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『花の江戸、嘘の影 南町奉行・大岡忠相事件控』  作者: 御神常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第十三話 奉行の問い

 問いというものは、答えを引き出すためだけにあるのではない。


 ときに問いは、人を追い詰める。

 ときに問いは、人を救う。

 そしてもっとも重い問いは、相手に向けているようでいて、実はその場にいる者すべてへ向けられている。


 弥兵衛の隠居所は、日本橋の賑わいから少し退いた細道の奥にあった。


 商家の古番頭が隠居に入るにしては、質素すぎもせず、派手すぎもせぬ家である。表札もなく、格子は閉じられ、戸口の掃除だけは行き届いている。見た目には、ただ静かに老いを待つ家だ。だがこういう家ほど、内側ではまだ算盤が止まっていないことがある。


 戸を叩くと、しばらくして若い下男が出た。弥兵衛の名を告げ、奉行所からと伝えると、その顔色がすぐに変わる。中へ走り込んでいく足音は、家の主がただの病人ではないことをすでに物語っていた。


 通された座敷は、意外なほど整っていた。

 床の間の花は生きている。薬臭さはあるが、不潔ではない。

 そして座敷の奥、脇息にもたれた老人がこちらを見ていた。


 痩せている。

 顔色も良くはない。

 だが目だけはまだ死んでいなかった。


 帳場で何十年も金と人の顔色を見てきた者の目である。

 その目は、まず忠相を見、次に源之丞を見、最後に弥吉の顔でわずかに眉を動かした。


「……南町の」


 声ももう強くはない。

 だが、弱っているのに命令口調の名残がある。


「弥兵衛だな」


 忠相が問うと、老人は口元を歪めた。


「そう呼ばれたこともございます」


 お浜と同じ言い方だった。

 人は、過去を切り離したい時、似たような逃げ道へ入る。


「近江屋の火の夜について聞く」


 そう言うと、弥兵衛は少しも驚かなかった。

 むしろ、ようやく来たかという顔であった。


「十年遅いですな」


 その一言に、源之丞がわずかに眉を寄せる。

 だが忠相は表情を変えなかった。


「遅いかどうかはこれから決まる」


「役所の方は昔からそうおっしゃる」


 弥兵衛の目が細くなった。


「火の夜、何をした」


 忠相がまっすぐに問うと、老人は咳払いをひとつした。

 沈黙はあった。だが拒む沈黙ではない。

 どこから話せば自分がもっとも損をしないか、秤にかける沈黙である。


「何を、と申されますと」


「お前は帳場の理を、家の理として先代に差し出したな」


 弥兵衛の目がぴくりと動く。


「預かり子をただの情の置き場から、“もしもの備え”へ変えたのはお前か」


「……言葉が強うございますな」


「違うか」


 老人はしばらく忠相を見ていた。

 やがて、乾いた笑いを漏らした。


「違わぬでしょう」


 源之丞が低く息を呑む。


「松之助様のお加減が悪いのは、家の中では誰でも知っておりました」


 弥兵衛は淡々と語り始めた。


「先代様は情のあるお方でした。だからこそ苦しんだ。松之助様を生かしたい、家も潰したくない、預かり子も見捨てたくない。その三つを全部握って、何一つ落としたくないと願っておられた」


「願いだけなら人は裁かれぬ」


 忠相が言う。


「その願いをどう形にした」


「形にしたのは、私でございましょうな」


 弥兵衛はあっさり認めた。


「商家は、嫡子が死ねば、ただ悲しんで終わるわけにはいきませぬ。

 金の筋が揺れ、分家が口を出し、得意先が色を変える。

 “家”は生き物にございます。人が死んでも、それだけでは止まらぬ」


「だから預かり子を備えにした」


「最初からそのつもりだったわけではございません」


「だが途中からそう見た」


「……そうです」


 忠相は静かに頷いた。


 ここでもまた、“最初から悪意だったわけではない”という形で出る。

 それは嘘ではない。

 だが、その言い方が責を軽くするわけでもない。


「火の夜、“今ならまだ間に合う”と先代に言ったな」


 弥兵衛は、そこで初めて少しだけ驚いた顔をした。


「誰がそれを」


「見ていた者がいる」


 お浜の名は出さなかった。

 必要なのは事実の確認であって、証言者の晒し上げではない。


 老人は観念したように息を吐いた。


「……申しました」


「何に間に合う」


「家を残すことに」


 その答えは、予想どおりであり、同時に予想以上に冷たかった。


「松之助は」


「その刻には、もう……」


 弥兵衛はそこで言葉を濁した。


「死んだのだな」


「……はい」


「そして佐之助は生きていた」


「はい」


「お前は先代に進言した。

 松之助が生きている形を残せ、と」


「そうしなければ、近江屋は持たぬと申し上げました」


「それは家を守るためか」


「当然です」


「誰から」


「分家、金主、得意先、そして世間から」


 忠相は一歩も引かなかった。


「では、佐之助本人は何から守られた」


 弥兵衛は初めて、言葉に詰まった。


「……」


「答えよ」


「……食い扶持は守られました」


 弥吉が鼻で笑った。

 だが今回は茶化しではなく、軽蔑に近かった。


「食い扶持、か」


 忠相は淡々と重ねた。


「名は奪った。母からも引き離した。死んだ子の代わりとして扱い、のちに外へ出し、また佐吉として戻した。

 それで“守った”と言うのか」


「生きてはいたでしょう!」


 弥兵衛の声が初めて強くなった。

 老いてなお、帳場の男の芯がそこにあった。


「お滝に抱かせたまま外へ出せば、あの子は飢えたかもしれぬ!

 近江屋に置いたから、病にもかからず、字も覚え、働く口も持てた!

 何もかも奪ったように仰るが、生きる場を与えたのもまた我らです!」


 座敷に声が響いた。


 それは詭弁でもあるし、現実でもあった。

 だから始末が悪い。


 忠相は、そこで声を荒げなかった。

 静かに、だが一語ずつ置くように問うた。


「その“生きる場”は、佐之助が望んだものか」


 弥兵衛は返せない。


「お前は家を守った。

 お滝は子を生かそうとした。

 お紺は死んだ子と残った家の間で口を閉ざした。

 嘉兵衛は知りながら銭に変えた。

 皆、自分の守りたいものを守った」


 忠相はそこで少し間を置いた。


「では問う。

 その中で、誰が佐之助本人のこれからを守った」


 弥兵衛は、目を閉じた。


 答えはない。

 あるいは、答えられない。


 部屋の中に沈黙が落ちる。

 重く、乾いた沈黙だった。


「お前は、火の夜のあとも今の勘定にその嘘を繋いだな」


 忠相が次の問いを投げる。


「松之助名義の積み立て。

 分家筋への見せ方。

 そして今の近江屋の金の筋まで」


 弥兵衛は薄く目を開いた。


「……はい」


「なぜそこまで」


「一度ついた嘘は、途中で剥がせば一番醜くめくれます」


 老人の声は、また静かになっていた。


「火の夜のあとで戻せば、死んだ松之助様も、生かされた佐之助も、近江屋も、お滝も、皆が一度に潰れる。だから私は、もう行けるところまで行くしかないと思いました」


「それで今も押し通すつもりだった」


「……そのつもりでした」


「草履を置いたのもお前か」


 弥兵衛は一瞬目を見開き、それからかすかに首を振った。


「いいえ」


「では二通目の文は」


「それも」


「清之介か」


「……」


「答えよ」


「清之介一人ではございません」


 忠相の目が細くなる。


「誰だ」


「帳場の古い者が二人。私の指で」


 源之丞が低く声を落とした。


「やはり、お前か」


「帳面が表へ出れば、近江屋は終わる。

 佐吉が生きていると知れれば、もっと早く終わる。

 だから、草履を置かせ、入水を思わせ、帳面の返還を急がせた」


 弥兵衛は、言い逃れをしなかった。


「死人を増やしたわけではございません」


「違う」


 忠相はきっぱりと言った。


「死んだことにしたのだ。

 十年前と同じようにな」


 その一言は、老人の胸をまっすぐに打ったようだった。


 弥兵衛の顔が、初めてほんの少し崩れる。

 老いと病で崩れたのではない。

 自分がやったことの形を、他人の言葉であらためて見せられた崩れ方だった。


「……そうかもしれませぬな」


 その声は小さかった。


 忠相はさらに問う。


「佐吉は今どこだ」


「それは」


「知らぬか」


「……見当は」


「申せ」


「本所の川沿いにある、古い倉の跡です」


 弥吉が即座に言う。


「ありやすね。荷を扱わなくなって、今は半ば崩れかけたやつが」


「そこへ誰が行った」


「清之介が」


 源之丞の目が鋭くなる。


「一人で」


「古い帳場の者を一人連れて」


「佐吉を連れ戻すためか」


「ええ。説得できるなら説得を、無理なら……」


「無理なら何だ」


 弥兵衛は答えなかった。


 だが、答えはその沈黙の中にあった。


 忠相は立ち上がる。


「源之丞」


「はっ」


「本所の川沿いだ」


「すぐに」


「弥吉、お前は先回りしろ」


「へい」


 弥兵衛が後ろから、掠れた声で言った。


「お奉行様」


 忠相は振り返る。


「……私は、間違えましたか」


 その問いは、ひどく遅い。

 そして遅いからこそ、ある意味では真だった。


 忠相はしばらく老人を見ていた。

 帳場の理屈で生きてきた男。

 家を守るために一人の子の人生を計算へ入れ、その嘘を十年支え続けた男。

 悪である。

 だが、それだけで片づかぬ程度には、この男もまた自分の役目を“守り”だと思っていたのだろう。


「守ったものはあった」


 忠相は静かに言った。


「だが、その守り方で奪ったものもまた、あまりに大きい」


 弥兵衛は、もう何も言わなかった。


 奉行所を飛び出した時、夜風はかなり冷えていた。

 だが忠相の胸の内には、冷たさより別のものがあった。


 十年前、自分はこの一件を軽く見た。

 火は小さく、死人は表に出ず、家も騒ぎを収めたがった。

 その場では、深追いしないのも実務だったろう。


 だがいま振り返れば、その“実務”の外で、名が奪われ、人生が組み替えられ、十年かけてさらに嘘が増築されてきた。


 裁きの古傷とは、つまりこういうことだ。

 一度見落としたものが、あとから別の傷口を開く。


 川沿いへ急ぐ道の先、闇の中にかすかに水の匂いが濃くなってきた。

 古い倉の跡。

 そこに、佐吉がいる。

 清之介も向かっている。

 家を守る理屈の最後の手で、もう一度若い男を押し戻そうとしている。


 そして佐吉は、おそらくもう、押し戻されるだけの若い手代ではない。

 自分が何のために生きることになったのか。

 その問いに、誰もきちんと答えなかったことを知ってしまっている。


 だから今夜必要なのは、脅しでも、理屈でもない。

 問いだ。


 誰が何を守ろうとしたのか。

 誰が何を奪ったのか。

 そしてこれから、佐吉自身は何を選ぶのか。


 奉行の役目は、ここでようやく始まるのかもしれなかった。

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