで聞いておる」
「え……」
「ただ伝えろと言われたまま来たのか。そうではあるまい」
若い使いは顔を伏せた。
黙り方に迷いがある。
こういう時、若い者はうまく嘘をつけない。
「……後家様は、もしあの者が来るなら、客の少ない刻に、表からではなく奥から通すようにと」
「表へ出したくないのだな」
「そ、それは……」
「店の者たちや町の目にどう映るかを案じている」
「……はい」
源之丞が低く言う。
「なるほど。近江屋の理屈らしい」
与吉はますます縮こまった。
忠相はそれ以上使いを責めなかった。
使いは使いだ。
若い手代に背負わせるには、近江屋の内側の事情は重すぎる。
「下がって待て。答えは追って伝える」
「は、はい……」
与吉が下がると、源之丞が言った。
「どうなさいます」
「佐吉次第だ」
「近江屋に戻す気は」
「ない」
忠相はきっぱりと言った。
「少なくとも、“戻す”という言い方はさせぬ。行くなら見届けるためだ」
源之丞は頷いた。
「では、本人に」
「うむ」
佐吉は、奉行所の奥の一室にいた。
ここ数日で顔色は幾分ましになっていた。
食は細いが、昨日までのような虚ろな沈み方は少し薄れている。
それでもまだ、若い男の顔にしては妙に疲れて見える。人は、腹を満たせばすぐ元に戻るものではない。自分の足場そのものが崩れた後ではなおさらだ。
「起きていたか」
忠相が声をかけると、佐吉は障子の光の方を見たまま言った。
「……眠るのが下手になりました」
「そういう時は多い」
忠相は部屋へ入り、向かいに腰を下ろした。
「近江屋から使いが来た」
佐吉の睫毛が、わずかに動く。
「何て」
「一度、店の中を自分の目で見て決めてほしいと」
少しの沈黙があった。
佐吉はすぐには返事をしない。
その代わり、膝の上の指先がゆっくりと握られていく。
近江屋という言葉一つで身体が固くなるのだから、無理もない。
「行けと言うんですか」
「言わぬ」
「止めるんですか」
「それもせぬ」
佐吉はそこで初めて忠相の顔を見た。
「……ずるいですね」
その言い方に、ほんの少しだけ若い者らしい棘が戻っていた。
忠相はそれを悪くない徴と見た。
「決めるのはお前だからな」
「俺が決めたって、どうせ相手は勝手に意味をつけるでしょう」
「そうだろう」
「じゃあ」
「それでも、自分で決める方がましだ」
佐吉は言葉を失ったように黙る。
その黙りは、もう以前のような沈みきった黙りではない。
考えている黙りだ。
「行ったら……」
やがて佐吉が言う。
「何が変わるんでしょう」
「変わらぬかもしれぬ」
忠相は率直に答えた。
「だが、お前の中では変わることがある」
「何です」
「逃げたままにしない、ということだ」
佐吉は目を伏せた。
「逃げたつもりでした」
「そうだろうな」
「でも、どこへ行っても、結局あの店の匂いとか、帳場の音とか、火の夜のこととか、頭の中に残ってて……」
「うむ」
「だったら一回、自分の目で見た方がいいんですかね」
忠相はすぐには答えなかった。
こういう問いに、他人が軽々しく「そうだ」と言い切るべきではない。
だが、背中を押す言葉が必要な時もある。
「見て決めるのと、見ぬまま決めるのとでは違う」
佐吉は長く息を吐いた。
「……わかりました」
「行くか」
「はい」
それから少し置いて、佐吉は付け足した。
「でも、近江屋に戻るためじゃないです」
「それでよい」
「俺、たぶん、もうあそこで“何でもなかった顔”はできません」
「させぬ」
その一言で、佐吉の肩から少しだけ力が抜けた。
人は、誰かが自分の代わりに決めてくれることを嫌がるくせに、最低限の約束がなければ自分で決めた足を前へ出しにくい。
今の佐吉に必要なのは、まさにそれだったのだろう。
「源之丞」
忠相が呼ぶと、控えていた同心がすぐに入る。
「近江屋へ返事を。
客の少ない刻、表ではなく奥から入る。
ただし、こちらの立ち会いのもとでだ」
「承知」
「それと、お紺へ伝えろ。
佐吉は“帰る”のではなく、“見るために行く”だけだと」
「はい」
源之丞が去ると、佐吉は少し不思議そうな顔をした。
「そんな言い方、わざわざするんですか」
「言葉は形を決める」
忠相は答えた。
「お前がどういうつもりで行くのか、先に形を定めておかねば、向こうは勝手に“戻ってきた”と意味をつける」
「……」
「お前はもう、一度そうやって勝手に意味をつけられてきた」
佐吉はその言葉に、黙って頷いた。
昼を少し過ぎるころ、弥吉が戻ってきた。
今日は最初から目の色が違っている。町を駆け回って、何か掴んできた時の顔だ。
「旦那」
「何だ」
「柏屋の消えた書付の件、少し面白くなってきやした」
「申せ」
「武家屋敷の筋を当たったところ、紙問屋の相談覚えに出てくるのは、たぶん榊原家って中級旗本筋でさ」
「榊原」
忠相は繰り返した。
聞き覚えのない名ではない。だが町で大きく騒がれるほどの家でもない。そういう家ほど、内向きの歪みが表に出ぬまま残る。
「当主は四十を越えたあたり。表向きには穏やかな家で、今の若君も評判は悪くねえ」
「若君、か」
「へい。ただし、古くから仕えてる連中の中には、“血の筋がどうにもすっきりしねえ”なんて陰口が今でもあるそうで」
源之丞が問う。
「養子か」
「表向きには遠縁から迎えたことになってやす。けど、紙問屋の書付と合わせると、どうもその筋書きだけじゃねえ匂いがする」
忠相は黙って先を促した。
「しかも、この榊原家、昔に病弱な嫡子がいたって話もありやして」
部屋の空気が少し変わった。
近江屋と同じ匂いだ。
病弱な嫡子。
家を守るための“名のつけ替え”の可能性。
紙問屋から消えた相談書付。
「弥吉」
「へい」
「その若君の名は」
「榊原直之ってことで」
「評判は」
「礼儀正しく、物腰柔らかで、家中の表向きはよろしい。けど、乳母筋だの古い女中筋だのに当たると、妙に言い淀むんで」
源之丞が低く言う。
「近江屋と同じですな」
「同じ匂いはする」
忠相が言った。
「だが、同じ話と決めつけるな。
家が違えば、歪み方も違う」
「承知」
佐吉は少し離れたところでその話を聞いていた。
表には出さぬが、耳だけははっきり向けている。
「……俺だけじゃないんですね」
ぽつりとこぼれたその言葉に、忠相はそちらを見た。
「何がだ」
「名前とか、生き方とか、家の都合で決められるやつ」
忠相はすぐには答えなかった。
安易に「そうだ」と言ってしまえば、佐吉の傷を“よくあること”で薄めることになる。
だが、黙るのも違う。
「お前だけではない」
やがて忠相は言った。
「だが、それでお前の傷が軽くなるわけでもない」
佐吉は苦く笑った。
「軽くはならねえでしょうね」
「ただ、一つだけ違うことがある」
「何です」
「お前は、その理屈の外へ一度出た」
佐吉は黙る。
「まだ完全ではない。
だが少なくとも、また同じ名へ押し込まれる前に、一度立ち止まっている。
それは小さくない」
佐吉はそれ以上何も言わなかった。
けれど、どこか胸の内でその言葉を確かめている顔だった。
午後も遅くなるころ、近江屋から返事が来た。
お紺の意向で、日が傾き、客の引く刻に、佐吉を迎える用意をするという。
清之介は不満そうであったらしいが、源之丞がきっぱりと「奉行所の立ち会いなしでは認めぬ」と伝えると、何も言えなくなったそうだ。
その支度が整うまでの間、忠相は榊原家について源之丞と詰めていた。
「表向き穏やかな家、評判のよい若君、だが古い女中筋が言い淀む」
「はい」
「近江屋より厄介かもしれませぬな」
「うむ。商家ならまだ勘定で追える。武家は面目と血筋が絡む」
「紙問屋の一枚がその筋を知っていた」
「だから消された」
源之丞は少し間を置いてから言った。
「旦那、これは偶然ではありませぬな」
「何が」
「近江屋の後始末のすぐあとに、“養子と名の繋ぎ替え”の古い書付が消える」
忠相は頷いた。
「誰かが、似たような話を追っておる」
「近江屋一件だけで終わらず、ほかの家も」
「そうだ」
「目的は」
忠相は、少し考えた。
恨みか。
銭か。
それとも、家々の嘘を集めて何か別のものへ変えようとしているのか。
「まだ決めぬ」
そう言ってから、忠相はふと付け加えた。
「ただ、紙を抜く手つきは慣れている。
家の中の人間か、それに近い者だろう」
夕方、佐吉は奉行所から出る前に、少しだけ立ち止まった。
門の外は、日がだいぶ傾いている。
町は夕餉の支度に入りかけ、荷車の音も昼より鈍い。
その空気の中で、若い男は妙に固い顔で通りを見ていた。
「足が止まったか」
忠相が言うと、佐吉は苦笑した。
「やっぱり、近づくと」
「無理もない」
「逃げたかった場所に、自分から行くなんて思ってなかったです」
「そうだろうな」
「……でも」
「何だ」
「見ないままだと、ずっと頭の中でだけ近江屋が残る気がして」
その言葉に、忠相は小さく頷いた。
人は、嫌な場所ほど頭の中で膨らませる。
本当にそこへ立って見れば、むしろ自分の中の影の方が大きかったと知ることもある。
もちろん、現実の方がなお重い場合もある。
だが、どちらにせよ見ぬままでは終われぬ。
「行くぞ」
忠相が言うと、佐吉は今度は黙って頷いた。
近江屋は夕方の光の中で、相変わらず整った顔をしていた。
暖簾は下ろされかけている。
客の姿はもう少ない。
表から見れば、ただ一日の商いを終えようとする老舗にしか見えぬ。
だが佐吉の足は、格子を一目見たところで止まった。
忠相も源之丞も何も言わない。
急かさぬことが今は肝心だった。
しばらくして、佐吉は小さく息を吐いた。
「……ここで、俺、ずっと働いてたんですよね」
「そうだ」
「でも今見ると、俺がいた感じがしねえ」
「それもある」
忠相は言った。
「人は、自分のいた場所を、あとから別の目で見直すことがある」
佐吉は、格子の向こうを見たまま言った。
「だったら、一回ちゃんと見ます」
その言い方は、誰かに向けた宣言というより、自分自身への確認に近かった。
忠相は源之丞に合図した。
近江屋の裏口へ回る。
奥から迎えに出たのは、与吉ではなく年配の女中だった。
頭を低くし、目も上げぬ。
「お待ちしておりました」
その声の奥に、ただの奉公人の緊張とは違うものがあった。
近江屋の中でも、この“再来”がただ事ではないと皆知っているのだ。
佐吉は奥へ入る直前、ほんの一瞬だけ振り向いた。
忠相と目が合う。
「戻るためじゃない」
小さな声だったが、はっきりしていた。
「わかっている」
忠相は答えた。
それで、佐吉はようやく一歩を踏み入れた。
夕暮れの近江屋の奥は、表よりずっと静かだった。
その静けさの中へ、過去の名を奪われた若い男が、自分の目で決着をつけるために戻っていく。
同じ頃、日本橋の別の通りでは、柏屋の前をまた一人、痩せた男が通り過ぎていた。
紙を扱う店の暖簾を一瞥し、何も買わず、何も言わず、それでも確かに“探っている”目で。
江戸の夕べは、近江屋の一件を終わらせるどころか、別の家、別の名、別の紙の影まで引き寄せ始めていた。
つづく




