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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第十四話 帳面の最後の一行

 紙は、書かれた内容だけで真を語るとは限らない。


 ときに真は、途中で切れた行や、書き直された脇書きや、末尾に残されたたった一つの添え書きに宿る。

 人は本文を整えようとする。

 整えられた文は、人の目に見せるための顔になる。

 だが、最後に急いで書き足された一行だけは、本音の手つきが残りやすい。


 本所の川沿いにある古い倉跡は、夜になると本当に骨のように見えた。


 荷を扱わなくなって久しいのだろう。壁板は剥がれ、屋根の一部も落ち、戸口には斜めに立てかけられた板が風を止めているに過ぎない。川の湿り気が柱へ染み込み、腐りと古い藁の匂いが混じって鼻を打つ。昼なら子どもも寄りつかぬ場所だ。夜になれば、なおさら人の気配は目立つ。


 弥吉が先に回っていた。


「旦那、灯が一つ」


 低く囁くその先、倉の奥に確かにかすかな明かりが揺れていた。

 提灯ではない。置き灯に近い、小さな火。

 人が中にいる。


 さらに耳を澄ませると、低く押し殺したような男の声が聞こえた。

 清之介だ。

 もう一人、年のある男の声。弥兵衛の言った“古い帳場の者”だろう。


 忠相は源之丞へ目で合図した。

 左右から回る。

 声を荒げるのは、もう少し先だ。


 板の隙間から中を覗くと、三人いた。


 一人は清之介。

 一人は五十を越えた帳場風の男。

 そしてもう一人――柱にもたれるように座っている若い男が、佐吉だった。


 顔色は悪い。

 頬はこけ、目の下に影が落ちている。

 だが生きている。

 生きて、今まさに清之介の言葉を受けていた。


「……戻れ」


 清之介の声が、低く、だが必死に響く。


「今なら、まだ何とかなる。帳面のことはお前が勘違いした、それで済ませる。店にも戻せる。お紺様も……」


「戻って、どうするんです」


 佐吉の声は、意外なほど静かだった。

 怒鳴りもせず、泣きもせず、ただ疲れ切った声である。

 だからこそ重い。


「また、俺を何でもねえ顔で帳場の前に立たせるんですか。

 何も知らないみたいに、佐吉です、って顔で」


「それがお前の居場所だ」


「それは、あんたらがそう思いたいだけだ」


 清之介の顔が歪む。


「生きる場所をやると言っているんだ!」


「誰のための場所です」


 佐吉は顔を上げた。

 その目に怒りはある。

 だが怒りより深いのは、たぶん疲れと諦めだ。


「俺のためじゃない。

 店のためだ。

 勘定のためだ。

 あんたらは、火の夜からずっとそうだった」


 忠相は、そのやり取りの中へ踏み込んだ。


「そこまでだ」


 三人が一斉に振り向く。


 清之介の顔が蒼白になる。

 古い帳場の男は舌打ちし、逃げ道を探すように身を引いた。

 佐吉だけが、しばらくぽかんとしたように忠相を見ていた。

 生きている者へ「生きていたか」と言うのは妙だ。

 だが、その場にいた誰もが、その一言を呑み込んだ顔をしていた。


「お奉行……様」


 佐吉の声は、ひどくかすれていた。


「帰る場所がないから、ここにおるのだな」


 忠相が言うと、佐吉は力なく笑った。


「帰れって言われても、どこへです」


 清之介が慌てて言い募る。


「お奉行様! どうか、この者を店へ……! あやつは少し思い詰めているだけで――」


「思い詰めさせたのは誰だ」


 忠相の声は静かだったが、その一言で清之介は口を失った。


 源之丞が古い帳場の男を押さえ、弥吉は出入口を塞ぐ。

 逃げ場はない。


 忠相は、まず佐吉の前に一歩進んだ。


「立てるか」


「……」


「無理なら座ったままでよい」


 佐吉は頷きもしなかったが、視線だけを上げた。

 その顔には、若い者にありがちな反発ではなく、もっと別のものがある。

 自分の人生の説明を、今ようやく他人から聞かされ始めた者の、どう怒ればよいかすら定まらぬ顔だ。


「お前は、火の夜の帳面だけでなく、その前の帳面も見たかったのだな」


 佐吉の目がわずかに動く。


「……はい」


「それがあれば、自分が誰であったかだけでなく、いつから“そういうふうに”見られていたかも知れると思った」


「……」


「違うか」


 佐吉は、ゆっくりと首を振った。


「違わないです」


「では見せよう」


 忠相は懐から、先ほど蔵で見つけた火の夜“前”の帳面を取り出した。

 清之介がはっと息を呑む。

 古い帳場の男も顔色を変えた。


「旦那!」


 清之介が声を上げる。


「それを、ここで……!」


「お前に決めさせる話ではない」


 忠相は帳面を開き、佐吉へ見せた。


 灯の下で、紙の古さが浮く。

 字は薄れ、ところどころ滲んでいる。

 だが肝心のところは読めた。


 ――預かり子 佐之助

 ――母 滝

 ――月々入用渡し

 ――表へ出さぬこと


 佐吉の目が、そこへ吸い付く。

 唇がわずかに開く。

 自分の顔を鏡で見るよりも重い瞬間だろう。

 自分が誰かを知るということは、ただ新しい名をもらうことではない。

 それまでの自分の暮らし全部へ、別の意味が差し込んでくることだ。


「……佐之助」


 佐吉が、ほとんど息のように言った。


「そうだ」


 忠相は答えた。


「火の夜より前、お前はその名でここにいた」


 佐吉は目を閉じた。

 その閉じ方に、泣き崩れるような感情はない。

 ただ、一度に入りすぎたものを、胸の中でどうにか置き直しているような閉じ方だった。


「その先を、もう一つ見るか」


 忠相は次の帳面――火の夜の帳面を出した。

 そこには、松之助と消された幼名、そして火の夜の慌ただしい記しがある。


 さらに忠相は、挟んでおいた別の紙を取り出した。

 それは、蔵の帳面の末尾に挟まっていた、薄い走り書きだった。

 表向きの本文には数も勘定も細かく並んでいたが、その最後の端にだけ、急いで書き足された一行があったのである。


 ――松之助の死、表へは伏す

 ――佐之助の名、ここにて終わらす

 ――家を残すためなり


 その末尾の一行こそが、今まで整えられた理屈の下に隠れていた本音だった。


 清之介が思わず一歩出た。


「それは……!」


「弥兵衛の手か、先代の手か、まだ断定はせぬ」


 忠相は言った。


「だが、この一行が示すことは明らかだ」


 源之丞も息を潜めてその紙を見る。

 弥吉は珍しく無言だった。


 佐吉は、その一行を見たまま動かなかった。

 目だけが、ゆっくりと一字ずつなぞっている。


 ――佐之助の名、ここにて終わらす。


 どんな言葉より、それは重い。

 人が死んだことよりも重い場合すらある。

 名を終わらせられるというのは、その先の人生を別のものとして生きろと命じられることだからだ。


「……終わらせた、のか」


 佐吉の声はひどく小さかった。


「俺の名前」


 忠相はすぐには答えなかった。

 代わりに、静かに言った。


「終わらせようとした者がいる」


 それを聞いて、佐吉はようやく目を上げた。


「じゃあ、俺は何だったんです」


 その問いは、火の夜から今までのすべてを一つに束ねたような問いだった。


 清之介が何か言おうとした。

 だが忠相は手で制した。


「お前たちに先に問う」


 そう言って、まず清之介を見た。


「お前は何を守ろうとした」


 清之介の喉が鳴る。


「……近江屋を」


「それだけか」


「……店に勤める者たちの飯を」


「それだけか」


「……今ある形を、でございます」


 忠相は次に、古い帳場の男へ向いた。


「お前は」


 男は苦い顔で答えた。


「弥兵衛様の言いつけを守っただけで」


「守ったのは言いつけか、勘定か」


「……勘定です」


「嘉兵衛はここにおらぬが、あれもまた自分の取り分と、真を武器にする道を守った」


 忠相はさらに続ける。


「お紺は死んだ子と家の両方を守ろうとした。

 お滝は子を生かすことだけを守ろうとした。

 お浜は目の前の子を抱いて火から遠ざけた」


 そして最後に、佐吉を見た。


「お前は」


 佐吉はしばらく答えなかった。

 長い時間が流れたように思えたが、実際にはわずかだったかもしれない。


「……何を守ろうとしたんだろうな、俺」


 その声には、自嘲も怒りも少なかった。

 ただ、ひどく疲れた若者の正直さだけがあった。


「最初は、知りたかっただけです。

 自分が誰か。

 なんで母親みたいな女の顔に見覚えがあるのか。

 なんで店の奥の人たちが、俺をたまに変な目で見るのか」


 佐吉は視線を落とし、帳面の字を見た。


「けど知ったら……俺、自分のために生かされたんじゃなかったんだなって」


 清之介が掠れた声で言う。


「それは違う……!」


「違わねえだろ」


 佐吉は初めて、はっきりと番頭を見た。


「あんたらは俺を飢えさせなかった。働かせた。飯もくれた。

 それはそうだ。

 でも、俺が俺としてどう生きるかじゃなくて、近江屋にとってどう都合がいいかで全部決めてきた」


 清之介は言葉を失う。


「……だから、消えたんです」


 佐吉はぽつりと続けた。


「死ぬためじゃない。

 あの店に戻ったら、また佐吉って顔して立つことになる。

 母親のとこに行っても、今さら“子”って顔される。

 どっちも、俺のままじゃいられない気がして」


 忠相は静かに聞いていた。


 これが、姿を消した理由だ。

 追われたからだけではない。

 自分がどこにもぴたりとはまらぬと悟ってしまったからだ。


「では、いま何を望む」


 忠相が問う。


 この問いだけは、他の誰にも答えさせてはならない。


 佐吉は帳面から目を離し、忠相を見た。

 その目には、ようやく少しだけ生気が戻りつつあった。

 真を知り、傷つき、それでもなお考えようとしている目だ。


「……決めつけられたくないです」


「誰に」


「誰にでも」


「近江屋にも、お滝にも、お紺にも、役所にもか」


「……はい」


 忠相は頷いた。


「それでよい」


 清之介が顔を上げる。


「お奉行様、それでは……!」


「何だ」


「それでは、何も収まらぬではありませぬか!」


 その叫びは、番頭としてはもっともだった。

 家を収めるには、誰かがどこかに収まらねばならない。

 だが今、この若者へまた何かの名を押し付けて収めることは、十年前の焼き直しでしかない。


「清之介」


 忠相は低く言った。


「お前たちは十年前、“収める”ために一人の名を終わらせた。

 今また同じことをするつもりか」


 清之介は言葉を失った。


 忠相は帳面と走り書きを畳み、懐へ収めた。


 答えはまだ全部出ていない。

 だが、少なくともここで一つだけはっきりしたことがある。


 佐吉は、死んだことにして片づけるような存在ではない。

 また、松之助に戻して家へ押し込むものでもない。

 この若者自身の選びを、ようやくここから始めねばならぬのだ。


「今夜は奉行所へ来い」


 忠相が言う。


 佐吉が少し驚いた顔をする。


「捕まえるんですか」


「保つためだ」


「何を」


「お前の命と、勝手に話を決められぬ時間をだ」


 佐吉は、しばらくその言葉を噛みしめるように黙っていた。

 やがて、ほんの僅かに頷く。


 その頷きは、大した動きではない。

 だが、この若者が“誰かの言う場所へ戻る”のではなく、“自分で一度足を止める”ための頷きであるなら、それだけで十年前とは違う。


 弥吉が小さく息を吐いた。


「やっと、本人の番ってわけだ」


 忠相は何も言わなかったが、その通りだった。

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