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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第十六話 朝の江戸

朝は、どんな家にも来る。


 人が泣いていようが、怒っていようが、昨夜の秘密で胸を重くしていようが、朝は同じように戸を叩く。

 花の江戸はなおさらだ。

 魚河岸は開き、味噌屋は桶を並べ、女房たちは井戸端で水を汲み、子どもは腹を空かせて起きてくる。

 大きな嘘も、小さな揉め事も、町そのものは待ってくれない。


 奉行所の朝もまた、静かに始まった。


 夜通しの動きで皆疲れているはずだが、不思議と空気は張っていた。

 何か一つ、終わるべきものが終わったからだろう。

 もちろん、本当に全部が終わったわけではない。

 近江屋の勘定筋の整理はこれからだ。

 弥兵衛と清之介、嘉兵衛への処分も、軽く流せる話ではない。

 お滝とお紺の関わりも、佐吉の今後も、すべてはまだ途中だ。


 だが、それでも一つだけ確かなことがある。

 もう佐吉を、死んだことにしたり、盗人として片づけたり、勝手な名へ押し込んだりはできない。


 それだけで、十年前とは違う朝だった。


 佐吉は奉行所の一室で、湯気の立つ粥を前にしていた。

 食べる手つきはまだぎこちない。

 だが昨夜より目の焦点は定まっている。

 何も解決していない。

 それでも、自分がいまここに生きているという事実だけは、少しずつ身体へ戻ってきているようだった。


 お滝は別室で待たせてある。

 お紺もまた来ていたが、二人をすぐに引き合わせはしなかった。

 再会というものは、事情が重いほど、勢いでさせぬ方がよいこともある。


 忠相は縁側に立ち、朝の光を見ていた。


 空は晴れている。

 庭の白砂が明るい。

 昨夜までの闇が嘘のようだ。

 だが、人の心はそんなに簡単には明るくならない。


 背後から、源之丞の足音が近づいた。


「近江屋の件、下の者へ指図いたしました」


「うむ」


「帳場の改めは今日から。古い積み立ての筋も、表へどこまで出すか線を引きながら探らせます」


「よい」


「弥兵衛は、思ったより静かです」


「もう動けぬと知ったのだろう」


「清之介は、まだ納まりませぬな」


「納まるまい」


 忠相は少しだけ口元を動かした。


「帳場の男にとっては、十年支えてきた理屈を剥がされるのだ」


「旦那は、昨夜の裁きでよろしかったとお考えで」


 その問いは、源之丞らしい。

 ただ命令を受けるだけでなく、最後に必ず“それでよかったのか”を確かめようとする。


 忠相はすぐには答えなかった。


 朝の光の中で見る庭は美しい。

 だが美しいものを見ながらでも、人は迷える。


「よかった、とは思わぬ」


 やがて忠相は言った。


「よくなかったから、こうなった」


「……」


「十年前の夜に、もっと別の形があったかもしれぬ。

 その後の十年にも、やり直せる刻があったかもしれぬ。

 だが、どの刻でも、皆が自分の守りたいものを握って離さなかった」


 源之丞は黙って聞いている。


「だから昨夜の裁きも、胸を張れるようなものではない。

 ただ、これ以上同じことを重ねさせぬための線を引いただけだ」


「それでも、必要な線でした」


 忠相は源之丞を見た。

 武骨な同心は、いつになくまっすぐな顔をしていた。


「そうかもしれぬな」


 それだけ言って、忠相は再び庭へ目を戻した。


 しばらくして、弥吉がいつものように軽い足でやって来た。

 だが顔は少し寝不足である。


「旦那」


「何だ」


「お縫の娘っ子が、外でそわそわしてやがります」


 忠相は少しだけ笑った。


「入れろ」


 お縫は昨日までよりも幾分落ち着いていた。

 とはいえ、若い娘が一晩で大人の顔になるはずもない。

 目には不安もある。

 それでも、ここへ来ると決めた意志の色がある。


「佐吉さんは」


 開口一番、それだった。


「生きている」


 お縫の肩が、目に見えて落ちた。

 安堵だろう。

 だがそれだけではない。

 生きていると知った先に、今度はどう向き合えばよいかという別の怖さもすぐにやってくるはずだ。


「会わせるのですか」


「すぐにはな」


「……はい」


 お縫は少し俯いた。


「怒ってるでしょうか」


「誰に」


「……みんなに、だと思います。近江屋にも、お母さんにも、自分にも」


 忠相は言った。


「怒るのは自然だ」


「でも、怒って済む話じゃないですよね」


「済まぬな」


 お縫は苦く笑った。

 若い娘だが、もうそこまでは見えているらしい。


「それでも会いたいか」


 問うと、お縫は迷わなかった。


「会いたいです」


「なぜ」


「生きてるなら、生きてる顔を見たいからです」


 単純で、よい答えだと忠相は思った。

 理屈ではなく、まず生きている顔を見たい。

 人が誰かを失いかけた時、本当はそのくらい素朴な願いが一番まっすぐなのかもしれない。


「いずれ会わせる」


「ありがとうございます」


 お縫は深く頭を下げた。


 そのあと、忠相は佐吉のもとへ行った。


 若い手代は、粥を半分ほど食べ終えたところだった。

 昨夜よりはましだが、まだ目は深いところへ落ちている。


「起きていたか」


「……寝たり起きたりです」


「そういう時は無理に寝ようとせぬ方がよい」


 忠相はそう言って、脇へ座った。


 しばらく二人とも黙っていた。

 沈黙は気まずくはない。

 もう、無理に急いで結論を出す段ではないからだ。


「お前の名をどうするか、すぐには決めさせぬ」


 忠相が言うと、佐吉は少しだけ眉を動かした。


「……そんなこと、俺に決められるんですか」


「決めるのは、お前だ」


「佐之助に戻るとか、佐吉のままとか、そういうことですか」


「それも含めてだ」


 佐吉は少し考え、それから小さく息を吐いた。


「……どっちも、すぐには俺の感じがしないです」


「それでよい」


「よくないですよ。

 俺、自分の名前なのに、自分の感じがしねえって」


「よくないことを、よくないまま置く刻も要る」


 忠相は答えた。


「人は、すぐに片をつけられる時ばかりではない」


 佐吉は、意外そうな顔で忠相を見た。


「奉行様って、もっとすぐ決める人かと思ってました」


「そう見せねば、務まらぬ時も多い」


 ほんの少しだけ、佐吉の口元が緩んだ。

 それは笑いというほどではない。

 だが、昨日までの重さの中に、わずかに空気が入ったような表情だった。


「お滝は来ている」


 忠相が言うと、佐吉の顔が静かに変わる。


「……会うべきですか」


「私が決めることではない」


「……そうですよね」


「会わぬのも一つだ。会うのも一つだ」


 佐吉はしばらく考え込んだあと、言った。


「今日は、まだ……」


「よい」


「でも」


「何だ」


「生きてるって、伝えてやってください」


 忠相は頷いた。


「そのくらいは、な」


 朝の江戸はもうすっかり動き始めていた。

 奉行所の外では荷車が軋み、通りには人の声が重なっている。

 昨日までと同じように、町は今日を始める。

 だが、本当に同じ朝など一つもない。


 近江屋はこれから変わるだろう。

 変わらねばならぬ。

 お紺も、お滝も、清之介も、それぞれに昨日までとは違う朝を迎える。

 そして佐吉――いや、まだどちらの名とも決めぬその若い男もまた、ようやく“誰かが決めた人生”ではない一日目を迎える。


 忠相は再び縁側へ出た。


 朝の光はもう薄明ではなく、はっきりと庭を照らしている。

 それでも胸の内には、まだ晴れきらぬものがある。


 裁きとは、罪を定めることだけではない。

 昨夜、改めてそう思った。

 罪を数えれば終わる話ではない時、役人はどこに線を引くかを問われる。

 情に流れれば、法は鈍る。

 法だけに寄れば、人が壊れる。

 その狭間で、なお“これ以上同じことを繰り返させぬ”線を探す。

 それがたぶん、自分の役目なのだろう。


 庭先を風が渡った。

 花はまだ咲いていない。

 だが、冬の冷えだけはもう抜けている。


 その時、下役がひとり、足早にやって来て平伏した。


「お奉行様」


「何だ」


「表に、訴えが一件」


 忠相は源之丞へ視線をやる。

 源之丞もまた、わずかに息を整えた。


「どのような」


「日本橋の紙問屋にて、古い書付が一枚なくなったと」


 忠相の目が細くなる。


「古い書付」


「はい。亡くなった主人の手になるものにございますが、近ごろそれを探っておった者がいる由で……」


 弥吉が、横で小さく鼻を鳴らした。


「町はほんと、暇をくれませんねえ」


 忠相は答えず、ただごくわずかに口元を動かした。


 終わったのではない。

 江戸という町では、嘘も、情も、書付も、名も、いつだって次の揉め事へ続いていく。

 ただ、だからこそ役目は尽きない。


「通せ」


 忠相は言った。


 朝の江戸は、今日もまた何事もなかった顔で賑わっている。

 その足もとに伸びる影を拾うために、南町奉行の一日は続く。

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