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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第十七話 紙問屋の消えた一枚

 人は、大きな秘密のあとには、少し小さな秘密が来ると思いたがる。


 だが実際には逆だ。

 一つの嘘が剥がれれば、その下には別の嘘がもう一枚貼りついている。

 しかも、前の嘘に比べれば取るに足らぬように見えるそれが、思いがけず深いところへ通じていることもある。


 朝の江戸は、相変わらずよく働いていた。


 南町奉行所の表には、訴えに来る者、呼び出しに応じて来る者、下役へ書付を渡す者、何やら見物半分で立ち止まる者までが入り混じり、朝の光の中にささやかなざわめきを作っている。夜がどれだけ重くても、朝の町はその重みを知らぬ顔で動き出す。役所もまた同じだった。昨夜まで近江屋の一件で張り詰めていた空気も、今朝になれば別の訴えを受け入れる器へ戻らねばならない。


 忠相は表の間へ通された男を見た。


 年は四十を少し過ぎたあたり。紙問屋のあるじらしく、着物は地味でも質がよく、指先には墨と紙を扱う者の癖が出ている。だが顔色は悪い。眠れなかったのだろう。目の下に濃い影があり、口元の筋肉だけが妙に強張っていた。


「名は」


「日本橋通旅籠町にて紙問屋『柏屋』を営んでおります、庄兵衛にございます」


「訴えは」


 庄兵衛は深く頭を下げた。


「亡き父の手になる古い書付が、一枚、なくなりましてございます」


 忠相は黙って先を促した。


「ただの古紙なら、こうして役所へ駆け込むほどのことではございませぬ。けれど、あの書付は――」


 そこで男は一度言葉を切った。

 切った、というより、どこまで言うべきかを量っている。


 忠相は低く言った。


「惜しんで隠せば、あとで余計に面倒になる」


 庄兵衛ははっとしたように顔を上げ、それから観念したように頷いた。


「……父は、生前、町方に紙を納めるほか、頼まれれば書付の清書や控えの写しも受けておりました」


 源之丞が脇でわずかに眉を動かす。


「代書に近いこともしていたのか」


「はい。表向きには紙問屋にございますが、古い馴染みから、時おりそのようなことも」


 忠相はそこで、今朝の訴えがただの家財紛失ではないと悟った。


 近江屋の一件で見たばかりだ。

 書付一枚が、人の名も、勘定も、家の形も変える。

 まして“清書”や“控えの写し”を受ける家なら、誰かが残したくない文、逆に残しておきたい文が、紙問屋の蔵に眠っていても不思議はない。


「なくなったのは、どのような書付だ」


 忠相が問うと、庄兵衛は少し顔を近づけるようにして声を落とした。


「古い相談覚えにございます」


「誰の」


「父と、ある武家屋敷の出入りをしていた者との」


「中身は」


「……家督と養子の話です」


 忠相は表情を動かさなかった。

 だが心の内では一つ印をつけた。


 家督。

 養子。

 名の繋ぎ替え。


 近江屋の一件を終えたばかりの耳には、妙に引っかかる言葉である。


「武家屋敷の名は」


「確かな表書きはございませぬ。ただ、父は生前、『大きな家ではないが、筋を違えると後で人が泣く類の話だ』と」


「その書付が、いつなくなった」


「三日前あたりから蔵を改めておりました。父の代の紙束を整理して、古い控えを焼くもの、残すものと分けていたところ……昨夜になって、その一枚だけ見当たらぬと」


 源之丞が問う。


「ほかの紙は」


「ございます。文箱も荒らされてはおりませぬ。そこだけ抜かれたように」


「誰か心当たりは」


 庄兵衛は明らかに迷った。


「……二、三日前より、店のまわりをうろつく浪人風の男がいたと、手代が申しておりました」


 弥吉ならここで「また浪人か」とでも言うところだろうが、今はまだ呼んでいない。


「顔は」


「痩せていて、少し酒焼けしたような声で……」


 源之丞が忠相と視線を交わした。

 嘉兵衛を思わせる特徴だ。

 だが、すぐにそこへ飛びつくのは早い。


「その書付の中身、お前は見たか」


「少しだけ」


「どのような」


 庄兵衛は答えた。


「幼い子をどこへ入れるか、家中のどの筋で養い、どの名を継がせるか、そういう相談にございました。武家屋敷の中で表向きに出せぬ事情があり、それを内々に整理したような……」


「なるほど」


 忠相は静かに言った。


「つまり、その一枚は“名をつけ替える”ための相談覚えだ」


 庄兵衛はこわばった顔で頷いた。


「はい……おそらく」


 忠相はしばらく考えた。


 近江屋の件は商家。

 今度は武家の家督と養子。

 表面は別でも、底を流れるものは似ている。

 人は名を使って家を守り、家を守るために名を動かす。

 そういう話が江戸には多すぎる。


「なくなった一枚、その写しは」


「ございませぬ。父の手控えのみで」


「他にそれを知る者は」


「父はもう亡く、私は断片を見たのみ。けれど……」


「けれど、何だ」


「最近になって、その書付を探るようなことを言う男がいたのです」


 忠相の目が細くなる。


「誰だ」


「名は名乗りませんでした。紙問屋には似合わぬ身なりで、筆をよく選ぶ目だけが妙に細かい男でした」


 筆。

 酒焼けの声。

 痩せた男。


 忠相は一つずつ頭の中に置いた。


「何を聞いた」


「『昔、養子の名を書き換えた覚えはねえか』と」


「お前は何と答えた」


「知らぬと」


「それで済んだか」


「いったんは。けれど、そのあと蔵から一枚なくなった」


 話は明らかだった。

 誰かが古い“名の繋ぎ替え”の証を探っている。

 それも、たまたまではない。

 的を絞って一枚だけ抜き取っている。


「庄兵衛」


 忠相は言った。


「お前の父は、その手の“表へ出せぬ相談”を、ほかにも受けていたか」


 男は苦く頷いた。


「商家も武家も、子のない家や、子が弱い家は、昔からそういう話がございます」


「多いか」


「……少なくは」


 忠相は短く息をついた。


 やはりそうだ。

 近江屋は特殊な一件ではあるが、江戸という町の理から完全に外れていたわけではない。

 家を残すため、名をつけ替え、筋を整え、表向きの顔を守る。

 その中で、誰かの人生が静かに曲げられる。

 ただ近江屋が酷かったのは、その曲げ方が十年越しに若い男の足場を奪い、さらに今なお勘定の下へ繋がっていたことだ。


「源之丞」


「は」


「柏屋の蔵を改める」


「今から」


「そうだ。残った紙の山の中に、抜かれた一枚の前後を示すものがある」


「承知」


 庄兵衛が深々と頭を下げた。


「どうか……。父の代のことゆえ、私は中身のすべてを知りませぬが、あれを探っていた男の目が、あまりに嫌で」


「嫌、とは」


「金の目ではございませんでした。もっと……昔の恨みを紙で刺しにくるような目で」


 忠相はその表現を胸の内へ置いた。

 紙で刺しにくる。

 たしかにそういう手合いはいる。

 刀ではなく、紙一枚で人を斬る者だ。


 庄兵衛を下がらせたあと、源之丞が言った。


「近江屋の次は武家ですか」


「次、というわけではない」


 忠相は静かに答えた。


「江戸のあちらこちらに、似たような理屈が埋まっているということだ」


「家を守る理屈」


「うむ。養子、名義、家督、跡目。形は違っても根は同じだ」


 源之丞は少し黙ったあと、低く言った。


「旦那は、昨夜の件が尾を引いておられますな」


「引くさ」


 忠相は否定しなかった。


「一つ見えれば、今まで目に入っていながら“ただの家の内の話”として流してきたものが、別の顔をして見えてくる」


 源之丞は頷いた。

 それで十分だった。


 柏屋の蔵は、近江屋とはまた違う匂いをしていた。


 紙問屋の蔵らしく、湿りを避ける工夫が行き届き、紙束の間には乾かしの藁が差し込まれている。紙そのものの匂い、墨の薄い匂い、古い糊の匂いが混ざり、鼻の奥に少し甘く残る。

 こういう場所で抜き取られた一枚は、荒っぽい盗みではなく、知っている者の手つきで消えていることが多い。


 忠相はまず、庄兵衛の指した文箱の並びを見た。

 箱は大きく三つ。

 一つは紙見本。

 一つは客への控え。

 そして最後が、父親の個人的な覚え書きや相談書付をまとめたものだという。


 源之丞が一つずつ取り出し、弥吉が横から紙の束をめくる。

 庄兵衛は落ち着かぬ顔でそれを見ていた。


「ここでございます……たしかに、このあたりに」


 見れば、紙の束の中ほどだけがわずかに薄い。

 きっちり揃った束の一部が、抜かれて空気の隙間を作っていた。


「前後を見せろ」


 忠相が言うと、庄兵衛が差し出した二枚の覚えは、たしかに一続きの話の前後らしかった。


 一枚目には、

 ――当家における子の扱い、いずれ御内談にて

 とある。


 後の方には、

 ――名の筋違いは後日の憂いとなるべし、急ぎ定めよ

 とあった。


 抜かれた一枚には、おそらくその具体が書かれていたのだろう。


 源之丞が低く言う。


「やはり、意図してそこだけ抜いておりますな」


「うむ」


 忠相はさらに紙束を改めた。


 すると、抜かれた箇所のすぐ後ろに、薄い走り書きが残っているのを見つけた。

 独立した書付ではなく、余白に急いで書き足したような形である。


 ――屋敷方より再び人来たる

 ――“子は替えられても、血は替えられぬ”と申す

 ――不吉のことゆえ、別包みに移す


 忠相の指が止まった。


「別包み」


 源之丞も覗き込む。


「抜かれた一枚を、別に包み直したのかもしれませぬな」


「その可能性が高い」


 庄兵衛がはっとした。


「父は、たしかに……大事な紙は別包みにしていたことが」


「どこだ」


「そこまでは……」


 弥吉が蔵の隅を見回しながら言う。


「年寄りってのは、大事なもんほど“ここなら誰も見つけねえ”って場所に隠すんですがね、だいたい変なとこにありますぜ」


 忠相は蔵全体へ目を走らせた。


 文箱の後ろ。

 棚板の裏。

 紙束の下。

 あるいは、紙ではなく別の品に見せかけているか。


 少しして、源之丞が箱の底を叩き、音の違いに気づいた。


「旦那」


「何だ」


「底が二重にございます」


 箱をひっくり返し、底板の薄い差し板を外す。

 そこから出てきたのは、油紙に包まれた細長い束だった。


 庄兵衛が目を見開く。


「こんなところに……」


 忠相が包みを開く。

 中には三枚の書付。

 そのうち一枚が、庄兵衛の言う“抜かれたはずの一枚”に違いなかった。

 おそらく、盗みに来た者は元の箱を漁ったが、父親の“別包み”までは見つけられなかったのだろう。


 忠相はその書付を開いた。


 字は庄兵衛の父の手だ。

 内容は短いが、はっきりしていた。


 ――嫡子病身につき、万一に備え、縁筋より迎えし幼子を内々に養う

 ――ただし表向きには預かりとはせず

 ――時節次第にて、名を継がせるも可


 蔵の中の空気が動いた。


 源之丞が低く言う。


「まるで……」


「近江屋だな」


 忠相が引き取った。


「ただしこちらは、まだ“火の夜”のような出来事までは起きておらぬ。これは準備の覚えだ」


 弥吉が肩をすくめる。


「江戸って町ぁ、思ったより皆さん似たようなこと考えてやがるんで」


 忠相は二枚目を見た。

 そこにはさらに短く、


 ――血筋を疑う声出る

 ――名だけでは足らず、証の品も要る


 とある。


 三枚目はもっと雑で、端が少し破れていた。


 ――紙は焼けても、人は覚える

 ――屋敷方、女中筋より漏れあり

 ――早晩もめるべし


 忠相は三枚を静かに畳んだ。


 近江屋だけではない。

 名を継がせ、証の品まで揃え、血筋を疑う声を抑える。

 家を守るための理屈は、商家でも武家でも似た形を取る。

 それが江戸の“理”なのだろう。


 だが同時に、その理に取りこぼされる子どもや若者が、あちこちにいるということでもある。


「庄兵衛」


「は、はい」


「この書付を探っていた男は、これを知っていた可能性が高い」


「……はい」


「お前は店のまわりを見たと言ったな」


「はい」


「その男は一人か」


 庄兵衛は少し考えてから答えた。


「いえ……。一度だけ、女も」


「女」


「はい。年増で、地味な着物でしたが、こちらを見ている目だけが妙に強く……」


 忠相は目を細めた。


 また女である。

 お滝のような母の顔か。

 それとも別の、過去の筋を知る女か。


 源之丞が問う。


「その女と男は話したか」


「遠目に一度、店先の陰で」


「ならば、単なる盗人ではない」


 忠相は言った。


「紙を探る者と、その紙が誰を傷つけるか知る者が組んでいる」


 庄兵衛が青ざめる。


「では、この一件も……」


「まだ決めるな」


 忠相はそう言って、書付を油紙へ戻した。


「ただ一つ確かなのは、“名をつけ替えた家”を探って歩いている手があるということだ」


 源之丞が低く言う。


「近江屋だけでは足りぬ、と」


「うむ」


「恨みか、商売か、それとも」


「まだ両方ある」


 弥吉が小さく鼻を鳴らした。


「紙で刺して回る連中が、思ったより増えてきやしたね」


 忠相は答えなかった。

 ただ、胸の内に新しい重みが増えたのを感じていた。


 十年前の火は、ようやく一つの形で収めた。

 だがその下には、同じ理屈で動く別の家々、別の紙束、別の子どもたちの人生が眠っている。

 もし誰かがそれを一つずつ掘り返し始めたのだとしたら――それは単なる一件では済まない。


 奉行所へ戻るころには、日もかなり傾いていた。

 朝の訴えが、また別の影を引きずってきた一日だった。


 縁側に立った源之丞が言う。


「近江屋の次は、武家屋敷の養子筋。

 旦那、これは一件一件別のようでいて……」


「繋がるかもしれぬ」


 忠相が言った。


「少なくとも、同じ匂いはする」


「誰かが、名の入れ替えや養子の古い紙ばかりを狙っている」


「うむ」


「なぜ」


 忠相はしばらく空を見た。


 夕方の江戸の空は、淡く柔らかい。

 だが人の事情は、その柔らかさとは逆に、少しずつ固く絡んでいく。


「恨みだけではあるまい」


 やがて忠相は言った。


「恨みなら一つの家へ向ければ足りる。

 銭だけでも足りぬ。

 もっと別のもの――“同じ理で守られてきた家々そのもの”を揺らしたいのかもしれぬ」


 源之丞は黙って頷いた。


 そのとき、下役が表から慌ただしく走ってきた。


「お奉行様!」


「何だ」


「近江屋より使いが!」


 忠相の目が止まる。


「何事だ」


「佐吉殿が……近江屋の使いへ、自分から会うと!」


 源之丞が振り向く。


 忠相は、わずかに息を整えた。


 ようやく自分の足で立ち始めた若い男が、今度は自分から近江屋と向き合おうとしている。

 それは前進でもあり、同時にまた新しい火種でもあった。


「通せ」


 江戸の夕べは、まだ終わらない。

 そして一枚の消えた書付は、どうやら近江屋の一件を終わらせるどころか、もっと広い影の輪郭を、静かにこちらへ見せ始めていた。

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