第十二話 姿を消した理由
人が姿を消す時、そこにはたいてい二つの理由がある。
一つは、追われているから。
もう一つは、自分から消えなければならないと思い込むから。
前者だけなら、見つけて引き戻せばよい。
だが後者が混じると、話は厄介になる。
人は、自分がいてはいけない場所にいるのだと悟った時、誰に追われるまでもなく、自分から姿を薄くしようとする。
しかも、その思い込みが少しでも理にかなっている場合ほど、周りの手は届きにくい。
本所へ向かう夜道は、深川の湿りとはまた違う冷えを帯びていた。
川を渡る風は肌を刺すほどではないが、火照った頭を一度静かに冷ます。橋の下を流れる水は黒く、提灯の明かりを揺らして、足もとへ細い影を刻んでいた。江戸という町は大きい。だが今夜ばかりは、その大きさの中に、十年前の火の夜から逃げきれなかった者たちの気配が、妙に濃く集まっているように思われた。
お浜のいるという家は、本所寄りの外れ、小さな寺の裏手にあった。
年寄りの世話をしながら暮らしている女が借りるには、ぎりぎり人目から外れすぎず、だが賑やかな往来からは一歩退いた場所である。家は古いが、戸口は掃いてある。灯は消えていた。だが完全な寝静まりではない。人が息を潜めている家の闇だった。
忠相は戸を叩いた。
「南町奉行所だ。開けよ」
返事はすぐにはなかった。
二度叩く。
そのあとで、戸の向こうから、ひどく年を取った女の咳払いのような音がした。
「……こんな夜更けに、なんでございます」
声はしわがれている。だが、弱ってはいても鈍ってはいない声である。長く人の機微を見てきた者の声だ。
「お浜だな」
「……そう呼ばれたこともございます」
「開けよ」
ややあって、戸が細く開いた。
現れた女は、七十に近いだろうか。腰は曲がり始め、髪も白い。だが目だけは妙に澄んでいた。若い者のような鋭さではない。多くを見て、見たまま胸へ沈めてきた者の、静かな澄み方である。
「お入りなさいまし」
中へ通されると、家は狭いがきちんとしていた。
奥では寝付いた老人の寝息がかすかに聞こえる。どうやら本当に介抱の口で暮らしているらしい。こういう家は、余計な人間が出入りするには向かない。だからこそ、隠れ場所にもなる。
忠相は座るなり問うた。
「佐吉はここへ来たか」
お浜はすぐには答えなかった。
囲炉裏の消え残りを見つめるように目を落とし、やがて言った。
「来ました」
源之丞が一歩進む。
「今どこにいる」
「ここにはおりません」
「どこへ行った」
「……それを申したら、あの子はまた捕まって、同じところへ押し戻されるだけではございませんか」
忠相は静かに言った。
「その“同じところ”へ戻したい者と、そうでない者がいる。私はまず、あの若者を生かしたまま見つけたい」
お浜は忠相の顔をじっと見た。
「それは、十年前の夜にも聞きたかった言葉でございます」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。
老女はただ事実を知るだけの者ではない。
火の夜に、役所の浅い目や、家の都合や、女たちの泣き声の全部を、その場で見ていた者の言葉だ。
「では、今聞こう」
忠相は言った。
「火の夜、何があった」
お浜は長く息を吐いた。
「松之助様は、もう長くはないと、家の中では皆わかっておりました」
「いつからだ」
「火の夜のずっと前からにございます。咳は強く、お腹も弱く、熱も引いたり戻ったりで……。医者も、乳母も、奥方様も、皆それぞれに手を尽くしてはおりましたが」
「預かり子・佐之助は」
「最初は、本当に哀れんで引き取ったのだと思います」
「最初は、か」
「ええ。お滝はどうにもならぬ身の上で、子を抱えて泣きついてきた。先代様は情のあるお方で、それを見捨てられなかった。だから、しばらく家の奥に置いた」
「だが途中から違った」
お浜は頷いた。
「松之助様のお加減が悪くなるにつれ、家の中の目が変わって参りました。あの子を、ただの預かり子としてではなく、“もしもの時に動かせる子”として見る目に」
源之丞の顔が険しくなる。
「誰がそう見た」
お浜は少し迷ってから答えた。
「先代様と……帳場の古い者にございます」
「清之介か」
「いいえ。あれはまだ若すぎました」
「なら誰だ」
「弥兵衛様です」
弥吉が思わず顔を上げる。
「弥兵衛?」
「先代様の代から、勘定の奥を握っていた古番頭にございます。数年前に病で倒れ、今は店には出ておりませぬが……」
忠相の目が細くなる。
ここで新しい名が出た。
清之介より前。
火の夜当時、帳場の理屈を先代へ差し出せる立場の男。
嘉兵衛が“帳場ってのは冷てえもんでね”と言った時、その冷たさを実際に形にしたのはこの弥兵衛だったのかもしれぬ。
「弥兵衛は何をした」
「松之助様がもし亡くなった時、分家や得意先へどう見せるか、どう金を動かすか、先代様へ進言しておりました」
「預かり子を使え、と」
「言葉ではそこまで申さぬでしょう。けれど、そういう理屈でございました」
お浜は囲炉裏の灰を見たまま続けた。
「家というものは、情だけでは立ちませぬ。先代様も、それをよく知っておられた。だから苦しんだのでしょう。
松之助様を生かしたい。
佐之助を哀れとも思う。
だが同時に、家を潰すわけにはいかぬ。
そこへ弥兵衛様が、“いざという時の形”を先に作っていったのです」
忠相は黙った。
これでまた一つ、切り分けが進む。
守りたいと願った者。
その願いを帳場の理屈へ変えた者。
その結果を実行に移した者。
十年前の夜は、皆が曖昧に絡んだ一塊ではない。
役割が少しずつ違う。
「火の夜、佐之助を蔵前へ移したのは誰だ」
「私にございます」
老女はあっさり言った。
「奥は松之助様のことでいっぱいでした。火の手も上がり、女中衆は水と薬とでてんでんばらばら。あの子を奥に置けば、かえって危ないと……そう思って、私が抱いて蔵前へ」
「その時、入れ替えの考えはあったか」
「私にはございませんでした。けれど、先代様と弥兵衛様の間には、もう半ばあったのでしょう」
「なぜそう思う」
「火が収まるより先に、弥兵衛様が『こっちの子はまだ誰にも見せるな』と申しました」
源之丞が低く問う。
「“こっちの子”とは」
「佐之助でございます」
「その時にはもう、松之助が危ないと」
「はい。奥方様は松之助様へついておられ、お紺様も半ば取り乱しておられた。そこへ、弥兵衛様が先代様へ何事か囁き……」
「聞いたか」
「はっきりとは。けれど、『今ならまだ間に合う』と」
忠相は目を閉じた。
今ならまだ間に合う。
それは命を救う言葉にも聞こえる。
だがこの場では違う。
家を立て直す筋が、まだ間に合うという意味だ。
「そのあと、どうなった」
「松之助様がお亡くなりになりました」
「佐之助は」
「私が抱いておりました。泣いておりました」
「お滝は」
「その夜は呼ばれておりませぬ。あとから知らされました」
「お紺は」
「最初は嫌がっておられました。ひどく嫌がっておられました。けれど、松之助様を失ったその場で、家の行く末まで一度に押しつけられ、最後には何も言えなくなられた」
お浜の言葉には、お紺への庇いと、しかし見てしまった冷たさの両方があった。
「先代は」
「泣いておられました」
その一言は、妙に重かった。
「泣きながら、『この子を生かす』と」
忠相は静かに聞いていた。
先代は、冷酷な帳場の化け物ではなかったのだろう。
だが、泣いたからといって、やったことの冷たさは減らない。
むしろ、情があったぶんだけ、その情を帳場の理屈へ繋げてしまった歪みが深い。
「お浜」
「はい」
「佐吉は今夜、ここへ来たか」
老女は頷いた。
「夕刻に」
「何を話した」
「自分は何のために生きることになったのか、と」
忠相は目を伏せた。
やはり、そこへ辿り着いている。
「お前は何と答えた」
「最初は、そんなことは考えるなと申しました」
「なぜ」
「答えれば、あの子が立っている床まで抜けると思ったからです」
「だが、答えたのだな」
「……はい」
「何と」
お浜は、老いた指を膝の上で握りしめた。
「私は、あんたは死んだ子の代わりに選ばれたんじゃない、と申しました」
源之丞が眉をひそめる。
「違うので」
「ええ。あの子は、最初は本当に哀れまれて預けられた。そこまでは真です。
けれど途中から、あの子が“もしもの時の備え”として見られ始めた。
だから、火の夜に選ばれたのではない。
火の夜より前から、じわじわと、あの子は“そういうもの”に変えられていったのです」
忠相は低く言った。
「つまり、姿を消した理由は、火の夜の真相だけでは足りなかった」
「はい」
「もっと前から、自分の生き方そのものが人の算段の中へ組み込まれていたと知った」
「それで、あの子は黙りました」
お浜の声もまた低くなる。
「怒るより先に、黙りました。
その黙り方が……松之助様に似ておりました」
忠相はその言葉を静かに受け止めた。
皮肉な話だ。
入れ替えられた幼子は、育つうちに、死んだ子に少し似た黙り方まで身につけたのかもしれない。
人は名前だけでなく、見られ方によっても形作られる。
「そのあと、佐吉はどこへ」
「川の方へ」
「一人でか」
「はい。私が止めても、『今は誰の顔も見られねえ』と」
源之丞が言う。
「では、川岸へ置かれた草履は」
「おそらく、あの子が自分で脱ぎ捨てたのではありますまい」
お浜は首を振った。
「あの子は死ぬために消えたのではない。生きたまま、自分がどこにも属していないと悟ったから、顔を見せられなくなったのです」
そこへ、外で足音が近づいた。
弥吉が障子の向こうで小さく咳払いをする。
「旦那、近江屋の古番頭、弥兵衛のこと、少し掴みやした」
「入れ」
弥吉が入ってきて、低く言った。
「病で店を退いたって話でしたがね、体は弱ってても頭は死んじゃいねえ。今も店の古い勘定のことじゃ、時々清之介が相談に行ってるって」
「どこにいる」
「日本橋から少し外れた隠居所で」
源之丞が顔を上げる。
「火の夜の帳場の理屈を知ってる男が、まだ生きている」
「うむ」
忠相は立ち上がった。
これでようやく見えてきた。
守った者。
奪った者。
そしてその中で、情を理屈へ変えた者。
先代は情と家の間で揺れた。
お紺は喪と罪悪の中で口を閉ざした。
お滝は生かすために手放した。
お浜は目の前の子を抱いて蔵前へ移した。
嘉兵衛は知りながら自分の取り分を取り、その後で真を武器に変えた。
そして弥兵衛は、おそらくそのすべてを“勘定の理”へ組み替えた。
それぞれが少しずつ守り、少しずつ奪った。
だからこそ、誰か一人のせいでは済まない。
だが同時に、“誰のせいでもない”と流してよい話でもない。
「お浜」
忠相は最後に言った。
「佐吉は生きている。お前もそう思うな」
「はい」
「ならば見つける」
老女は深く頭を下げた。
「……どうか、あの子に『どこへ戻れ』とは仰せにならないでくださいまし」
その願いは、お滝のものとも、お紺のものとも違っていた。
母の情でも、家の都合でもない。
ただ、火の夜に一度抱いた子が、もう誰かの“代わり”としてではなく、生きられる場所を持ってほしいという願いだった。
忠相は短く頷いた。
「戻すために見つけるのではない」
それだけ言って、外へ出た。
夜はまだ深い。
だが、真の輪郭はかなり見えてきた。
佐吉が姿を消した理由は、単に自分が預かり子だと知ったからではない。
火の夜に名を失ったからだけでもない。
もっと前から、自分の人生そのものが、病弱な嫡子を抱えた商家の“備え”として見られ、育てられ、必要に応じて名と立場を与えられてきたと知ってしまったからだ。
それは、人によって守られた結果でもある。
だがその守りは、同時に奪いでもあった。
生かされた。
けれど、自分として生きることは許されなかった。
その事実に気づいた時、若い手代が姿を消すのは、もはや逃亡ではなく、ほとんど自然なことに近い。
源之丞が並んで歩きながら言う。
「旦那、次は弥兵衛ですな」
「うむ」
「そこを押さえれば、火の夜から今の勘定へ続く理屈の骨も出る」
「そして、佐吉を死んだことにしたい手の輪郭もな」
「清之介だけではない」
「おそらくな。弥兵衛が今も口を出しているなら、草履や二通目の文の筋もそこへ繋がる」
弥吉が鼻で息を鳴らす。
「古狸がまだ帳場の裏で生きてるってわけで」
「そういうことだ」
火の夜の歪みは、情だけでは生まれない。
情を利用する理屈があって、はじめてあの形になる。
それを考えついた者が誰か。
そして今なお、それを守ろうとしている者が誰か。
次に問うべき相手は、もう明らかだった。




