第十五話 薄明の裁き
裁きとは、斬ることばかりではない。
むしろ本当に難しいのは、斬れば済む話ではない時だ。
法に照らせば罪はある。
だが、その罪をそのまま白日の下に引きずり出した時、傷つくのが真に裁かれるべき者だけとは限らない。
人はそれを“情に流される”と呼ぶこともある。
だが情に流れぬ裁きが、いつも正しいとも限らない。
夜の明けきらぬうちから、奉行所は静かに動き始めた。
佐吉は奥の一室へ休ませ、医者を呼び、湯と食を与えた。
清之介と古い帳場の男は別室に控えさせ、弥兵衛についてはすでに供述を押さえてある。
嘉兵衛もまた逃がさず置いてある。
お紺とお滝には朝のうちに再度来させるよう伝えた。
花の江戸の朝はきれいだ。
だが人の事情というものは、たいてい朝の光の下ではなおさら見苦しい。
だからこそ、どこまでを人の目へ晒し、どこからを役所の奥で留めるか、その線引きがいる。
忠相は座敷に全員を集めた。
お紺。
お滝。
清之介。
嘉兵衛。
お浜。
古い帳場の男。
そして少し離れたところに佐吉。
この場にいる者たちは、誰一人として無関係ではない。
火の夜を直接見た者もいれば、そのあと十年嘘を支えた者もいる。
情で動いた者もいれば、勘定で動いた者もいる。
皆、自分なりに守った。
そして皆、誰かから奪った。
忠相は一人ずつを見た。
「今から問う」
声は低く、無駄な力みはなかった。
だが、その場にいる誰もが、これから逃げられぬことを知った。
「お前たちは何を守ろうとした」
最初に答えたのはお紺だった。
「家を……」
声はかすれている。
「それだけか」
「……死んだ松之助の残り香を、失くしたくなかったのです」
次にお滝。
「子を、生かしたかった」
「そのために離したな」
「……はい」
清之介。
「今ある近江屋を」
「誰のために」
「……勤める者たちのために」
「佐吉はそこに入るか」
清之介は答えられない。
嘉兵衛は鼻で笑いながらも、最後には言った。
「自分の取り分と……あと、気づいてしまった真を、どこかへ突きつけたかった」
お浜は言う。
「目の前の子を、火から遠ざけたかった」
古い帳場の男は、ほとんど聞こえぬ声で、
「言いつけを守るのが、勤めだと」
とだけ。
そして最後に、忠相は佐吉を見た。
「お前は」
佐吉は、昨夜よりは幾分顔色を戻していた。
だが、まだ若いのに妙に老けた目をしている。
一晩で人はそんなに変わらぬ。
ただ、何か一つ決定的なものを知った夜のあとは、顔つきが少しだけ違う。
「……俺は」
佐吉は少し言葉を探した。
「守ろうとしたっていうより……もう、勝手に決められたくなかった」
「それは何を守ることだ」
「たぶん、自分です」
忠相は頷いた。
「その答えでよい」
そして、一人ひとりを見渡した。
「聞いたな。
お前たちは皆、それぞれに守りたいものを守った。
だが、佐吉本人だけが守られていなかった」
誰も口を挟まない。
「先代は家を守った。
弥兵衛は勘定を守った。
お紺は喪った子と家の残り香を守った。
お滝は命を守った。
清之介は今の店を守った。
嘉兵衛は真を武器にし、自分の銭と腹の虫を守った。
そのどれも、まったくの嘘ではない」
忠相はそこで少し声を落とした。
「だが、お前たちの守り方は、一人の幼子から名を奪い、その若者の足場まで奪おうとした」
お紺が目を伏せる。
お滝は口元を押さえた。
清之介は唇を引き結び、嘉兵衛は笑わなかった。
「法に照らせば、偽りはある。帳面の書き換え、過去帳の改変、欺き、脅し、虚偽の筋立て。
本来なら、すべてを白日の下に出して裁く手もある」
そこまで言うと、源之丞でさえ少し息を詰めた。
この場の誰もが、その先の意味を理解していた。
もし全部をそのまま公にすれば、近江屋は潰れる。
お紺もお滝も、嘉兵衛も、清之介も、無傷では済まない。
そして佐吉もまた、「火の夜に入れ替えられた預かり子」として町中へ晒される。
それは真ではある。
だが、真であることと、善い結末であることは別だ。
「だから線を引く」
忠相は静かに言った。
その一言で、皆の目が上がる。
「まず、佐吉を盗人として扱う筋はここで終わる。
金については、帳場の扱いに不備ありとして、失踪した奉公人への嫌疑は立てぬ」
清之介がはっと顔を上げた。
「お奉行様、それでは……」
「黙れ。お前が作った理屈は終わりだ」
清之介は口を閉ざした。
「次に、草履を置き、入水を思わせた件。
これは役所を欺いたことになる。弥兵衛の指で動いた者たちは相応に咎める」
源之丞が静かに頷く。
そこは外せぬ。
いま目の前で進行した罪は、裁かねばならない。
「嘉兵衛」
「はい」
「先代の筆に似せた文で家を脅した。
お前もまた咎めを免れぬ」
嘉兵衛は苦く笑った。
「でしょうね」
「だが帳面の中身を町へばらまく真似はさせぬ」
「……」
「お前にそれを許せば、真ではなく見世物になる」
嘉兵衛は、しばらくしてから小さく頭を下げた。
それが納得か諦めかはわからぬ。
「お紺」
「……はい」
「お前は家を守るために口を閉ざし、結果として佐吉を追い詰めた。だが同時に、この十年、ただの道具として見切ることもできなかった」
お紺の目に涙が滲む。
「今後、近江屋の跡目と勘定については、死んだ松之助名義で繋いできた筋を改める」
清之介が愕然とした顔をする。
「そ、それでは!」
「いずれにせよ、もう続かぬ」
忠相は言い切った。
「火の夜の嘘で今の帳場を支え続けることは、ここで終わらせる」
「そんなことをすれば、店が……」
「潰れるかどうかは、これからお前たちが考えることだ。
だが、もう一人の人生を勘定の下に敷いたまま続けさせはせぬ」
その言葉は、まっすぐ近江屋へ向けられていた。
「そして佐吉」
佐吉は顔を上げた。
「お前に、すぐに何かの名を決めろとは言わぬ。
近江屋へ戻れとも、お滝のもとへ移れとも命じぬ。
今は、誰の都合でもなく、お前自身がどう生きるかを決めるまでの猶予を取る」
「……そんなこと、できるんですか」
その問いは、幼いものではなかった。
今まで一度も、自分に選びがあるとは思ってこなかった者の問いだ。
「できるようにするのが役目だ」
忠相は答えた。
「少なくとも、また勝手にどこかの名へ押し込まれることはさせぬ」
お滝が嗚咽をこらえるように俯き、お紺は顔を覆った。
清之介はなお苦しい顔で黙り、嘉兵衛は視線を落とした。
結局、これが“薄明の裁き”なのだろうと、忠相は胸の内で思った。
真昼の裁きではない。
すべてを白く照らし、切って分けるには、この件はあまりに人の暮らしと絡みすぎている。
だからといって、闇のままにもしておけない。
夜と朝の間の、まだ形の定まらぬ薄明の中で、少しずつ線を引くほかない。




